パトリックの訓練
アタシはなぜか今、学院内の運動場で制服ではなく、シャツとパンツを着せられてパトリックと向かい合っています。
昨日、寮に戻ろうとしていたところにパトリックがやって来て「鍛えてさしあげます。明朝、運動場。動きやすい格好で」とだけ言って去って行ったのだ。突然のことに何が起きたかも分からず唖然としてしまって、断るタイミングを逃したのだ。だから、言われた通りの時間に来るしかなかった……。
なぜか、パトリックのお誘いを受けていたときに居合わせた、フロリアンたち平民仲間もサミュエルもシルも遠巻きに見守っている。嫁入り前の女性が男性と二人きりになるなど、言語道断らしい。
アタシとパトリックチーム以外のみんなは、和気あいあいと楽しそうだ。正直そっちに混ぜてほしい。
サミュエルは、言葉の通り男性と二人きりはよくないと言うことと、無茶な鍛え方をされないか心配してくれているようだ。フロリアンは、純粋に騎士見習いの訓練風景を見たいようで目を爛々とさせて、アタシたちの方から視線を離さない。カンタンとセヴランとシルはにからかい目的で、アニーはサミュエル目的だと思う。
それよりもなぜ、アタシが鍛えられることになったのかを知りたい。シルからは、パトリックは騎士見習いらしいと聞いたけど「あぁ、なるほどね! だからかー」とはならない。抱き上げられた感触から鍛えているのは分かっていたけど、なぜアタシを鍛えることになったのか。
思っていたより大人数で現れたはずなのに、全く動じずパトリックは「では始めます」と言った。
「その前にお聞かせいただきたいのですが、なぜわたくしは鍛えていただくことになったのでしょう?」
「先日、崖から落ちかけられたので、少しでも腕力を付けた方が良いかと思いまして」
なんだ、その理由は。アタシがまたノコノコと崖に赴くアホの子だとでも……? いや、これは受けておいた方がいいのかも。アタシのバッドエンドの記憶に崖下への落下がある限り、鍛えるに越したことはないかもしれない。
アタシは気合を入れて、胸の前でクロスした腕を背中側に勢いよく引いた。
「お願いしゃーす!!」
……静かになってしまった。現世ではこういう気合の入れ方はしないらしい。
アタシの勢いに気圧されたのか、パトリックの動きが止まった。パトリックの目の前に手を差し出してひらひらと振ってみると、ハッとしたように意識を取り戻した。そして、なにごともなかったかのように真顔で言った。
「ではまず、基礎体力の確認からします」
そう言って、パトリックにさせられた基礎体力の確認は、前世の学校でした体力テストみたいなこと。「飛べ」と言われてジャンプ力を目測で計られたときは正直吹き出しそうになった。「飛べ」って!! そんなこと前世でも現世でも言われたことがない。
握力テストではパトリックの手を力いっぱい握らされて、その大きな手にちょっとドキドキした。
体力テストの間、サミュエルはハラハラとした様子で見守ってくれて、シルは口元に拳をあててほくそ笑んでいるようだった。フロリアンはじっと、研究するように体力テストの様子に見入っていて、アニーはチラチラとサミュエルを盗み見しているのが分かった。
カンタンとセヴランは「公爵家令嬢の底力をみせてやれ!」「なんだ、なんだー? その程度か!?」「赤ちゃんかよ!!」などと、それは楽しそうに野次を飛ばしてきた。
一通り体力テストを終えると、パトリックが少しだけ片眉を上げて言った。
「十段階中二くらいのレベルですね」
「あの、確認ですけど、一がすごく優秀で十が拙劣なんてことは……」
「我々騎士見習いを除くと、一が四十歳くらいの体力で十が年齢に対して優秀 といったところでしょうか」
「……わたくし今何歳くらいなのでしょうか?」
「机上作業が主な方の三十五歳くらいですかね」
そんな! 現世での寿命は五十過ぎくらいなのに、三十五歳くらいとなるとアタシめっちゃ体力ないじゃん。おばあちゃんじゃん!
