9、欠陥人形
今年の春は遅いようだ。もう三月も中旬を越えているというのに、庭の春の花は頑なに花びらを開こうとしない。
早く咲いてくれないと、私は満開の花々を見ることなくこの屋敷を出て行かなければならなくなってしまう。
スタンレイがここを辞め、同時に私の婚約者となる日が決まった。間近に迫ったその日を控え、私は自分でも言い表せない複雑な、どちらかというと負に近い感情に苛まれていた。
アイシェはそれをマリッジブルーだと言う。
正式に婚約をすればスタンレイは先に実家に帰り、私は少し遅れてそれを追いかけ、そして彼の住む区の教会で結婚式を挙げることになっている。
そしてこの屋敷に帰ってくることはほとんどないだろう。
そう思うと寂しくて、私は時間があれば庭に出て、幼いころは窓から眺めるしかなかった広大な花園を歩き回っていた。
「まだ蕾ばかりですね」
「そうね」
後ろからついてきているダーナに返事をして、私は屋敷に向かって踵を返した。
今日はあと一回ダーナの授業を聞いて、母様の客人を一緒にもてなすことになっている。その後外部からマナーの先生が来て、礼儀作法の最終確認をしてもらう。平民に嫁ぐからこそ、貴族などこの程度かと思われないために。
ダーナは必要な水準には充分達していると言ってくれたが、不安な私は結局来てもらうことにした。
「……頑張らなきゃ……」
つい口にしてしまった呟きが、ダーナには聞こえたらしい。
「充分頑張っていらっしゃいますよ」
「……最近よく褒めてくれるね」
「ええ、本当によく頑張っていらっしゃるので」
「あなたにそんなに褒められたら、嬉しくて泣いてしまうわ」
涙を拭うふりをして目元に触れ笑う。ダーナはぴくりとも笑わない。
「フローレンス様、最近、少し」
その時、ダーナの声を遮るように数人の男の大きな笑い声が聞こえてきた。
私達が死角になっているらしい場所にいるのは、厩の下男達だ。
休憩中なのか三人の男はだらしなく地面に座り込んでいて、私はちらりと背後のダーナを振り返った。
案の定、規律に厳しい彼女は眉を吊り上げている。
ダーナのお小言が飛ぶであろう彼らに同情しながら歩いていると、またしても巻き起こった笑い声のあとに「そういえば」という声が聞こえた。
「アーリス様が出ていく日が決まったんだろう?」
スタンレイの名にぴくりと体が強張った。
「あの人も可哀想に。十年も旦那様に尽くしたってのに、最後に欠陥人形押し付けられるだなんて」
血の気が下がる。すぐに気付いた。欠陥人形。私の話だ。
隣にいる私に聞こえるくらい、ダーナがぎりりと歯を鳴らす。悪魔の形相のまま彼らの前に飛び出そうとした彼女の手首を掴む。
使用人の取るに足らない噂話、陰口だ。いちいち相手にしていたらきりがない。
そのまま彼女の手を引いて逆方向に踵を返したが、声は容赦なく聞こえてくる。
「いやそうでもないらしいぞ。持参金がものすごい額らしい」
「へえ、じゃあ大金も手に入って貴族との繋がりもできるのか」
「おまけにいっとう可愛がってた末姫さんを物にして、社長ともなりゃ女なんかわんさか寄ってくるだろうし、子ができないならよそで女作る口実も十分」
「はは、実は上手くやったんだなあの人も」
下卑た笑い声に、とうとう私は動けなくなった。
ダーナが普段ならありえない乱暴な動作で私の手を振り払い、駆け戻って下男達の前に飛び出す。
「このっ、下衆共が!!」
ダーナの金切り声のあとに、ひっと息を呑む音が私にまで聞こえた。
下男たちはようやく、ダーナに腕を振り払われた格好のまま固まっている私に気付いたらしい。その顔が一瞬にして真っ青になる。
「お、お嬢様……!」
「今のは、その」
引きつる男たちに向かって、ダーナは短鞭を頭上高く振り上げた。
「ダーナ、待って……!」
その言葉も虚しく、鞭が鋭い音と共に男たちの顔を打ち付ける。
「そのような下劣な言葉を! フローレンス様に聞かせるなど!!」
ダーナの鞭の音と「お許しください!」という悲鳴が響く。
止めようと足を踏み出して思いとどまる。私が下手をして怪我でもしたら、ダーナが責任を取らなければならなくなる。
「誰か、来て……!」
大声を上げたつもりが、弱々しくて鞭の音にすら負けそうだ。
私は震える足で人を探して駆け出した。屋敷の中ですぐに見つけたフットマンに、ダーナと下男が揉めていることを伝える。慌てて駆けていった彼らについていこうとしたが、足が竦んで動かなくなってしまった。
