8、お話の結末
目的地はそう遠くない。父様の執務室だ。
ダーナには部屋で待っていてくれてもいいと言ったが、ついてきてくれた。
「少し話をしてくる。あんまり遅いようなら勉強室に戻っていて」
「かしこまりました」
父様は今日は出かける予定はないと朝食の時間に言っていた。ノックをすると、案の定すぐに「入れ」と返事が聞こえた。
扉を開いて後ろ手で閉める。
「失礼します」
大きな執務机に向かったままだった父様は、その声にようやく訪問者が私だと気付いたようで顔を上げた。
「お仕事中にごめんなさい」
「いいや、構わないよ。どうしたんだ?」
「スタンレイのことでお話が」
長話するつもりはなかったので、その場で立ったまま続ける。
「四時間ほど仮眠を取るように説得しました。それで万一仕事が遅れても、どうか許してあげてください」
あとでスタンレイも報告に来るだろうが、無理やり休ませたのは私だ。父様も休ませたがっていたようだし、そんなことで怒ったりしないとは分かっていたが、念の為だ。
父様は驚いた顔をしたあと、「もちろんだとも」と息をついた。安堵のため息のようだった。
「ようやく寝てくれるか。私がどれだけ言っても聞かなかったというのに……あれはお前には滅法弱いな」
「私を未亡人にするつもりかと聞いたら、すぐに休むと言ってくれましたよ」
「それはいい。私もこれからその手を使わせてもらおう」
笑って言って、父様は執務机からソファに移動した。
「おいで」
隣のソファをポンポンと叩きながら私を呼ぶ。父様はスタンレイ以上に忙しい身だ。遠慮がちに尋ねる。
「お仕事は大丈夫ですか?」
「私は仕事より、もうすぐ家を出ていく愛娘と語らう時間のほうが大事なんだ」
迷ったが、父様の言う通りだ。もうすぐ家を出る。家を出ればもう頻繁に会うことはできなくなる。少しの時間甘えることにした。
隣のソファに座ると、父様はゆったりと背もたれに体を預け、腹の上で指を組んだ。
「スタンレイは本当にお前に良くしてくれているな」
「そうですね。婚約の話を聞いた時に、そこまでするなんて私に惚れているのかと聞いてしまったくらいに」
はははと父様は大声で笑う。ひとしきり笑って、それからその顔を神妙なものへと変化させていった。
「……それで、奴は何と返事をした?」
「父様、あの生真面目スタンレイですよ。そのような身の程知らずではないと一蹴されました」
「そうか……」
その顔は安心したのかよく分からない微妙な顔だ。
「彼の中では、私はまだ出会った頃と同じお転婆娘ですよ」
「それはまるで、今はお転婆ではないと言っているようだな」
わざと唇を尖らせて、目を細めてじっと父様の顔を見る。彼はおどけたように肩をすくめて話を変えた。
「スタンレイと初めて会った日のことを覚えているか?」
「ええ、もちろん。最後の大きな発作が起きる前日でしたね。彼は嫌な顔ひとつせずに私の話し相手になってくれました」
もうすでに起き上がれないほど弱っていた私を気遣って、彼は挨拶を済ませるとすぐに出ていこうとした。それを必死に引き止めた覚えがある。
家族やメイドや医者以外の人間に会うのが久しぶりで嬉しかった。眠れないからお話を聞かせてなんていう無茶にも、彼はにこにこと笑いながら答えてくれた。
「冒険の話を聞かせてくれたんです。寄宿学校に入っている時に、キャンプで熊に遭遇した話」
今思い出しても冷や汗の出る話だ。
「寝静まった真夜中に、ふと目が覚めたスタンレイがテントの向こうにあるランプに照らされる熊の影に気付くんです」
慌てて同じテントのクラスメイトを起こし、熊の目を盗んで他のテントに危険を知らせながら教師の寝泊まりするログハウスを目指すのがまた興奮する展開なのだが、長くなるので今回は割愛だ。
「なんとか教師の元まで辿り着いて一安心かと思いきや、友人のジョーゼフが見当たらないことに気付いたスタンレイが、こっそり抜け出して彼を探しに行くんです。テントの裏で腰を抜かして動けなくなっているジョーゼフを見つけて、さあ逃げようと顔を上げた時、目の前に自分たちの三倍の大きさの熊が立ちはだかっていて」
逃げようとスタンレイはジョーゼフの手を引いたが、彼はまだ腰を抜かしていて動くことができない。振り返ったスタンレイは、熊がジョーゼフに狙いを定めていることを知った。
「熊がその鋭い爪を、ジョーゼフに向かって振り下ろすんです。そして、どうなったと思います? スタンレイは、今日はもうお終いだと話をやめてしまったんですよ! もう私、眠るどころではなくなってしまって……!」
思わず立ち上がって大きな声を出して、父様がくっくと笑う声にもう一度腰を落ち着ける。
「……今だから言えますけど、私、あの時は自分はもう長くないと悟っていたんです。もう明日明後日には死んでいるだろうって。だからこそ未練を残したくなくてスタンレイに話の続きを必死に催促したのに、結局彼はその日は話してくれませんでした。あの時もし死んでいたら、きっと化けて出ていましたよ」
「……今だからこそ言えるジョークだな」
父様が苦笑いをしながら言う。
「スタンレイから聞いたよ。お前が昏睡に陥ったあと、自分が昨日長々と話をしてしまったせいだ、こんなことなら最後まで聞かせてあげればよかった、と」
困って笑ってしまう。話をしてとねだったのは私だというのに。
彼の過保護はきっとここからきている。
