3、不幸な結婚
温室のいつものテーブルに着いて、混乱する脳内を落ち着かせようとする。
両親の言う通り、スタンレイはきっと私を不幸にしたりしない。ここで独身を貫くより、三十も年上の男に嫁ぐより、きっと幸せな暮らしをさせてくれるだろう。精一杯なんて言っていたが、今の私にこれほど都合のいい結婚などそうそうない。
それなのにどうして、こんなにも、この結婚が。
物思いにふける間もなくスタンレイが連れてきたメイドがポットとティーカップ、茶受けを持ってきて、あっという間にテーブルの上にお茶の準備が整った。
向かいの席に座ったスタンレイは、私が先に口をつけるのを待っている。
「スタンレイ」
顔を上げることができない。彼の顔を見ることができない。
「私……あなたと結婚したくない」
絞り出した言葉に、彼の返事はない。
膝の上でぎゅっと両手を握り締める。
「だって、私、子供が産めないのよ。私と結婚するなんて、あなたが可哀想……」
彼に必要ないのは跡取りだけで、子供が必要ないわけではない。
「今縁談が来ている誰かと結婚するより、あなたと結婚するのが私は一番幸せになれるわ。でもそれは私だけ。あなただって子供は欲しいでしょう」
「お嬢様、お聞きください」
ようやく口を開いてくれたスタンレイの声は、いつもと同じ穏やかなものだった。
「私は私なりによく考えて、そしてこの婚約のお話をお受けしました。そしてその時点で、私は子供を持たないと決心いたしました」
首を横に振る。
本来なら彼は、当たり前のように子を産み育てられる女の人と結婚し、彼の性格ならきっとその人を目一杯愛し、家族に囲まれる生活を送るはずだった。
実の兄のように慕って尊敬してきた人。その人に、子供を持たないなんてそんな決心をさせたくなかった。
「私、あなたのことが大好きよ。だから、あなたに不幸な結婚をさせたくない」
「お嬢様が幸せなら、私も幸せですよ」
何度も聞いたことのある台詞だ。その台詞の通り、彼は今までずっとこの家のために、私のために尽くしてくれた。彼の忠誠心を疑ったことなどない。
それでも自分の人生を、公私の「私」まで捧げるなんて。
「……念の為聞くけど、あなた、私に惚れているの?」
「身分違いのご令嬢に懸想するような身の程知らずではございません」
スタンレイははっきりと言い切った。そうだろうと思った。男女の色恋には疎い自覚があるが、そんな私でも彼から愛だの恋だのそんなものを感じたことは一切ない。
スタンレイは表情を引き締め、姿勢を正した。
「旦那様と奥様と、そして私とで長い間話し合いを持ちました。お嬢様が幸せになるためにはどうすればいいのか考えて考え抜いて、そして出た答えが私との結婚です。私は全身全霊でその期待に応えましょう」
その何の迷いもない言葉に、私は頭を殴られたような気がした。彼は本気なんだと急に現実が落ちてきた。
どこかぼんやりと半信半疑だった彼との結婚は、実際にこれから自分の身に起きることなのだと、私はようやく理解した。
呆然と尋ねる。
「……あなたが私の夫になるの?」
「そうです」
「私があなたの妻になるの?」
スタンレイはふふと笑った。
「そうですよ」
彼との結婚生活を思い描いてみる。しかしそれはなんだかぼやけていて鮮明ではない。両親の仲睦まじい姿を思い浮かべる。
「あなたの家で一緒に暮らすの?」
「ええ」
「同じテーブルで食事を取るの?」
「ええ、そうです」
「同じベッドで寝るの?」
返事がないスタンレイの顔を見上げる。彼はいつもの顔で笑った。
「そうですね」
どれもこれも想像がつかない。
椅子の背もたれに体を預けて長い息をつく。
「駄目、想像すらできないわ。あなたが私をフローレンスと呼んで、敬語を使わなくなるんでしょう?」
「それは、どうでしょうね」
「いやよ私、夫にお嬢様なんて呼ばれるの」
「善処します」
