番外編、私の婚約者様
スタンレイが婚約者になってから屋敷を出ていくまでの間のお話。
開け放たれた窓からふわりと香るのはジャスミンだ。
春が溢れるその部屋には、私と両親、スタンレイと彼の両親、少し離れたところに執事とダーナとメイドが数人並んでいる。
スタンレイの少し几帳面な字で書かれた名前が、父様のサインの下に並ぶ。
これで婚約完了だ。
思っていたよりもあっさりと、彼は私の婚約者になった。穏やかな横顔をじっと見つめる。
婚約をすればもっと心境の変化があるのかと思った。体の奥底から愛情がもくもくと沸き上がってきたり、とにかく離れたくなくなったり、そんな変化があるのかと。しかし人間はそんなに急に変わることはできないらしい。
顔を上げた彼に、目を細めて微笑んでみせる。
「これからよろしくお願いしますね、私の婚約者様」
スタンレイもいつもの涼しい顔で笑った。
「はい、よろしくお願いいたします」
*
この関係に急激な変化はなかった。
しかし、ふたりは少しずつ緩やかに婚約者同士らしくなるのだと思っていた。もう少しで夫婦になる男女、という未知の関係になると思っていたのだ。
それなのに。
「遠くない?」
いつものように休憩時間に温室まで会いに来てくれたスタンレイは、お互い手を伸ばしても届かないくらいの距離に立っていた。
不満げな私の言葉に、彼は首を横に振るだけだ。
「ねえスタンレイ。私たち、婚約したのよ」
「ええ、そうです。だからこそ、婚姻を結ぶまでは適切な距離を保つべきだと私は思います」
すっくと立ち上がる。じりじりと距離を詰めるが、彼はさっさと二歩後ろに下がった。
「……近くに行きたいのだけれど」
「いけません」
「父様にバレなければいいのよ」
「いけません」
「……この間私にキスをしようとしていたくせに」
「未遂です」
こうやってからかうと初めのうちは動揺を見せたが、今ではすっかりこの澄まし顔だ。
「つまらない……」
「つまらなくて結構」
どすんと椅子に座って、彼に背を向けてテーブルに突っ伏す。
スタンレイは嬉しくないのだろうか。婚約期間なんて一生のうちに今だけだ。この状況を一緒に楽しみたくはないのだろうか。
テーブルに頬を付けたまま皿のクッキーに手を伸ばす。「お行儀が悪いですよ」と諌める声を無視して数枚かじると、スタンレイが私に聞こえないようにしたのだろう、小さく小さくため息をついた音が聞こえた。
「お嬢様」
その声も無視する。
「……そろそろ戻ります。今日も夕食後にこちらで涼まれますか? その時にまた」
「どうせまともに向かい合って話もできないのなら、来なくてもいい」
唇を上滑りする悪態を言い切る前には、私はすでに心にもないその発言を強く後悔していた。
「……嘘よ、ごめんなさい。待っているから、会いに来て」
消え入りそうな声で言って、情けなくなって机に突っ伏している上半身を縮める。
いつまでも返事がなくて、呆れて行ってしまったのかと髪の隙間から覗く。スタンレイは目の前に立っていて、手袋を外した手でテーブルに触れて、すぐに離れた。
「十九時頃に参ります。失礼します」
靴音が遠ざかって、温室から屋敷に入るための扉が閉じた音がした。
「うぅ……」
呻いて、もう一度テーブルに顔を押し付ける。
寂しい。その感情に押し潰されそうだ。
何も知らずに無邪気に触れ合っていた頃に戻りたい――とは思わないが、向かい合って話をして、ただ彼の優しい瞳に見つめられたい。
今、体を支配する感情のほとんどは寂しさだ。
そして残りは。
体の奥底からもくもくと沸き上がってきたその感情は、彼に対する愛情なんかではなく闘争心だ。
よくも私にこんな寂しい思いをさせて。
こうなれば徹底的に抗戦してやる。
残っているクッキーを三枚鷲掴みにして、一度に口の中に放り投げる。ダーナに見られたらきっと三十分のお説教コースだが、今の私はそんなものを恐れない。
そうだ、こんなことでへこたれる私ではない。
またあの顔が見たいのだ。切なげに細められた目や、熱を帯びた視線や、ありのままの感情が滲み出たあの顔を。
もう一度私に向けて欲しい。
*
次の日、早速行動に移す。時間は午後。ダーナが出かけている時間帯を狙った。
