2、婚約者
扉の向こうには、もう体をこちらに向けている父様の姿があった。その隣には母様もいる。
これは、おそらく、多分。
「お待たせしました。どのようなご用事ですか?」
「座りなさい」
言われた通り来客用のソファに腰を下ろす。父様はその向かいに、母様は私の隣に座った。
沈黙が落ちる。
ギロチンの刃が落ちてくるのを待つのは、こんな気分なんだろうか。
いや、きっとそこまで深刻な状態ではない。何を言われたってどうなったって、死にはしない。きっと死ぬよりはずっとましだ。
前向きに行こう。なるようになる。スタンレイだってそう言っていた。
「フローレンス」
「はい」
「お前と、スタンレイ・アーリスとの婚約が決まった」
覚悟していた婚約という言葉が聞こえて、さらにその言葉と同時に聞くなんて夢にも思っていなかった名前が聞こえて、私は首を傾げる。
スタンレイ・アーリス。その名を冠する人間はたったひとりしか知らない。つい先ほどまで一緒に話をしていて、このあと一緒にお茶をする予定の、あのスタンレイしか。
いやまさかそんなはずがないだろう。緊張して耳がどうにかなっているに違いない。
「もう一度仰ってください」
「お前とスタンレイ・アーリスとの婚約が決まった」
「……もう一度」
「……お前と、スタンレイ・アーリスとの婚約が、決まった」
どうやら聞き間違いではないらしい。狼狽えて聞き返す。
「それは、あのスタンレイですか?」
「恐らくお前が思い浮かべているスタンレイだ」
「今部屋の外で待っているスタンレイですか?」
「そうだ、そのスタンレイだ」
わけが分からずに眉を寄せた。
確かにスタンレイは平民とはいえ我が領で一二を争う豪商家の出身だ。父様の従者のひとりで、主に秘書のような仕事をしている。この屋敷でも他のフットマンやメイドたちとは一線を画す存在だ。
そうだと言っても、父様に雇われていることには変わりない。
さすがに子も産めない末子とはいえ、使用人との結婚は外聞が悪いのではないだろうか。
私のその疑問を、父様は早々に解消してくれた。
「スタンレイが近々家業を継ぐことは聞いたか?」
驚いたまま首を振る。初耳だった。彼からそんな話は一言も聞いていない。
だってスタンレイは次男で、少し歳の離れた長男は健在だ。その長男の息子たち、つまりスタンレイの甥たちは幼いながらもなかなかに優秀で、王都の名門校に通っていると話を聞いたことがある。跡取りも、その後続席も、すっかり埋まっているものだと。
「最近体を悪くしたスタンレイの父親が、長男ではなくスタンレイに家督を譲ると決めたらしい。……長男と何度か会ったことがあるが、あの男にアーリス商会を支えることはできん。父親の決断は正しい」
言い切って、それから父様は両手で顔を覆って項垂れた。
「ここまで育てたスタンレイを手放すのは惜しいが、アーリス商会に倒れられるわけにはいかん」
そうだ、思い出した。つい二ヶ月ほど前、スタンレイの父親と長男夫婦がこの屋敷を訪れていた。
ちょうど私の病気が発覚した直後で、その訪問の理由を考える精神的余裕もなかったが、思えばその時に決まったのだろう。
父親と長男の奥方は丁寧に挨拶をしてくれたが、長男は始終不貞腐れた顔をしてろくに目も合わせなかった。三人が帰ったあと、スタンレイに平身低頭で謝られた覚えがある。
それだけで人柄を判断するわけにはいかないが、少なくともこの広大なチェンバレン領の領主である父様のそばで重用されているスタンレイなら、あの若さでも充分豪商を支えることはできるだろう。
「ただ、長男も黙って家督を奪われる気はないらしくてな。話し合いの結果、長男の息子三人を成人後に重役に据え、そのいずれかをスタンレイの次の後継者にするという条件で、跡取りが決まった。つまりスタンレイには、跡取りという意味では子供は必要ない」
ようやく納得する。
豪商の次期社長であり、跡取りは必要ない男。子を産めない領主の末娘に充てがうにはちょうどいい。
「……スタンレイはもう知っているのですか?」
「知っている。この婚約も、快諾してくれたよ」
「……決定事項でしょうか」
「そうだ。もうスタンレイの両親とも話をして、あちらもそれで動き始めている。正式な婚約は彼がここを辞めた後になる。式はもう少し暖かくなってからだ」
思わず黙った私の手に、ずっと隣にいた母様の手が触れた。
「スタンレイなら、彼なら、あなたに不自由な暮らしはさせませんよ。あなたを不幸にしたりしない」
「愛しているよ、フローレンス。これが、私たちがお前にしてやれる精一杯だ」
母様の手をぎゅっと、力いっぱい握り締める。そのまま彼女の頬にキスをして、立ち上がって父様の首に抱きついて、そして両親の顔を交互に見た。
「分かりました、父様、母様」
もっと言わなければならないことも聞かなければならないこともたくさんあっただろうが、脳内は今パニックを起こしている。また後日にしよう。
頭を下げ、そしてそのまま踵を返してふらふらと扉に手をかけた。
入ったときよりもさらに重たい扉を開く。その向こうには、いつものようにスタンレイが後ろ手を組んで立っていて、いつものように彼は私の顔を見て微笑んだ。
ここに呼び出された理由も、彼は知っていたのだろう。
それなのにあまりにもいつもと変わらないので、本当に知っているのか疑問に思ってしまう。
「私とあなたが結婚するそうよ」
「はい。そのように伺っております」
その顔にも返事にも驚きは微塵も見て取れない。本当に知っていたらしい。
ずっと悩んでいたのを見ていたのだからこっそり教えてくれてもいいのにと思ってから、父様に口止めされていただろうし、彼の口が硬いからこそ両親も私も彼をこれほどまでに信頼しているのだと思い直した。
「お茶にいたしましょうか」
いつの間にか俯いていた顔に声がかけられる。そういえばそんな約束をした。
「……そうしましょう」
「かしこまりました。準備をお願いしてきますね」
頭を下げて、スタンレイはその場を後にする。その背中が見えなくなってから、私は覚束ない足取りで温室へ向かった。