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失って初めて気付く恋心の小説  作者: 辻野深由
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マリーゴールド (4)

 奥の手というのは、単にエリナの診察を止めるようにしただけのこと。


 その存在だけは知っていた、最寄り駅から少し離れた場所に位置する大学病院。


 外科や内科の他にも精神科があることを初めて知った。

 大学の偏差値だけを見ればさして入学するのは難しくもなさそうだが、医者になることは相当な困難を極めることくらいは容易に想像がつく。まして精神科医なんて、勉強ができて体力もあってメスの腕さえ良ければ免許を持てそうな外科医よりよっぽど難易度が高そうに思えた。人と向き合い続けるなんて、ただただ辛いばかりだ。少なくとも雨宮には最も向いていない職業だろう。


 秋葉の母親が精神科医だと知ったときは驚いた。

 そのついでに秋葉も目指しているのかと聞いてみたら、「あたしには無理。他人のことは好きだけど、他人の人生まで背負う覚悟なんて持てないから」ときっぱり言ってのけた。


 だから、やはり雨宮が秋葉に抱いた直感と苦手意識は正しかった。

 彼女の人なつっこさや人との距離感は母親譲りなのだろう。


「……さて、どうするかな」


 覚悟。


 そんなもの、雨宮にはこれっぽっちだって持ち合わせがない。


 自分の人生にだって何一つ責任を負えない餓鬼が、数年後、成人式を迎えたら他人の人生まで背負って生きていく。大半はそうやって成長していくのだろうし、世間的にはそれが真っ当な生き方なんだと認識されていることだということくらいは分かっている。異性と付き合うとか、結婚するとか、子供を育てるとか、そうやって一家の大黒柱になっていくとか。あるいは秋葉の母親のように、他人の人生に深く関わっていくこととか、将来を大きく左右してしまう職業に就くとか。


 そういう一切合切を、雨宮は想像しないようにしていた。

 自分自身のことで精一杯だし、他人の生き方に干渉してもいいことなんて一つもない。人間関係なんて必要最低限でいい。人生がほんの少し豊かになるなら、その程度で充分。それはいまだって何も間違った考え方ではないと思っている。


 けれど。


 どれだけ強い信念を抱いていても、人間はときにそれをねじ曲げてでも動かないといけないときがあるんだろう。


 例えば、これから先の小一時間のように。




「エリナを連れてくるから待っていて」と秋葉に言われた雨宮は、彼女が待ち合わせ場所として指定した病院の屋上で時間を潰すことにした。建物のなかには当然ながら病人がいる。あまり居心地のいい場所ではなかったし、あの独特な匂いも苦手だ。


 初めて訪れた病院の屋上に、テレビドラマで見るような風景はどこにもなかった。だだっ広いコンクリートのうえに、背もたれがついた木製のベンチが三脚ほど寂しく設置されているだけ。身長を優に超える転落防止の柵の向こうは夕焼け色に染まっている。春も終わりの時期とはいえ、流石に少しだけ肌寒くなる季節だった。


 ぼうっと空を眺めていると、がちゃ、と屋上ドアが開く音がした。振り返る。


「……なんだ、悠二か」

「なんだってことないだろ。ほら、缶コーヒー。いるか?」

「無糖だよな?」

「おうとも。これは奢りじゃねぇからあとで金返せよ」

 頷いて、夏目が放った缶コーヒーを両手でしっかり掴まえる。自販機で適度に温まったスチール缶のプルタブを開けて、口を付けた。苦さと暑さが喉元を通りすぎて、胃の中で掻き混ざる。溜息を一つ零して遠くを見つめた。

「で、覚悟は決まったか?」

「さてな」


 口からついて出た言葉とは裏腹に、そんなものは少しだってありはしない。


「エリナがどうなったって、俺は少しだって責任を取れないし、取るつもりもない。あいつが勝手に助かるか、俺を見限って諦めをつけるか、それだけだ」

「つくづくひでぇ男だな。自分のことなのに、どこまでも他人事みたいに考えて」

「俺の中ではもうとっくのとうに終わったことだからな」

「自分の気持ちも伝えてないくせによく言うよ」

「なんでもかんでもひけらかすことを青春の美徳なんて考えるの、俺は嫌いなんだよ。口にしないと伝わらない言葉もあるけど、口にするのが野暮な感情だってあるんだ。気持ちを全部吐き出してハッピーエンドになるなら誰だって苦労はしない。それにさっき言ったろ? もう取り返しのつかない所まできちまったんだ。どうあがいたって元通りにはならない」