これでは崖どころか、階段を二段踏み外したくらいで死んでしまいそうではないか。
「……それは由々しき事態ですね。ご指導お願いいたします」
「はい。ですが、今日はこれで。授業も始まりますから」
「あざぁーした!!」
運動部員が如く勢いよくお礼を言って、一度湯あみのために寮に戻ろうとするとセヴランとカンタンが近寄って来た。
「お願いしゃーす!!」
「あざぁーした!!」
ニタニタとからかうようにアタシの言葉を真似る。アタシはニコリと微笑み「乙」と言ってみた。それはどういう意味の言葉かとしつこく聞かれたが教えない。大人の対応だ。いつまでもからかわれてばかりではない。言葉の意味を考えて考えて、釈然としない気持ちをしばらく抱えていればいい。フンだ。
ルネに髪を洗ってもらっているときに、はたと気が付いた。
あれ? 攻略対象であるパトリックとこれから毎朝訓練することになった? ヤバくない?
そう言えば、なんだかんだとダニエル以外の攻略対象といつも一緒にいる。これ、マズいんじゃない?
……前のアタシならしない言動を心がけているはずだから大丈夫、だよね?
***
「お願いしゃーす!!」
静かな早朝の運動場にみんなの声が響く。気が付くと、みんなも訓練に加わることになっていた。サミュエルとシルとアニーは見学だ。
授業が始まる前にパトリック指導のもと、走り込みや筋力トレーニングをする。いつしか、運動場のベンチでみんなと朝食を摂るのも日課となっていた。
アタシの筋力も随分上がったと思う。最初は腹筋連続三回が限界だったのに、今では十回もできるようになった。そのうちムキムキになってしまうのではないかと不安になるくらいだ。そう聞くとパトリックは微かに頬を緩めた。
「大丈夫ですよ。そうなるためのトレーニングとはまた違いますから。リュシエンヌ嬢にはあくまで基礎体力を上げるトレーニングをしていただいています」
「そう。それなら良かったわ。あまりに筋骨隆々となってしまうと、淑女としては少々みっともないですからね」
言葉数も少なく、表情もあまり変わらないパトリックだけど、聞けば丁寧に教えてくれる。なぜ、こんなに自分の時間を割いてトレーニングに付き合ってくれるのか聞くと、クッキーのお礼だと言った。
剣士見習いのトレーニングもしたいだろうにクッキーくらいで……律義な人だ。
これはもうクッキーを上げただけではお礼にならないと思い、朝食を準備したのが、みんなと朝食を摂ることになったきっかけだった。
パトリックは黙々と、サミュエルとシルとアニーはマナー良く食べて、フロリアンとセヴランとカンタンは貴族の食事が珍しいのか、マジマジと眺めて一口食べると安心したようにガツガツと食べた。
フロリアンとパトリックは日々仲良くなっているようだった。昼休み中も一緒に過ごすことが多くなり、フロリアンは剣術や馬術について質問しているようだった。
みんな仲良くてなによりだ。その中にアタシもいる。こんなに大勢で楽しく過ごすなんてこと前世でもなかった。素直に嬉しい。
そんなある日、アニーにこっそりと呼び出されて、中庭で落ち合うと、宮廷伯の受験のため推薦状を書いてもらえないかと打診された。アタシの父よりシルの父の方が昔ながらの付き合いで、推薦状にも信憑性が増すのではないかと伝えると、にこやかに「お願いしてみるわ」と言った。
どうやら、城に入ってサミュエルの嫁の座を虎視眈々と狙う計画はまだ続行中らしい。
アニーの逞しさと、目標のためならなりふり構わず何でも使う姿勢は好ましい。王とは違って有言実行のために粉骨砕身するとは見上げた根性だ。見ていて元気をもらえる。
まぁ、なりふり構わず使われたのはアタシだけどね……。
和やかに学院生活を送っていたころ、叔父からの手紙が届いた。当初、ビニールハウスの輸入を留学の言い訳に考えていたけど、フロリアンに不十分と言われたので、プレタールの農業を安定したものにするために、リンネルに留学して農業の研究をして、プレタールに還元したいと伝えていたのだ。
最初の手紙に書いた『貿易について勉強したい』よりは、留学の目的が研究になったし、具体性も増したのだから、学生らしい言い分になったし、アタシの勉学への意欲も殊更伝わったと思う。
リンネルは他国との国交が盛んでプレタールより技術も知識も発展的であるため、どの角度から攻めても言い訳が立つのが素晴らしい。なんだかんだと攻略対象と仲良くなってしまっている今、二学期には国外脱出していることがなにより優先される。
返事の内容としては『自国のためにそこまで考えているのが素晴らしい。留学は国同士の取引になるため、両国の国王陛下の許可もいる』というものだった。そういう根回しは全てやってくれるそうだ。
やった! 死亡フラグ回避はもう目の前!
