この程度の記憶が何になる
それは一瞬の出来事でした。
わたくし、ミシェーレ公爵家令嬢のリュシエンヌは、壇上で新入生代表のスピーチをする見目麗しい青年に目も心も奪われたのです。プレタール国の第一王子、サミュエルに。
ブロンドのふわふわした猫っ毛に、鮮やかな碧の切れ長の瞳。その上の理知的な眉。スラリと伸びた手足。絵画のモデルになりそうな容姿に、朗々とした低めの声。品の良い佇まい。
その完璧な容姿に目は奪われ、凛としたよく通る声は聴覚を奪います。「ほぅ」と艶っぽいため息が講堂のあちこちからも聞こえます。
「好き」
ただ一つの感情が胸を熱くして、同時に自分の手中に収めたいという欲求が、サミュエルを見つめる秒毎にいや増しました。王子に嫁ぐなんて面倒で不幸の極み。不幸なことこの上ないと思っていたわたくしの感情が、サミュエルを見た一瞬で塗り替えられました。
これが一目惚れというものなのでしょう。
「お嬢様は王妃候補にあられます」
ふと屋敷で、側仕えのルネが言っていた言葉を思い出します。
……アレ、わたくしのものにできるのではないかしら?
誰もが思わず振り返るような美しい容貌のうえ、王妃候補と目されているわたくしです。殿下もわたくしを意識していることでしょう。こちらからわざわざ何かしなくても、あちらから寄ってくるに違いありません。
だけれど、相手は一国の王子です。今も講堂内に響き渡るため息が競争率の高さの表れ。確実にわたくしのものにするためには、他の追随を許さないくらいの積極的な接触はもちろん、父経由の根回しも必要です。隣国の姫に婿入りした叔父さまも利用できることでしょう。
そう思案しながらサミュエルを見つめていると、目が合いました。お互いの視線がきつく結ばれたように、わたくしたちは見つめ合い続けます。とたん、ふと、あれ? と思いました。
なぜか既視感を覚えたのです。
その既視感に囚われていると、数多の情景が土砂降りの雨のように脳内に降り注ぎました。処理できないほどにそのスピードは加速して、頭の中が情報という名の雨水で埋め尽くされて行きます。
そして、処理不能と言わんばかりに、わたくしの意識は遠のいたのです。
***
少女が大きなキャンバスのようなものを見つめながら、板についたボタンを押しています。
そのキャンバスの中には精密に描かれて動く、サミュエルとわたくしがいます。キャンバスの絵は変わり、こげ茶の肩までの髪に濃い緑色の瞳の少女とわたくしは二人きりになりました。髪の長さが肩までなので、その少女は平民なのでしょう。
わたくしと平民はなぜか崖にいます。
あ!
わたくしが平民に短剣を持って襲い掛かりました! 平民はわたくしの奇襲から逃れようと抵抗を続けます。突然、襲いかかられたのだから当然です。わたくしはなぜ、平民を襲ったのでしょう。
自分でもどこの表情筋をどのように動かしたのか想像もつかないくらいの険しい顔です。何をそんなに憤っているのでしょう。わたくしは。
平民の抵抗の末、わたくしは崖から落ちて死んでしまったようです。サミュエルの後ろ姿と、しとしとと泣く平民の姿に絵が切り替わり、BAD ENDと表示されました。それも当然でしょう。平民なんかよりずっと価値の高いわたくしが、身分階級の最下層である平民に殺されてしまったのですから。
……それにしても謎だらけです。なぜわたくしは平民なんかを襲ったのでしょう。正直、わたくしの意識下に平民風情が入って来るとは思えません。
「あーあ。また最初っからやり直しじゃん」
わたくしの脳裏に、乱れた言葉遣いの声が響きます。
『じゃん』とは何なのでしょう……。
次にそのキャンバスには、わたくしとサミュエルが出てきて、おもむろに剣を抜いたサミュエルにわたくしは切りつけられました。わたくしは死に、サミュエルと先程の平民は抱擁を交わし、HAPPY ENDという文字が出てきました。
わたくしが死んだあとにHAPPY ENDとは、なんということでしょう。確かにそう思っているのに、わたくしは達成感に溢れた感情を持っています。
……なぜわたくしは、見たことのないHAPPY ENDという文字の意味が分かるのでしょう。
「やったー! 王子攻略完了!」
先程の『じゃん』と言った声が再び聞こえてきました。
キャンバスの中で、どちらもわたくしは死んでしまったのですが、それほどショックではありません。至極冷静な気持ちです。
これが悪い夢だと分かっているからでしょう。そうでなければ、夢とはいえ自分の死を目の当たりにして達成感など得られるはずがありません。
そろそろ夢から覚めましょう。
わたくしは目覚めようと、瞼を開こうとしますが、開きません。まだ眠っていないといけない時間なのでしょうか。
なんとか起きようともがいていると、目鼻立ちのくっきりとした、けれど扁平な顔立ちの少女が出てきました。その少女は黒髪のロングストレートに、黒い瞳をしています。それとは対照的に黄みがかった白い肌をしています。
その少女は顔を両手で覆いながら涙声で呟きました。
「信じてたのに……」
きっと、仲良しの親友に裏切られたのでしょう。
……仲良しの親友? なぜわたくしはそう思ったのでしょう。こんな異国の少女など知るはずがないのに。
なぜか、この初見の異国の少女のことが気になります。なぜ彼女のことを知っている気がするのでしょうか。
なぜ、なぜ、なぜ?
