5、男の人
スタンレイが帰ってきてから一週間。彼はいつも以上に父様に付きっきりだった。
私も今まで不真面目だった分を補うように頭の中に知識を詰め込んでいて、そろそろ誰かに愚痴でも聞いてもらわないと破裂しそうだ。
しかしスタンレイは見かけるたびに顔の疲れを濃くしていく。そんな彼をお茶に誘うほど無神経ではない。
またしても寂しいだなんてそんな不思議な感情が見え隠れし始めた時だ。
ダーナと一緒に勉強室へ向かっている途中の廊下で、私はばったりとスタンレイと鉢合わせた。嬉しくて思わずにやけそうになった顔をぎゅっと引き締める。
その代わりにスタンレイは満面の笑みで「お探ししました、お嬢様」と笑った。
「何か用事?」
「はい。少し時間が取れたとお伝えしようと」
戸惑って首を傾げる。確かに話をしたいと思っていたが、それを口に出してはいなかったはずだ。もし顔に出ていたのなら恥ずかし過ぎるが、それは杞憂だったようだ。スタンレイは私の背後のダーナに視線をやった。
彼女は視線を受けてうんと頷く。
「フローレンス様、今日は座学はやめにしてダンスの練習にしましょう」
ああ、理解した。
結婚式のあとのパーティで踊るダンスの練習をしたいと、ダーナがスタンレイに話をしていたようだ。
げっそりとした顔をスタンレイに向ける。
まだ座学のほうがましだった。体が良くなったって、寝たきりが長かったこの体は驚くほど体力がない。運動神経が極端に悪いつもりはないが、疲れるので運動は苦手だった。
勉強室へ向かっていた足を屋敷の大広間へと方向転換させる。
領主の娘と豪商の跡取りの結婚式だ。両親たちは派手に行うつもりらしい。
大勢の招待客の中、最初の一曲はふたりきりで踊らないといけないので、恥をかかない程度に練習する必要があることは分かっていた。
「今まで何度も練習に付き合ってもらっていたし、大丈夫だと思うけど」
広間に足を踏み入れながら彼の顔を見上げる。
これまでのダンスの練習のパートナーはもっぱらスタンレイだった。むしろスタンレイ以外の男と踊ったことがない。
「そうですね。最終確認ということで」
にこりと笑うスタンレイの顔にはまだ疲れの色が濃い。
時間が空いたのなら少しでも休んで欲しいと、その目の下の隈を見て思う。
「さあ、さっさと始めましょう」
そしてさっさと終わらせて、そのあとスタンレイを誘って温室で日向ぼっこをしよう。
差し出された彼の腕を取って広間の中央に歩み出る。
練習に奏者を呼ぶわけにはいかないので、BGMはダーナの手拍子と掛け声だけだ。
「まずは一曲通してみましょう」
「はい」
返事をしたスタンレイの手が、引き寄せるように私の背中に回された。ぴくりと体を震わせる。そしてその自分の反応に戸惑う。
頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。
何だこれは。彼が触れている場所から、緊張が全身に広がっていくようだ。
彼にそれを悟られないように、何食わぬ顔で左手を彼の肩から腕に添わせ、右手を差し出された彼の左手の上にそっと乗せる。
今まで気にしたこともなかった。私の手を軽々と包む乾いた大きな手も、頭ひとつ大きな身長も。
彼はこんなに大きかっただろうか。
「フローレンス様、お顔を上げて」
手拍子しながらダーナが言い、視線が下がっていたことに気付く。
スタンレイと視線を合わせながら踊るのは、定番のワルツだ。動きは派手だがそれほど難易度は高くないはず、だったのに。
「お嬢様、お疲れですか?」
「……大丈夫」
スタンレイがそう聞いてくるくらい、足取りが覚束ない。頭の中で三拍子を唱えていると、視線が下がってきてダーナに叱責される。
「もう一度、最初から!」