叔父の手紙を確認したアタシは、前世の記憶を取り戻してから初めて心から安心して、学院生活を楽しめることとなった。
もう誰も何も怖くない。ははははは。笑いが止まらない。
中庭で一人、花を愛でるフリをして、クスクスと笑っているとシルに話しかけられた。
「気持ち悪いんだけど。何一人で笑ってんの?」
「別に。毎日楽しくて!」
自然と顔からはみ出そうなくらいの笑みが顔全体に拡がっていく。
「へぇー」
シルは、アタシの満面の笑みを珍妙そうに目を細めた。
「まぁ、いいや。アニーから相談されたんだけど、城で働きたいんだってな」
「うん、そうみたいね」
「なんか、コソコソやってるとは思ってたけど、ダニエルと接触してたのもそのため?」
「そういうわけではないんだけど……」
公爵令嬢が平民に使われていたとは、恥ずかしくて言えない。アタシはそっとシルから視線を逸らす。
「ははっ。嘘ヘタすぎじゃね? 随分いいように使われてたんだな」
「その言い方はわたくしにもアニーにも失礼よ。……お友達としてちょっと協力しただけだもの……」
アタシは親指と人差し指で数ミリ程度の隙間を作って見せた。本当にちょっとだけだ。
「アニーは強かなところがあるから、温室育ちのお嬢様には敵わないだろうな」
シルをキッと睨みつけて、話しかけてきた真意を問い質す。
「いや、宮廷伯はアニーには無理だよ。せいぜい下女かな。リュシーも予想はついてただろ?」
「……まぁね。でも国王陛下も……いえ、なんでも」
「誰にでも平等に職業選択の権利をと言いながら、平民にはその権利を得ることができないシステムになってるって?」
思っていることを正確に言い当てられて思わず目を見開いた。
「ははっ。仕方ないさ。お役目の成り手にも限りがある。力のある者から、その席が埋まっていくのは当然だろ?」
「そうだけど……」
「それでこれが本題。なんでアニーは城に入りたいんだ?」
……前世のときみたいに勝手に他にアニーの気持ちをバラすわけにもいかない……。
「さぁ。でも、平民は少なからずこの学院で貴族と縁を持って、貴族に雇われたいと思っているんでしょ?」
「それはそうだけど、アニーの城入りは些か一足飛びのような気がして。城だぞ? 貴族の屋敷じゃないんだぞ? せいぜい下級貴族の屋敷の下女くらいが妥当だろ」
「そうなの? 箱入り娘だから、よく分からないわ」
「箱に収まってはないと思うけど」
アニーの秘密を守るために恍けただけなのに、馬鹿にしたように笑うシルの顔にムカついているとサミュエルがやって来て、少し二人で話があると言った。グッドラック! とでも言いたげに親指をたててニタつくシルを、不快そうに見送ったサミュエルが口を開く。
「……以前は犬猿の仲だとおっしゃいましたが、やはり僕にはシルとリュシエンヌ嬢は随分と仲が良いように見えます」
「そんなことはないと思いますけど」
本当にそんなことは断じてない。勘違いも甚だしい。ハッキリ言って不愉快極まりない。
「シルのことは愛称で呼んで、砕けた言葉で話していらっしゃるではありませんか」
「……シルは家格も同等ですし、その、シルがそういう方なので」
仲良しだからフランクな付き合いをしているわけではないと言っておく。どちらかと言うとシルはアタシにとって天敵の位置にいる。ちょっと気を抜いたら何を言わされているか、何をやらさせられているか。本当に気が抜けない。
「僕とも、そのような付き合い方をしていただけませんか? 平民やシルに対してと同じように」
平民という言葉を聞いて、サミュエルに確認しておきたいことがあることを思い出した。王子相手にそんな関わり方できないとは言えるはずもなく、しれっと話題を変えた。
「そう言えば、サミュエル殿下は平民のことをどのように思っていらっしゃるのですか?」
「どのように、とは?」
「以前は、平民に対して、その、差別的であるように見受けたものですから」
「差別的、ですか?」
サミュエルが驚いたように目を丸くする。予想外のことを言われたとでも言いたげだ。
「はい。以前『平民にしたら貴方は公爵家令嬢、随分と上の階級にあたります』とおっしゃっていたでしょう? 差別的な意見と感じましたし、そのあとも、王族としてあるまじき発言だったとお認めになられました」
