言わなくたって分かる――あれは少し嘘だ。
準備は滞りなく、万全だ。
とにかく大事なのは、何があっても油断をしないこと。
万が一の事態になっても即応できるだけの心の余裕を保つこと。
そして、喧嘩などしないこと。
白澄高校の校内図は完璧に頭の中に入っている。
鞄を背負い、家を出る。
少し重たい鞄だが、今回ばかりは仕方がない。
強度に多少不安はあるけれど、ほんの一瞬でも有用であれば充分だ。
どうせ壊れるのだから期待はしていない。
――ゴールデンウィークの初日だというのに、一体何をやっているんだろうか。
そんな思考が過ぎる。
白澄高校まで続く道を歩きながら、虚しい気分になる。
どうせ無為に過ごすだけだったのだから、一日でも予定が入ったことをむしろ喜ぶべきなのかもしれない。
「……早く終わらせないとな」
靴を鳴らし、灼けるようなアスファルトを進む。
夏日だった。
黒装束のような服装だから、日差しがとにかくきつい。頭が沸騰しそうだ。
澤野への怒りが心の奥底で燻っている。
ただの私怨だ、こんな感情は。
有り体に言って、雨宮は澤野のことを羨ましいと感じてしまったのだ。
これは、報復とか正義の執行とか、そんな綺麗で真っ当なものではない。
現場には秋葉もエリナも呼ばなかった。
全てが終わったら連絡するから高校には来るなと、そう伝えてある。「結果をこの目で見届けたい」とエリナは懇願したが、その願いを許すわけにはいかなかった。
なぜなら、これから澤野とすることは喧嘩ではない。
一方的な暴力だ。
惨めを晒すなんてこと、できるはずがない。
「……さて」
白澄高校に到着する。フェンスを隔てて向かいに見える旧校舎。昨日と何ら変わりない、いっそ静謐にも似た閑寂が迎えてくれた。
警備員の巡回は旧校舎まで回ってこないことを雨宮は知っている。
そして、旧校舎裏に張り巡らされたフェンスの一角、そこに鍵の掛かっていない非常口があることも。
周囲に誰もいないことを確認して、フェンスをこじ開け忍び込む。
あれだけ事件のことで厳重な警戒態勢が敷かれているにもかかわらず、幸か不幸か、この古びた出入り口だけは忘れ去られたかのように放置されているようだった。
昨日、秋葉と身を隠した倉庫裏に辿り着く。
鞄から数本のポリカーボネイトパイプを取り出し、大きな音を立てないよう慎重に接合。ぱきり、という短い音を数回鳴らし、一メートルほどの細長いパイプに仕立てる。
黒いマスクとサングラスを装着して、息を整える。
あとは澤野が待つ中庭へ行くだけだ。
後戻りはできない。
新校舎までの道のりを、網目を掻い潜るように慎重に進む。
警備員の巡回ルートも監視カメラの位置も全て把握している。
正門から正規の手続きを経て侵入しているわけではない以上、身柄を捕捉されるわけにはいかない。
スニーカーを履いてくれば良かったな、と少しだけ後悔する。
昼間といえども部活動も停止して微塵も活気のない校舎は靴音一つすら目立った。
監視カメラもそうだが、堂々と待ち構えているであろう澤野にだって見つかるわけにはいかない。
息を殺しながら十五分ほど進んだところで中庭が見えてくる。
「…………いた」
中庭に設置されたベンチに、澤野が座っている。
雨宮に背を向けて、スマホを弄くっているようだった。
周囲を見渡す。
澤野以外に、人の気配はない。
やがて十三時が迫る。澤野は微動だにしない。
ベンチに座ったまま、律儀に喧嘩相手を待ち続けている。
その所作をみて、雨宮は確信する。
澤野は一人でやってきたのだ。
そして、本気で、一対一喧嘩をするつもりなのだ。
なんて馬鹿馬鹿しい。
あまりにも愚昧だ。
結局、彼は優等生だった。
