4、テディベア
スタンレイとの婚約を知らされて四日後。
彼を実家に見送って、すぐに勉強漬けの日々が始まった。
幼少期から一般教養やマナー、ダンス、裁縫などを教えてくれていた家庭教師のダーナは、決して無理をさせたりはしないがその分厳しい。
いつも持ち歩いている短鞭は、まだ一度もぶたれた事はないとはいえ恐怖の象徴だ。
勉強室の机の上に山積みにされた本から頭叩き込まれるのは、妻という立場になってからの礼儀作法だ。
もちろん今までも勉強してきたことだが、今回は貴族ではなく平民に嫁ぐので、その辺りの違いも色々。
商人の妻としての最低限の知識は身につけておいたほうがいいのかしらとダーナの前で呟いた翌日、彼女は早速専門家を見つけてきてさらに経営学入門の授業が増えた。
それから、その他色々。
そう、夫婦の生活だとか、色々。
同じベッドで寝るのかとスタンレイに聞いた時、一瞬間があった理由がその時ようやく分かった。本当に知らなかったんだと心の中で言い訳をする。
だって本来、そんないかがわしくそして興味深い話を、頭を寄せ合って内緒でするであろう友人が私にはベッドしかいなかったのだから。
当分スタンレイと顔を合わせたくないと思っていたが、彼が帰ってくる予定日の二日前。
季節外れの大雪が降った次の日、帰るのが予定より一週間ほど伸びるとスタンレイから連絡があり、急に寂しさが増した。
別にずっとそばにいたわけではない。彼の本業は父様の従者だ。
ちょうど十年前、十六でこの屋敷に来た時のスタンレイの主な仕事は、私や兄姉の付き人をしながらの上流階級の行儀見習いだった。しかし聡明で誠実な彼はあっという間に父様に気に入られて、すぐに様々な仕事を任されることになる。
そんな忙しい日々の中でも彼は時間を見つけては私に会いに来てくれ、病状の酷い時は何ヶ月も部屋から出られなかった私の遊び相手になってくれた。
私が成長し、手術が成功してからもそれは変わらない。
顔を合わせたくないという気持ちを、寂しくて会いたいという気持ちが上回った頃、ようやくスタンレイが帰ってくることになった。
朝にそれを聞いてから楽しみに待っていたのに、彼はいつまで経っても帰ってこない。
夕食の時間の父様の「雪が深いから遠回りしているんだろう。どこかに泊まって、帰りは明日かもしれんな」という言葉にがっくり肩を落とす。
それと同時に不安がよぎる。もう大雪ではないといえ、まだ雪は降っている。
いつもならベッドに入っている時間を過ぎた頃、ベッドの脇に座り寝るかどうか迷っていると小さなノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
扉から顔を覗かせたのはアイシェだった。
「お嬢様、アーリス様がお帰りになられたみたいですよ」
顔を合わせるたびにスタンレイはまだ帰ってきていないのか聞いていたからだろう、知らせに来てくれたらしい。
勢いよく立ち上がる。そして伺うように彼女を見た。
「少しだけ顔を見てきてもいい?」
「少しだけですよ」
ガウンの上からさらに毛糸のストールを着せられ、ようやく部屋から出ることを許された。
アイシェと共に急いで玄関へ向かう。
スタンレイはまだ玄関にいて、大きなトランクとボストンバッグを足元に置いて肩に積もった雪を払っているところだった。
私に気付いて、その目が嬉しそうに細められる。
「ただ今戻りました、お嬢様。まだ起きていらっしゃったのですね」
「お帰りなさい。寝ようと思っていたら、あなたがちょうど帰ってきたのよ」
元気そうな姿にホッとしたのと同時に、色々と思い出してしまって気まずさが湧き上がる。それを誤魔化すように小首を傾げた。
「大変だったみたいね」