頭の中の色が変わっていくような違和感でいっぱいになります。
……そうだ! アタシは、日本で生まれ育った片山千尋という十六歳の高校生だった。そして、今のアタシは、その時にしていた乙女ゲームに出てくる悪役令嬢!! 王子ルートで死んでしまうリュシエンヌ・ミシェーレだ!
そしてまた、千尋時代にも死んでしまったのだ。それまで健康上の問題など何もないアタシだったけど、ある日唐突にガンシューティングゲームをしていたとき、突然の心臓発作で。
パチッと目が覚めて、バッと飛び起きた。今度はちゃんと目覚めることができたようだ。
「お嬢様。大丈夫ですか? 入学式の途中で倒れられたのですよ? 覚えていらっしゃいますか?」
ルネの声だ。ということは、ここはプレタール国。リュシーの方の世界だ。
「うん。覚えてるよ。急に目の前が真っ白になってビビったよー」
「ビビった……? 倒れたときに頭でも……?」
しまった! 千尋の口調で喋っちゃった!
「いえ……。覚えております。急に意識が遠のいて……。初めてのことに少し気が動転してしまって……」
「そうですか……。体調はいかがですか? どこか痛むとか、吐き気がするとかはございませんか?」
「えぇ。どこもなんともありません。……少し休みます。一人にしてくださる?」
「仰せのままに。不調を感じられましたら、すぐにお呼びくださいませ」
ルネはベッドサイドのベルを掌で示すと、恭しく一礼して退室した。
こうはしていられない!
アタシは扉が閉まるのを確認して、バサッと布団をめくり、ベッドから出ると紙とペンを準備した。
前世の記憶、主に乙女ゲームの中での悪役令嬢の末路について思い出せるがまま書き出す。
まずは王子ルートのHAPPY END。王子を確実に自分のものにしようとした悪役令嬢は、隣国を巻き込んだ犯罪まがいの根回しをした。そして、周りを固められて嫌気がさした王子に、諜報活動をしたと処刑される。
BAD ENDでは、王子の心を奪う平民に嫉妬で逆上したアタシが、平民を襲い、抵抗した平民に揉み合いのすえ崖から突き落とされて死ぬ。
……あれ? ……終了? アタシの前世の記憶これで終了?
……そうだった。この乙女ゲーム、王子ルートしかしていないんだった。親友に勧められて始めた乙女ゲームだったけど、プレイ中にその親友が裏で操っていたクラスメイトにイジメられたのだ。それが悲しくて悔しくて、もう何も思い出したくなくてソフトごと破棄したんだった。
どうしよう。対策練れないじゃん!!