「だったら少しくらいは奇跡ってやつを望んでみたって罰は当たらないんじゃねぇの?」


 なるほど、そういう考えもあるか、と純粋に思った。

 そんな思考回路で物事を捉えたことはなかった。これ以上最悪になることがないのなら、針の穴を通すような一発逆転を狙っていくのは、確かに選択肢として有用だろう。


 けれど、大前提として、そんな選択肢は取りようがない。


「……奇跡って、なにさ」


 思わず、口から漏れていた。


「なにがどうなれば奇跡なんだ」

「そりゃあ、ハッピーエンドだろ」

「どんな状況を幸せと呼べるのか、それが分からない」

「相思相愛だったらいいんじゃねぇの。そうなら万事解決だろ」


 雨宮は曖昧に頷いてみせる。

 お互いに好きなだけでいられたら、それは確かに奇跡なのかもしれない。


 だけど、それだけは絶対にあり得ない。


 夏目が口にしたことは、死んだ人間が生き返る確率と同じくらいに起こりえないことだ。


 愛には必ず負の感情が交じる。

 それは憎しみであり、嫉みであり、妬みであり、期待の裏返しであり、望みとは正反対にあるものだ。

 不純で、どろどろとして、いつまでも得体の知れないしこり(・・・)のように残り続けて、未熟で多感な心を蝕むもの。


 好きという感情だけで、人は愛し合えない。


「……さて、そろそろ戻るわ。真田がうじうじしてるらしくてな、秋葉に助けてって呼ばれちまった。とりあえずそっち優先するから、ここでもうちょい待ってろ」


 落下防止の柵に背中を預けていた夏目が缶コーヒーを飲み干して、ベンチに座る雨宮の横を通り過ぎる。


「なぁ、悠二」


 ドアの開く音を掻き消すように、雨宮は大きな声で呼び止める。

 遠ざかっていた足音が止まった。


「なんだ」

「また明日な」


 驚いた顔を浮かべて、けれどすぐに朗らかな表情へと戻る。

 それが自然なものだったのか、それとも意図的なものだったのかは分からない。


 ただ、そういう仕草ができるこの男は、雨宮の理想と友達というラインをきちんと弁えていた。


 だから、どこまでも憎めない。


「おうっ、そんじゃーな」


 屋上を後にした夏目の背中を見送り、雨宮はベンチに深く腰を落ち着ける。

 それから数分が経っても、肝心のエリナがやってくる気配は微塵もない。どうやら秋葉と夏目は彼女を屋上まで連れてくることに難航しているらしかった。

 暇を潰すためにSNSを立ち上げると、それこそ先月から待ちに待っていた情報が飛び込んできた。


「ようやく新曲出すんだ」


 High Twilightが新しいシングルの発売を発表していた。直近のライブでも発売が近いからと先行で披露されていたロックナンバー。仮タイトルだったものがそのまま正式なシングルのタイトルとして採用されていた。



『真心をきみに送ろう』



 なんてクサい題名だろう。彼らの良いところではあるけれど、それにしたって、もうちょっと捻ってくれたって良かったんじゃないかと思う。しかも、あの歌の歌詞に真心なんてフレーズは込められていない。


 あれは、どこまでも本心で語り合えない男女の恋模様を語った悲恋の歌だ。


 ジャケットに映える夕焼け色のマリーゴールド。

 なんて皮肉な花言葉だろう。


 穏やかな風が雨宮の頬を撫でる。眼前に浮かぶ夕焼け。

 ジャケット写真のマリーゴールドによく似ている。


 そいつの花言葉は、いまの雨宮とエリナにはとてつもなくお似合いだ。


 いよいよ暇つぶしをする手段もなくなって、スマホをポケットに突っ込む。

 それと同時、タイミングよく視界の先にあるドアが軋むような音を上げた。


「…………ようやく来たか」

「……………………っ。ごめんね、待たせちゃって」


 伏し目がちに現れたエリナが、取り繕うように病的な笑みを浮かべた。

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