「奇跡的に一命を取り留めて、目が覚めた私の第一声を覚えていらっしゃいますか? 『それで、ジョーゼフはどうなったのよ』ですよ。それなのに結局、結末を教えてくれたのはいつだと思います? 私が最後に受けた大きい手術が終わったあとですよ」
それは去年の出来事だ。彼は約八年間も、ジョーゼフがどうなったのか教えてくれなかった。
「その未練が、お前がこの世に残ってくれた理由のひとつではないかと私は思うよ」
「ええ、きっとそうです。あれだけ焦らされて、死ぬに死ねませんよ、あんなの」
結局、教師が撃った猟銃の音に熊が怯えて逃げたおかげで、ジョーゼフには怪我ひとつなかったらしい。
怪我がなかったことには胸を撫で下ろしたが、焦らしに焦らされた結末はあまりにも平凡で、もっとドラマチックにジョーゼフを助けたあとについでにどこぞのお姫様のひとりやふたり助けるくらいしなさいよと大ブーイングだった。
父様もその結末を聞いて笑っていた。
「恐らくスタンレイにとって、結末を教えない事は願掛けのようなものだったのだろうな」
「そうですね」
少しの間腹を抱えて笑って、父様は深呼吸をしてようやく笑いを収めたようだ。「真面目な話をしよう」と、彼は体を起こして両手を握り締める。
「スタンレイはずっとお前のことを考えていたよ。危ういお前をずっと気にかけて、常にお前の幸せを願ってくれていた」
知っている。私は全身で彼の好意を受け取って暮らしていた。
「スタンレイがお前を思う気持ちは正真正銘の本物だ。今、彼がお前に向けてくれている忠誠心が結婚後に愛に変われば、お前にとってそれほど心強いものはないだろう」
父様の優しい目が私を見る。
「お前は誰もが羨むくらい、幸せになれるはずだ」
私はその目をじっと見つめ返す。きっと満面の笑みで「はい、幸せになります」と言うことが、親孝行だったのだろう。そうすれば父様は安心して私を送り出せたはずだ。
それなのにできなかった。
耐えられずに不安に歪んでしまった顔を、私は俯けて隠すことしかできなかった。
「……結婚というものは……、今まで好き勝手生きてきた私のすぐ隣に誰かが立つということは、とても恐ろしいことですね」
頑張り屋さんな未来の旦那様の恥にならない程度には頑張る。
スタンレイと結婚すると聞かされた時に何気なく言った言葉が、今体に重くのしかかっているのが分かった。
子供を産めない。この出来損ないの体は、彼にどれだけの負担を強いるのか。
それは私がそれ以外の事を頑張ることで、埋められるものなのだろうか。
父様の手が頭に触れる。子供にするように額を撫でて、私の顔を上げさせる。
「今はまだ恐ろしいと思うかもしれない。しかしいつか、それが心地よく愛しいものになってくる」
「……まだ分かりません」
「ゆっくりでいいんだ。焦る必要はない」
頷いて、そのまままた俯いた。その耳に振り子時計の音が響く。
鐘の音は三回だ。随分と長い間話してしまったようだった。ダーナは待ちくたびれているだろう。
「そろそろ行きます。ダーナを待たせているから」
「ああ」
立ち上がろうとした私の腕に、父様が触れる。
「最後にひとつ。お前も最近、無理をしていないか?」
「私が?」
「アイシェが心配していたらしい。寝る前まで本を読んだり勉強したりしていて、太陽か月が降ってくるんじゃないかと」
「……それは私の心配をしているのか太陽か月が降ってくることを心配しているのか、どちらなんでしょうね」
くすくすと笑って立ち上がる。
「大丈夫ですよ。私はきちんと十時に寝て六時に起きるという規則正しい生活をしていますから」
スカートのシワを伸ばして、立ち上がった父様の顔を見上げた。
「私よりもスタンレイが心配です。父様もお忙しいと思いますが、少し気にかけてやってください。今日なんて私に『疲れました』なんて言うんですよ」
「……スタンレイが?」
今日一番の驚いた顔で、父様は繰り返す。
「お前に疲れたと言ったのか? スタンレイが?」
「ええ」
何に驚いているのか分からない。
彼は呆れたような顔をしたあとにやりと笑って、それから複雑な顔をして、不思議な百面相をため息でしめた。
「お前たちは、よく話をしなさい」
「よくしていますよ。スタンレイは休憩のたびに私に会いに来るので」
「もっと、腹を割ってだ。それと、これだけは覚えていなさい。お前たちはまだ婚約も済ませていない」
「……はい」
「同じ屋根の下で暮らしているが、婚約も済ませていない。分かっているな」
ようやく父様が何を言いたいのか理解した。にっと口の端を上げる。
「キスもいけませんか?」
「……フローレンス!」
「冗談です!」
扉に駆け寄って、取っ手に手をかける。
「フローレンス、キスも駄目だ!」
「冗談ですってば! あのスタンレイが私に何かするわけ……」
扉を開いて廊下に出ようとして、入り口の真ん前で立っている人物に派手にぶつかった。
強か打ち付けた鼻を押さえながら見上げる。そこに立っていたのは、もうずっと昔に勉強室に戻っているだろうと思っていた、ダーナだった。
短鞭を自分の手のひらに打ち付けながら、低い声でダーナが問う。
「何やらふしだらな言葉が聞こえてまいりましたが……」
「ダーナ、そのお転婆娘をよく教育してやってくれ」
「かしこまりました、旦那様」
ダーナに腕を掴まれ、私はこの後の自分の境遇を憐れむことしかできなかった。