何かないか。確かプレイ前に説明書を読んだはず。……攻略対象は……五人。そうだ! 五人だった! 名前は……。思い出せない……。
なんとか記憶をひねり出そうと必死で記憶を探った。そして、ハッとする。確か、その乙女ゲームはそのとき流行っていた海外のアイドルグループとのコラボ企画。攻略対象はそのままアイドルグループの名前と性格を模していたはず。
親友だと思っていた子が好きだったアイドルグループで何度も聞かされた。確か……。
王子はサミュエル・プレタール。眉目秀麗でいつも柔和な笑顔を浮かべ、耳触りのいい言葉を吐いて温和な性格に見せかけている。しかし実際は、幼少期に信頼していた使用人の手引きで誘拐されかけた過去のトラウマのため、他人とは一定の距離を保ちたい根暗。
二人目は、シルヴァン・デュホォン。こげ茶色のストレートヘアにグリーンとグレーが混じったような瞳の色。楽しいことが大好きで好奇心旺盛な小動物系。
三人目は、フロリアン。黒髪に茶色の瞳。陽気で面倒見のいい優しい性格。
四人目、ダニエル・オンドリィ。紺色の髪に水色の瞳。徹底したレディーファーストに、女が喜ぶような言葉を、息をするように吐けるナンパな男。
五人目、パトリック・シモン。黒に近いこげ茶の髪に茶色の瞳。物静かで我慢強い。日本の侍に憧れていて、侍魂の影響を強く受けている。
……またしても記憶が終わりを告げてしまった。アイドルに興味のなかったアタシは話半分に元親友の話を聞いていたから……。
それに、アタシの記憶力には偏りがある。勉強面ではその能力を遺憾なく発揮するけど、それ以外の記憶力には自信がない。たぶん、正解のないもの、論理的ではないことに関しての理解が難しいのだ。それも興味がなかったり、覚えたところで自分の利益にならないことなら尚更。
自分の記憶のショボさに死の足音が聞こえてくる気がした。
ふいに、スマホのSNS画面にいろんな言葉が並ぶ情景が頭を過る。
「どのルートでも、だいたい死ぬクソ令嬢乙」
「リュシエンヌ邪魔すぎ。さっさと逝け」
「悪役令嬢働きすぎワロタ」
「ハッピーもバッドもだいたい死ぬ草」
元親友と語り合いたくて、早くクリアしようとネット検索しまくっていたときに見たSNSだ。
その時は悪役令嬢だいたい死ぬんだー、なんて呑気に思っていたけど。
……アタシ、だいたい死ぬんだ……。
……蝶よ花よと育てられて快適な生活を送っているのに、死ぬなんて絶対に嫌。……王子ルートを思い出すかぎり、アタシがしそうなことをこのまま実践していくと死ぬ運命にあるってことよね。
現にアタシ、王子の前では本音を隠して、いい子ぶりっ子しながら陰で四方手を尽くそうと思っていたもん。欲しいものが手に入らないなんてことがなかったアタシだ。手に入らなくなったときに怒りに狂って逆上したとしても無理はないかもしれない。
……自分のことは自分が一番よく分かっている。
だけど、困ったことに、よくよく思い返してみても、前世と現世でそんなに性格変わらないと思う。前世でもかわいくて成績も良くて、それを誇りに思っていたことを隠しもしていなかった。かわいいと言われれば、知ってるって思ったし、そう言ってた。頭いいねと言われれば「一度習うと覚えちゃうんだよね。なんでみんなは分からないの?」と質問返ししていた。
元親友との亀裂も、彼女が好きな男子がアタシに告白してきたことが発端だ。親友の好きな男子と付き合えないと返事したら、その男子が怒って元親友に「なんで俺を好きになったんだ。迷惑だ」と言いに行ったのだ。
その後からのアタシの高校生活は酷いもんだった。聞こえるように文句を言われたり、教科書に落書きされたり、糊でくっつけられてページを捲れないようにされたり、下駄箱の靴は水浸しだったり、画鋲が詰まっていたり……。
当時は、アタシ何も悪くないのに! と思っていたけど、公爵令嬢として淑やかさを身に付けることを強要された今なら分かる。アタシ、だいぶアレな性格だった。
でも、それも仕方ないのかもしれない。
前世のアタシの母と姉はアタシと容姿がそっくりで、同じような被害にあったことがあった。だけど『何があっても自分は悪くない』が合言葉の家族の励ましの言葉は見事なものだった。
「こっちだって好きでかわいく生まれてるんじゃないのに、やっかみもいい加減にしてほしい」
「そんな、人を使っていじめてくるような女、顔に性格の悪さが出てるんだから、千尋がいなくてもフラレてたわよ」
今思えばさすが、としか言いようがないが、当時は一欠片の疑いもなく納得していたのだ。そんな猛者たちに支えられていたのだから、自分を顧みることができなかったのだと思う。
だけど今のアタシは違う。公爵家令嬢として、少なくとも対外的には本音を出さないようにしているはずだし、その時々で必要ならおべっかだって言うことができる。
それでもアタシは死ぬらしい。千尋よりはいくらもマシな性格になっているはずなのに。
これはもう為す術なしということに他ならない。
確か王子は夏休み後の二学期、乗馬の授業で平民とペアを組んだことがきっかけで平民を意識するようになるはずだ。
ということは、アタシは、夏休み後からの二年半のキュレール学院生活の間のどこかのタイミングで死ぬことになる。
……決行は夏休み中。根回しの準備は今日から。
逃げるが勝ち。国外逃亡といこうじゃない。