真面目で、どこまでも正直な人間だった。
こうして喧嘩の土俵に上がってくるのは、心のどこかでエリナのことを捨てきれないからだろう。
別れを切り出したのはいいものの、諦めが付けられなかったからだろう。
自分が喧嘩から逃げたなんて噂を嫌ったからだろう。
負けても彼を擁護してくれる誰かに甘えるだけの交友関係があるからだろう。
そこまで想像したら、心のなかに小さく蟠っていた罪悪感が消えていくようだった。
澤野はそういう勝ち組の存在。
真っ当に日向を歩み続けてきた人間。
容赦する必要なんてどこにもない。
嫌がるエリナにあそこまで迫っておいて、善人であるはずもない。
秋葉が言うとおり、あれは猿だ。
躾のなっていない欲望まみれの発情魔。
日向を歩く悪人。
ならば、痛めつけてでも矯正させるしかない。
ゆっくりと澤野の背中に迫る。
すぐに振り下ろせるように、パイプを握った腕は振り上げたまま。
足音は殺す。
息も殺す。
敵意すら殺して、躙り寄る。
澤野は振り返らない。
このまま脳天にパイプを直撃させれば、軽い脳震盪くらいは起こせるはず。
想像するだけで愉快だった。
湧き上がる破壊衝動。
気分が高揚する。
残り、一メートル。
どんだけ鈍いのだろう。
かえって心配になる。
危機感がなさすぎる。
このままじゃ、マジで死んじゃうぜ?
「――ッ」
ほんの少しだけ殺意を込めて、ポリカーボネイトパイプを振り下ろす。
「――が、あっ!?」
しくった。狙いを外した。
ごきり、と鈍い音が中庭に響く。
彼の右肩に直撃したパイプが少しだけ歪んだ。ばぎっ、と嫌な音が続く。
見れば、痛そうに右肩を押さえる澤野がスマホを地面に落としていた。
面倒事にしたくはない。
澤野の正面に回り込むと、ブーツでスマホを蹴り飛ばす。
高価な電子機器が一瞬にして壊れたガラクタへと様変わり。
これで助けは呼べない。
ああ、楽しい。
愉快だ。
「て、めぇ、一体なにし――ひっ!?」
「…………」
憤怒に塗れた澤野の顔が、雨宮を視認した直後、一瞬にして青くなる。
無理もない。
目の前に立っているのが、身長にして180センチにも迫る、黒装束に黒マスクとサングラスを掛けた、窓ガラス割りの犯人に一致する外見なのだから。
「な、なんで、こんな真っ昼間に、てめぇが――」
雨宮は無言でベンチにパイプを叩きつける。
澤野の悲鳴にも似た声を、がんっ! という鈍い音が掻き消した。
会話など無用だ。
「ひぃ!?」
澤野は半べそをかきながら逃げだそうとしているが、どうやら腰が抜けているらしい。
警備員を呼ぼうにも、あまりにも突然の事態に叫ぶことすらままならないといった様子だ。
それをいいことに、雨宮は全力でパイプを叩きつける。
腹部、
胸部、
脚部、
左肩。
何度か殴りつけたところでポリカーボネイトパイプがおかしな方向に曲がる。
喧嘩をするにしては整いすぎていた服装は見る影もない。
「や、やめろ……っ、こ、殺さないでくれぇ……っ」
澤野は完全に怯えてしまい、情けない声で譫言のように繰り返している。
「…………はっ、あっ……」
ダメ押しとばかりに、腹部へもう一発。
澤野が白目を剥き、泡を吹く。
ざまぁみろ。
警備員がくる気配は一向になかった。
どうやら澤野は運に見放されているらしい。
とにかく、これでいい。
私怨による裁きは終わった。
「エリナにはもう、近づくなよ」
聞こえているはずもない。
ただ、吐き捨てずにはいられなかった。
成敗が終わったあとの中庭には、静寂が戻っていた。
ひしゃげた凶器を片手に、来た道を引き返す。
拍子抜けしてしまいそうになるほど、全ての工程はつつがなく完了した。