焦れば焦るほど足はもつれ、とうとうステップを間違えて派手にスタンレイの足を蹴ってしまった。
「っ、ごめんなさい……!」
「大丈夫です」
一歩間違えるともう駄目だ。少しずつリズムがずれ、それに焦り、さらにずれる。
「フローレンス様、お顔を上げて!」
ダーナの鋭い声にぱっと顔を上げる。見上げた先のスタンレイにはもう笑顔はなく、心配一色になっていた。
背中に回されている手に力がこもり、立ち止まった彼にぐっと腰を引かれる。
「一度休憩にしましょう」
その言葉と共に抱き上げられ、すぐにすとんと下ろされた。くるくると回っていた私の動きを止めるための抱擁だ。私の体は間もなく彼の腕から解放された。
それなのに、力強く抱き寄せる腕の感触がまだ残っている。
「お嬢様、お手を」
差し出された手を辛うじて掴み、連れて行かれた広間の端のベンチに座る。
まだ踊り始めてから十五分も経っていないが、さすがに異変に気付いていたダーナは休憩に異論はなかったようだ。「飲み物を頼んできます」と部屋を出て行ってしまった。できればふたりきりにしないで欲しかった。
スタンレイが私の目の前に膝を付き、心配そうな目を向ける。
「どこか痛むのですか……?」
「違う」
何度か首を横に振る。
「体調が悪いわけじゃないの。ただ……その、なんだかものすごく緊張して、体が思うように動かなくて」
体調が悪いわけではないと知ったスタンレイは一旦安心したのか、立ち上がって私の隣に腰を下ろした。
「一生に一度の晴れ舞台ですからね。本番と同じ状況に緊張なさっているんですよ」
それも少しはあるかもしれないが、主な原因は絶対にそれではないと思う。
意識するなと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど悪循環だ。
スタンレイは男の人だった。何を今さらそんなことをと馬鹿にする自分と、その事実に気付いて驚く自分が半分ずついる。
ほとんど毎日顔を合わせていた。
つい先日、シャツを作るために嫌がる彼の服を途中まで剥ぎ取ったこともある。メイドに止められたが、上半身を引ん剥かれて彼女達に体の様々な場所のサイズを測られている彼を隣で見ていたというのに。
なぜか初めて会った時の、頼りがいがあるとは言えない中性的な細身の体の印象が強かった。
スタンレイの横顔をチラリと盗み見る。
それに気付かずに彼は水差しからグラスに注いだ水をゆっくりあおる。
男のものでしかない喉仏が何度か揺れて思わず目を奪われていると、視線に気付いたらしいスタンレイの目が私を見下ろした。
「どうされました?」
「……時間は大丈夫?」
「大丈夫ですよ。夕方に旦那様の外出のお供をするので、それまでは」
「そう」
彼も私の様子がおかしいことには気付いているだろう。
そう、おかしいのは私だけだ。
私ばかり照れて気まずくて、彼はいつも通り顔色一つ変えない。
彼にとってはまだ、私は「女」ではなく「主人の娘」でしかないのだろう。
いや、それとも。
仕事熱心なこの人は、私と結婚することも仕事の一部だと思っているのだろうか。
それとも父様への恩返しだとでも。
なぜだか心臓の辺りがすっと冷たくなった。
彼にとってのこの結婚の最大の意味が、私を保護することだけだったとしたら。彼がなりたいのは、私の夫ではなく保護者だったら。
「……ねえスタンレイ」
「はい」
こんな突拍子もない疑問を、どう聞けばいいのだろうか。こんなことを聞いて怒らせないだろうか。
それでもこんな風に彼に対して疑心暗鬼でいるよりは、さっさと聞いたほうが精神衛生上いいだろう。
どう聞けばいいのか。
私と結婚することはあなたの仕事の一部なの?
父様に恩返しをするために結婚するの?
私とどんな夫婦になるつもりなの?