胸元で指を組む。
分かっている。
スタンレイの実家がスタンレイと私の結婚を認めたのは、主に持参金と領主の娘という肩書きがあったからこそだ。そうでなければ、長男の息子がいるとはいえ跡取りのスタンレイに子供も産めない女を充てがうなんて無謀はなかなかできないだろう。
それはいい。彼らの言うとおりだ。それはどこに嫁いでもそんなものだ。
しかし。
スタンレイは、私以外の女の人と子供を作るつもりなのだろうか。
そんなこと、考えたこともなかった。
他人に言われなくたって分かっている。この体は子供すら産むことのできない欠陥品だ。
それなら、彼が外で子供を作ってきたって、その子を引き取ると言ったって、なんならその子の母親を一緒に住まわせると言ったって、私には何も口出しをできる権利はないのだろうか。
彼がこの結婚を受けたのは、子供なんて私以外の女といくらでも作れると思ったからだろうか。
「お嬢様」
その声にギクリと顔を上げる。小走りでやって来たのはスタンレイだ。
いやまさか、彼がそんな事を考えているなんて思えない。私の知っているスタンレイなら、絶対にそんな事はしない。
そして、私の知っているスタンレイが彼の全てではない事は、痛いくらいに理解していた。
「何やら騒ぎが起きていると……」
そこまで言って、スタンレイは速度を上げて私に駆け寄り肩を支える。血の気が引いているのが自分でも分かる。きっと真っ青なのだろう。
その手から逃れるように後ろを振り向いて、庭へ出る扉を指さした。
「私は何ともない。ダーナが、私の事で下男達と揉めていて。誰かが酷い怪我をしないうちにどうにかしてあげて」
指さす方を向いて、彼はまた私に視線を戻す。
「早く」
急かすように言うと、彼はまた迷ったように視線を忙しなく行き来させ、唇を引き結んだ。
「壁にもたれて、ここにいてください。すぐに人を寄越します」
肩をぎゅっと掴んで壁に押し付けて、それからスタンレイは駆けて行った。その背中をよたよたと追ったが、すぐにメイドが飛んできて部屋まで連れて行かれてしまった。
随分と事が大きくなってしまった。
私が落ち着いていることを確認してからメイドが出ていって、少ししてアイシェが母様の客人が来訪したことを知らせに来た。ダーナはどうなったのか教えてもらえず客人をもてなして、そして入れ違うように礼儀作法の指導を受けた。いつもそばで見守ってくれているダーナはいなかったが、上の空でも合格点をもらえるほどには私は進歩したらしい。
ようやく解放されて、アイシェに様子を見てきてもらえるようにお願いする。
すぐに帰ってきたアイシェは、ダーナには怪我はないことと、顔にミミズ腫れ程度の怪我を負った下男三人は大人しく事情を話していると教えてくれた。
かばう気にはなれないが、よりによって本人に聞かれてしまうなんて運の悪い三人だ。これだけ大きな騒ぎになってしまった。恐らく解雇になるだろう。
「何か温かいものでもお持ちいたしましょうか?」
「……そうね。お願い」
頷いたアイシェが顔を上げた時だ。部屋をノックする音が聞こえて私達は顔を見合わせた。
「はい」
返事をして、アイシェが扉を開く。立っていたのはスタンレイだった。
頭を下げて、スタンレイは有無を言わせない声で言う。
「お嬢様、少しお話を」
「……ええ、どこで?」
「ご許可いただけるのなら、このまま」
そう言ってスタンレイはアイシェに視線をやった。彼女はその意味をすぐに理解して、部屋に戻って私のそばにつく。
「入って」
もう一度頭を下げたスタンレイが入ってきて、私の数メートル手前で止まった。
彼は珍しく笑顔のない顔で話し出した。
「三人とも、今日付で解雇になりました」
「……そう」
「当然です」
その声には怒りが滲んでいる。
彼は、私がどんな言葉で罵られたのか聞いたのだろう。スタンレイへの侮辱の言葉でもあった。
「ダーナは一週間謹慎です。執事も監督不行届で何らかのお咎めがあると思います」
あとで父様と母様に罰を軽くしてもらえるようお願いしにいこう。
スタンレイの顔を見上げる。その顔を見て、不安が噴出した。
「スタンレイ」
彼の名を呟いてから、一体何を聞くつもりだと顔を俯けた。
彼は私の目の前に片膝をついて、俯いた顔を見上げる。
「何か不安がおありでしたら、遠慮なく私に仰ってください」
不安なんて。不安しかない。
不安なら本人に聞けばいい。
どうやって?