体を起こしてようやく紅茶をひとくち口に含む。続いてスタンレイもカップに口を付けた。
ふたり同時にソーサーにカップを置いて、ふたり同時に息をつく。
「……まあ、私が何を言ってもどうにもならないものね」
嫌だと泣き喚いたって地面を転がったって、どうにかなるものではない。
つい数十分前、人生なるようになると言ったのは私だ。
「なるようになるのかしら」
「なるようになりますよ」
「あなたの人生も?」
「なるようになります」
「あなたはそんなに楽観的な人だったかしら」
「楽観ではありません。熟考を重ねた結果です。このクッキー、焼きたてのようですよ」
焼き立ての柔らかくてほろほろしたクッキーは好物だが今はそれどころではない。それどころではないが手は勝手にクッキーを摘んで口へ運んだ。
立ち上がって私におかわりの紅茶を注ぎながらスタンレイが言う。
「一週間以内に少し長めの休暇をいただくことになると思います。実家に戻り準備をしなければなりません」
「そう、大変ね」
もう一枚クッキーを口に放り込む。嫁に行くのならこのクッキーのレシピも持っていきたい。コックに言えば教えてもらえるだろうか。
物思いにふける私の顔を、椅子に座ったスタンレイが覗き込む。
「何を他人事のような顔をされているのですか。お嬢様も花嫁修業をなさるんですよ」
持ち上げていたティーカップをソーサーに戻して、私はげっそりとした顔をスタンレイに向けた。
「もう花嫁修行は充分よ」
「これまでは花嫁になるための修行でしたでしょう。これからは花嫁になったあとの修行ですよ」
両手で耳をふさいで、聞こえないふりをして遠くを見やる。
深いため息が聞こえた。
「頑張ってくださいね。私も頑張りますので」
「あなたはそんなに頑張らなくてもいいわ、いつも頑張り過ぎだから。相変わらず酷い目の隈よ。男前が台無し」
「いいえ」
固い声でスタンレイは首を横に振る。生真面目がまた始まった。
「アーリス商会を継ぎ、このチェンバレン領一美しいと名高い領主様の末娘様を妻に迎えるのです。どれだけ頑張っても頑張り足りません」
嫌な呼び名だ。顔をしかめてペロリと舌を出す。皆が噂する美しい末娘の正体は、残念だがこれだ。
「……お嬢様」
「褒められて照れているの」
「もっと品のある照れ方をしてください。お嬢様はもう少しご自覚を」
「失礼します」
お説教を遮るように聞こえた声に、助かったと後ろを振り返る。申し訳なさそうな顔のメイドが立っていた。
「フローレンスお嬢様、アーリス様、お休みのところ申し訳ございません。アーリス様、執事がお呼びでございます」
「分かりました、すぐに」
立ち上がりながら返事をして、スタンレイは私を見下ろす。
「お嬢様」
「構わない、行ってきて」
「……お嬢様」
いいタイミングで呼び出してくれたと嬉々として手を振る私を、彼はじっと目を細めて見下ろす。
言いたいことは分かる。大げさに肩を竦めてみせた。
「分かってる。頑張り屋さんな未来の旦那様の恥にならない程度には、頑張るわ」
細まっていた目が元に戻ったが、きっと半分は信用されていないだろう。まあ日頃の行い、自業自得だ。
「失礼します。また戻って参りますので」
頭を下げて、スタンレイがメイドと共に出ていく。
ひと時の平和を享受しようとカップを手に取った時、ふとそばのベンチに置きっぱなしにしていた縫い物のかごが目に入った。
そういえば、スタンレイが珍しくシャツを受け取ってくれると言った理由。じきに私の婚約者になると分かっていたからだ。
かごを手に取って、またテーブルに戻る。
さすがに次期婚約者に元婚約者のお下がりを渡すわけにはいかない。
彼が戻ってきたら、再びお説教が始まる前に洋服を剥ぎ取ってサイズを測らせてもらおう。
私はまだ不安な気持ちを引きずりながらも、ぐっと唇を引き結んで身頃を縫いつけている糸を切り、思い切って引き抜いた。