「ええ。雪の重みで区内の古い大橋が落ちてしまって、救助を手伝っていました。幸い人死にもなく。お嬢様が来られるまでには、前よりも立派な橋ができあがっていますよ」
そう言いながら、彼はボストンバッグをごそごそと探って、大きなものを取り出した。
「お嬢様」
満面の笑みで彼が差し出したのは、リボンのかけられた箱だ。挟まれたカードを見れば中身を見なくても何なのか分かる。テディベアだ。
その季節流行りの布地で作るテディベアで、彼の実家のそばに店があるらしい。王都からも注文が殺到しているくらいの人気商品だ。彼はそれをどうやっているのか、実家に帰るたびに土産に買ってきてくれる。初めて彼がそれを買ってきてくれて、それはもう喜んだ十歳の頃からずっと。
「ありがとう」
受け取った箱をぎゅっと抱き締める。
「嬉しいんだけど、私、お土産をねだりに来たわけではないからね」
「えっ、そうなのですか?」
心底意外だという顔を、心底心外だと見上げる。
「帰りが遅かったから心配していたの」
この領はそれ程大雪に慣れていない。滑ったり落ちたりぶつかったりしていないか心配したのだ。
私に心配されてそんなに嬉しいのか、スタンレイは雪も溶かしそうなくらいの満面の笑みを浮かべた。
「ご心配をおかけしました。雪のせいで通行止めがいくつかありそれで少し遅くなってしまいましたが、それ以外は何も問題はありませんでしたよ」
「そう、良かった」
「お嬢様は、お加減は?」
「とてもいいわ」
「左様でございますか。突然寒くなりましたからね。体調を崩されていないか心配していましたので、安心しました」
彼の手が伸びてきて、私のずれ落ちているストールを肩に戻した。近付いたその顔を見ていられず、わざと視線を彼の足元のトランクにやる。
「疲れたでしょう、今日はゆっくり休んで。引き止めてごめんなさい」
「いいえ、とんでもございません。お嬢様の元気なお顔を見ることができて安心しました。それではお言葉に甘えて、今日はもう休ませて頂きます」
彼は荷物を持ち上げる。
「お嬢様もお部屋にお戻りください。暖かくしてお休みになってくださいね。アイシェ、湯たんぽは?」
「用意しておりますよ」
「そうですか。それでは布団をしっかりかぶって、乾燥していますので寝る前に蜂蜜の」
「はいはい過保護さん。大丈夫だからさっさと行って」
しっしと手を振ると、彼は苦笑いを浮かべる。
「分かりました。アイシェ、冷える前にお連れして」
「かしこまりました」
スタンレイは頭を下げてから、私の隣を通り過ぎて屋敷の奥へ消えた。
なんだか熱いような気がする頬をごしごしと撫でる。ただのスタンレイなのに、どうしてこんなに緊張するのだろう。
「ではお部屋に戻りましょう」
「ええ」
とにもかくにも、元気そうで安心した。
部屋に戻ってベッドに座り、早速お土産のリボンを解く。箱の中にちょこんと収まっていたのは、生成り地に桃色の小花を散りばめたテディベアだ。
今年の春の流行りはこれらしい。ボリュームのあるドレスにしたらさぞ可愛いことだろう。
解いたリボンをテディベアの首に巻きつけちょうちょの形に結ぶ。
「まあ可愛らしい」
アイシェが空き箱を片付けながら笑った。
「棚に並べておきましょうか?」
今までもらったものは、埃をかぶらないよう全てガラス戸の戸棚に飾っている。少しの間黒いガラスのつぶらな瞳と見つめ合って、それから首を横に振った。
「いいえ、少しの間一緒に寝るわ」
「かしこまりました」
アイシェの返事に笑いが含まれていたのは気のせいではなかっただろう。
十九歳にもなってぬいぐるみと一緒に寝るなんて恥ずかしかったが、せっかくもらったんだし少しくらいいいだろう。
小さい頃からしていたようにテディベアの額に口付けして枕元に置くと、私は布団に潜り込んだ。