あとは何事もなかったかのように、日常に戻るだけ。
そう確信していた、次の瞬間だった。
「えっ、」
旧校舎へと続く、新校舎と体育館の間を走る隘路。そこから、声がした。
嫌な汗が、一気に噴き出した。
首だけを、声のしたほうへ向ける。
いるはずのない人影が、雨宮を見て硬直していた。
サングラス越しに目が合う。
「な、んで……」
雨宮の喉から、からからに乾いた声が漏れる。
思考が止まる。
やばい。
逃げなきゃ。
弁明しなきゃ。
想定外だ。
言い聞かせて、約束したはずなのに、どうして。
背筋が震えた。手元からポリカーボネイトパイプが零れて、地面に転がる。脚が動かない。動き出せない。陽光に煌めく豪奢な金髪が、まるで静止画のように突風に巻かれてきらめいたまま、止まって見える。
「…………その格好は、なに?」
「…………っ」
「そのブーツ、ライブでしか、履かないんじゃなかったの?」
「――っ!」
無意識に身体が動いた。
身を翻し、脱兎の如く逃げ出す。息が上がる。嗚咽が込み上げてくる。
胸元を何度も叩いて肺を無理矢理動かす。
足音が出る。気にしていられない。
くるしい。酸素を求めて、マスクを外す。
サングラスをポケットに突っ込んだ。灼けるような日差しが、まるで罪を暴くかのように煌々と降り注ぐ。
脳天が灼けるように暑い。背中に刺さる視線が、痛い。
昔から追いかけっこは得意じゃなかった。
後ろから聞こえてくる駆け足が、徐々に大きくなっている。
追いつかれるのは時間の問題だった。
けれど、捕まるわけにはいかない。
なんとか旧校舎までやってくる。間抜けな警備員はいない。
校舎裏は変わらない静けさを保っている。
静寂を切り裂くように一息に駆け抜けた。
追いかけてくる足音はしつこい。
フェンスをこじ開け、敷地を出る。
とにかく撒く。
それしかない。
捕まれば、きっと酷いことになる。
閑静な住宅街に響く二つの足音。
ゴールデンウィークの初日。
ここら一帯に住んでいる人は皆、出掛けてしまっているのだろう。
誰ともすれ違うことはない。
迷路のように入り組んだ小道を延々と走る。
なのに、追いかけてくる足音は一向に遠くならない。
それが歯がゆい。
「それ以上行ったら危ないよっ!」
そんな声が聞こえた。
なにが危ないというのか。
これ以上の危機なんて、人生でもそうそう遭遇することはない。
戯れ言に耳を貸すなんて馬鹿な真似はしない。
隘路を抜けると、国道とも繋がる大きな通りに出た。
逃げる方角を見定めようと左右にかぶりを振る。
「なっ――」
文字通り、息が止まった。
赤いランプを点滅させる白黒の車があった。
咄嗟に身を引いて路地に戻る。
歩道にいた警官が、こちらを見ていたような気がしてならない。
やばい。
捕まる。
どうすればいい。
言い訳を必死に考える。
……無理だ。
アリバイを証明してくれる存在なんてどこにもいない。
LINEにも、白澄に行くことが窺えるチャットの記録が残ってしまっている。
ああ、そうだ、そのメッセージを消さないと。
証拠を隠滅するために、秋葉とエリナにも協力してもらわないと。
「もう、逃げられないよ」
パニックに陥った頭が勢いよく揺さぶられる。
遅れて、殴られたのだと分かった。
こめかみががんがんと悲鳴をあげる。
痛覚で頭が割れそうだった。
「警察に捕まりたくないでしょ。そんな格好じゃ遅かれ早かれ捕捉されちゃうよ、レオ」
へたり込んだ雨宮の腕を取り、強引に引っ張り上げる華奢な腕。
もう、観念するしかない。
「ウチに来て。事情、全部説明してもらわないと気が済まない」
能面のような無表情で、エリナが雨宮の腕を引っ張る。
もう、腹をくくるしかないようだ。