サミュエルはアタシの質問の意図を理解したようで、二、三度頷いた。
「……差別的な考えが全くないとは申しません。身分差をなくしたいといくら公言したところで、現状身分差があるのは事実ですし、力のある者がそれを一足飛びになくそうとすると軋轢が生まれます。それは意図するところではありません。ですから、今の状態をある程度維持することも大事なのです」
「つまり、緩やかに世の中を変えていく必要がある、と?」
「えぇ、そうです。それに、父の第五夫人は平民の出自なので、僕も平民のことを全く知らないというわけではないのですよ」
今までアタシが有限不実行と軽蔑していた陛下に既に平民のご夫人がいたなんて! なんで誰もその事実を知らないのか。
驚いて目を白黒させていると、サミュエルが口元に人差し指を立てた。
「国王が身分階級をなくすと公言しているうえ、平民を娶ったことが世間に知れ渡ると貴族への圧力ともなるでしょう。ですから公にはしていないのです」
サミュエルが言うには、あのときアタシが差別的と思った発言には、平民側の心境も考えるようにという忠告もあったそうだ。王族に囲まれた平民の夫人が王宮の環境に慣れず、また他の夫人との交流で苦労していることを知っているから、近づきすぎるのも迷惑なのでは、と思ったそうだ。
「そうなのですね。わたくし随分と誤解していたようです。……学院に来るまでは自分は何でも知っていて、どんな風にも行動できると思っていたのです。……お恥ずかしい限りです」
『井の中の蛙大海を知らず』とはアタシのことだ。自嘲気味に笑うとサミュエルは、眩しいものでも見るように目を細めてアタシを見つめてきた。
「そんなことはありません。リュシエンヌ嬢のおかげで僕も平民と話すことができ、随分と視野が広がりました」
「そう言っていただけると、幾分救われます」
お互い誤解が解けて微笑み合っていると、サミュエルがすぅっと表情を引き締めた。
「シルのことをどのように思っていらっしゃるのですか?」
は? シルのこと? なんでここでシルの名前が出てくるの?
意味が分からないアタシは頬に手をあて首を傾げる。
「どのようにとおっしゃいますと?」
「その好意的に見ていらっしゃるのか、と」
「そうですね……。以前も申しましたとおり犬猿の仲、もしくは天敵、ですかね?」
「……天敵?」
「えぇ。気が付くとシルの掌の上で転がされているのです」
あのなんでもお見通しという感じが腹に据えかねるのだ。だけど勝てる気がしない。
「確かに。彼は人心を掌握するのに長けていますからね」
サミュエルは安心したようにクスクスと笑った。
「サミュエル殿下は、シルと親しいですよね? どのようにお付き合いしていらっしゃるのですか? よければ参考までに教えていただけませんか?」
「そうですね……。なるべく余計なことを言わないように、顔に出さないようにしています。だけど、見抜かれていると感じることが多いので、もういっそ腹の内を見せてしまった方が楽なのではと思っているところです」
「はぁ。サミュエル殿下でもそうなのですね。わたくしは早々に諦めて腹の内を見せてしまったうえで、掌で転がされているから、もう転がされ続けるしかないですね」
シルが飽きてくれるまで、と心の中だけで呟いた。
しかし、王族にすでに平民の夫人がいるということはアニーの未来は明るい。アニー頑張れ、とここにはいないアニーにエールを送る。
「パトリックの訓練は大変ではないですか? お困りでしたら僕から言いますが」
「いえ。力がついてきたのは喜ばしいことです。わたくしも公爵家の者ですから、いつ何時危険な目に合うか分かりませんもの。もう少し訓練が進んだら護身術の訓練をお願いしたいと思っているくらいですのよ」
「……それなら良いのですが」
「サミュエル殿下もお城では、鍛錬していらっしゃるのでしょう?」
「そうですね。他国から攻められたときのためにも剣術や馬術は王族にとって必須ですから」
「まぁ。素敵ですね」
アタシが顔の前で手を合わせてそう褒めると、サミュエルはそれは嬉しそうに笑った。
それからしばらく、サミュエルと早朝の訓練や授業のこと、平民たちの暮らしの向上について話した。サミュエルから逃げることを考えずに楽しく話せたのは初めてかもしれない。国外逃亡の確約はアタシを自由にしてくれた。