あなたは外で女を作るのとでも聞くつもりか。そんなもの、はい作りますよなんて答える馬鹿はいない。意味のない質問だ。
「……私は大丈夫よ。大きな騒ぎになってしまって少し驚いているだけ」
足を組んで、そのつま先をじっと見つめる。
「彼らの言う通り、あなたのお父様が私との結婚を許してくださったのは、主に持参金と私が領主の娘だからということは理解してるから。それはアーリス家だけじゃなく、どこに嫁いでも一緒。あなたに対する暴言があったのは腹立たしいけれど」
意を決してスタンレイの顔を見る。
「スタンレイ、私は大丈夫」
少しの間探るように私の顔を見上げていたスタンレイは、視線を落として小さく「そうですか」と呟いた。
立ち上がった彼を見上げ、話題を変えるように少し高い声を出す。
「最近はちゃんと休んでいるみたいね」
その目元の隈は随分薄くなったし、顔色も驚くほどいい。
「ええ。旦那様に、愛娘を未亡人にするつもりかと日々脅されていますので」
口を押さえて笑う。父様は本当にあの脅し文句を使っているらしい。
「後任への引き継ぎもいち段落しました。残していた仕事もほぼ片付けて、あとは自分の身の回りの整理だけです」
「そう、頑張ったわね。私ももっと頑張らないと」
「いいえ、もう充分ですよ」
その言葉に驚いて彼を見る。全然、まだまだ、充分なんかじゃない。
「最近、ご無理をなされているように見えます」
「あなたに比べたらまだまだよ」
「お嬢様」
「大丈夫、最近曇っているから月も太陽も降ってなんか来ないわ」
茶化して笑った顔が強張る。スタンレイが私の手を取ったからだ。
私を見つめるヘーゼルの瞳は、相変わらず優しい。
「あなたを心配しています」
彼の手に力がこもる。痛いくらいだ。
「私は、お嬢様に頑張ってくださいと申しました。でも、もう充分ですよ。私が考えていた何十倍も、お嬢様は努力していらっしゃる。もし、あの言葉をまだ」
「違うの」
ゆっくりと首を振る。違う、そんなことじゃない。
「違うの……でも……私、頑張らないと……」
だって子供を産めないから。子供を産めないから、それ以外を完璧にこなせるようにならなければ。
何度この言葉を繰り返したのか。まるで自分自身に呪いをかけているようだ。
体から力が抜ける。スタンレイが離した手が、ぱさりと膝の上に落ちた。
「……夕食まで少し休む」
「お嬢様」
大丈夫。少し、疲れてしまっただけだ。
「大丈夫よ、スタンレイ」
ほんの少し、疲れただけで。
「……分かりました」
立ち上がった彼を見上げずにいると、「失礼します」と頭上に声が降ってきて、扉が開く音と閉じる音が聞こえた。
そのままベッドにあおむけに倒れる。花柄の天井と、心配そうに覗き込むアイシェの顔が見える。
「私、こんな性格じゃなかった」
呟いて、目元を腕で覆う。
「いや、元々どんな性格だったっけ……?」
もっと言いたいことは言って、聞きたいことは聞けていた。したくないことから逃げて、したいことばかりして。
そして今、こんな状態だ。
父様は、結婚し誰かがすぐ隣に立つことは、いつか心地よく愛しいものになってくると言っていた。しかしやはり、それはこんなにも恐ろしい。
隣に立つのが大切な人だから、余計に。
「アーリス様にご相談できないのでしたら、私共に話してくださってもよろしいのですよ」
「……大丈夫。ありがとう、アイシェ」
ベッドから立ち上がる。
乱れた髪を手櫛で整えて、眉を垂らしているアイシェを振り返った。
「父様の部屋に行くから、ついてきて」