「私と、キスするの?」
心の中で頭を抱える。もう少しまともな質問はなかったのか。
ヘーゼルの目を真ん丸にして絶句している彼に、やけくそ気味に言葉を続ける。
「だって、夫婦になったらキスをしたりするんでしょう? 私と結婚したら、あなた、私にキスするの?」
たっぷり、穴があったら数メートル潜ることができるくらい見つめ合ってから、スタンレイがいつもと同じ笑顔を浮かべる。ただいつもよりも瞬きが多い。
「どうなさったのですか? そんなことを聞いて……」
はぐらかそうとする空気を読み取って、唇を尖らせて俯いた。
「もしかしたらあなたは、仕事の延長線上だとか、父様への恩返しで私と結婚をするつもりなのかなと思って。私は子供を産めないから、その、キスとか……そういうことは、必要ないでしょう?」
言いながら、何だか悲しくなってきた。頭がどんどん重たくなって沈んでくる。
「この結婚があなたの仕事の一部でしかないのなら、私もそのつもりでいるから、だから」
「しますよ、キス」
言葉を遮るような声に少し怒りを感じ取って思わず顔を上げる。
彼は笑顔を消して、じっと私を見下ろしていた。
「お嬢様が私の妻になったら、唇にキスをするし」
スタンレイがベンチに手をつく。必然的に近付いた顔から目が離せなくなる。
「同じベッドで寝ますよ。夫婦になるのですから」
今なら彼が言っていることの意味が分かる。
「そ、う……」
安心したわと言いかけて、安心したのかと自問する。
答えが出る前に先に目をそらしたのはスタンレイだ。
「しかし今はまだ、私はチェンバレン伯爵閣下の従僕です。主のご息女に不埒な目を向けるなど言語道断。あまり私をお試しになりませんよう」
慌てて首を横に振る。そんなつもりで言ったわけじゃない。
「違うの。試したわけでも、からかったわけでもないのよ」
居たたまれずに、スタンレイの手の中のグラスを引っ掴んで一気にあおる。
飲み終えたグラスを彼の手の中に戻し、所在なさげに両手の親指をくるくると回した。
「だってあなた、ずっと平気そうな顔をしているから。私は、何だか意識してしまって、普通でいられないのに」
「……意識?」
「あなたと結婚すると決まってから、何だかあなたのそばにいたら緊張するの。私はこんな事になっているのに、あなたは全然変わらなくて……だから……あなたは私の事全く女として見ていないんだなって」
「当たり前です。私達はまだ婚約も済ませていません。先程も申しましたが、お嬢様はまだ」
「分かった、分かったから、もういい」
そうだった。この人はあの生真面目スタンレイだった。馬鹿なことを聞いてしまった。
顔に熱が集まってきて熱くて堪らない。きっと耳まで赤くなっているだろう。
「ああもう、私ばっかり照れて……今までこんな風になんてならなかったのに」
赤い顔を隠すように頬に手を当てる。恥ずかしさと居たたまれなさでもう逃げ出してしまいたかったが、ちょうどメイドを連れたダーナが帰ってきてくれた。
「やめましょう、スタンレイ。この話はもう終わり、忘れて」
入れてもらった熱い紅茶を一気に飲み干して、私は深いため息をつく。
その品のないため息にダーナがぴくりと顔を上げて怒られると思ったが、彼女は少しの間私の顔を見つめて「失礼します」と呟いて私の額に手を伸ばした。
この顔の赤らみは熱があるせいではなくスタンレイがそばにいて緊張しているから、なんてもちろん言えない。
彼女は微かに首を傾げながらも手を離して言った。
「体調がお悪いようなら、今日はもうやめておきましょうか」
まだ逃げ出したいという気持ちに変わりはない。一瞬首を縦に振りそうになったか、思いとどまった。
「……いいえ、体調は悪くないわ。このままじゃ貴重なスタンレイの時間を無駄にしただけだもの。せめてまともに踊れるようになるまで、あと少しだけ頑張る」
スタンレイが飲み終わったのを確認してから立ち上がって、照れ隠しの仏頂面で彼を見下ろした。
「あと三十分だけ付き合ってくださる?」
「ええ、もちろんです」
「そのあと温室で日向ぼっこにも付き合って」
「かしこまりました」
私はこんな顔だというのに。あんな話をしたあとだというのに。彼の顔はいつものまま涼しい笑顔だ。なんて憎たらしい。
差し出された手に、平静を装って手を重ねる。
彼の少し汗ばんだ手をきゅっと握ると、同じように彼は私の手を優しく握り返してくれた。