スタンレイの今日の仕事を把握して、父様の執務室を出て彼の自室へと向かうその廊下で待ち伏せる。当てが外れて三十分ほど待つことになったが、ようやく目当ての人物が廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。
曲がり角に身をひそめて、そっと覗き見る。歩いてくるのはスタンレイひとりで、それ以外の人影はないし彼が私に気付いた様子もない。
靴の音を聞いて、姿勢を低くして構えた。その瞬間。
角を曲がってきた彼と目が合う。その顔が驚きに染まる一瞬前に、その腹に飛びついた。
「スタンレイ!」
「うわっ!」
私の姿を認識していただろうに、彼は聞いたことのないような悲鳴を上げ、手に持っていた紙の束を放り投げるようにバサバサと落とした。
背中に手を回したまま彼の顔を見上げると、その顔が狼狽に染まり、わなわなと唇が震える。
「お嬢様、あっ、あなたは一体何をして……!」
「最近あなたがそばに寄ってくれないから、寂しくて」
言い切る前に、肩を掴まれ勢いよく引き剥がされる。その手に手を重ねて、そっと頬擦りしてみせた。
「久しぶりに私に触ってくれた」
何か言おうと開いた口もそのままに、スタンレイはすっかり全身を凍りつかせてしまった。その顔を見上げて、唇を弧の形に吊り上げる。
さて、今日はこれで満足だ。固まった彼の代わりに落ちた紙の束を拾い上げ、その顔を覗き込む。
「いつまで固まっているの」
紙の束を差し出すと、スタンレイはようやく震える息を吐いて、私を見下ろしてそれを受け取った。
「……あなたという人は……ダーナに言いつけますよ」
「そんなことをしたら、結婚まであなたに会えなくなってしまう。……寂しいわ」
わざと眉尻を垂らして見上げると、スタンレイは口をつぐむ。彼は何か言おうとして、結局何も言えずに額を手で押さえて、それから顔を上げた。
「……それで、何かご用が?」
「いいえ、ただあなたを驚かせたくて待ち伏せしていただけよ」
怒られる前に、私はさっさと踵を返した。
「それじゃあスタンレイ、お仕事頑張ってね」
「お嬢様!」
背中に向かって怒鳴られる。
「次は絶対にダーナに言いつけますからね!」
「次を期待してくれているなんて嬉しい!」
大きく手を振って、私は完全勝利の余韻に浸っていた。
それから同じことを三回ほど繰り返し、二回は上手くいったが三回目は見事に避けられ悔しい思いをした。
その教訓を活かし、今日は彼の背後からそのあとをつけていた。ダーナにいいつけてやるなんて言っていたが、まだ一度もお説教を受けていないのできっと言いつけていないのだろう。
壁や廊下に並べてある調度品の影に隠れながら、その背中を追いかける。
曲がり角にさしかかった彼は少し警戒してそろりと角に近付き、そして私の姿がないことに息をついた。その背中に飛びつく。
「残念、こっちよ!」
「っ、お、お嬢様!」
素っ頓狂な声を上げて、スタンレイは拘束を解こうともがく。しかし私を転ばせないように気を使っているためか、この腕力とは無縁の腕すら振りほどけない。
「本当に、あなたという人は……!」
「今日はちゃんと用事があって声をかけたのよ」
彼の非難はさらりと流して、その腰を掴んだまま彼の体を廊下の壁に押し付ける。そして逃げられないよう、その体を挟むように壁に両手をついた。
スタンレイはというと、まるでナイフでも突き付けられているかのように両手を上げて壁に背中を張り付かせていた。
にこりと、私はいつもの調子で笑った。
「時間がある時でいいから、少し話をしたいの。式の後にあなたの親戚が集まる顔見せの会があるでしょう? その前に名前と親戚関係を把握しておきたくて」
「……かしこまりました。では休憩に入りますので、今から談話室へ」
「そう、助かるわ。ありがとう」
礼を言う。右往左往泳いでいる目は一度も私を見ない。
「……離れていただかないと移動できません」
「引き剥がせばいいじゃない、私の体に触って」
触れるものならなと口の端をにっと上げた。
少しからかってすぐに離れるつもりでいたが、その眉が吊り上る。彼は何度か深呼吸をしたが、その感情を収めることはできなかったようだ。
「お嬢様」
その声に、これは本気で怒ったなと引き時を察知して壁から手を離したが、その両手首を掴まれた。驚く間もなくそのまま体を引かれ、ふたりの位置が入れ替わる。壁に押し付けられているのが私で、私の両手首を掴んで壁に押し付けているのがスタンレイだ。
「一度痛い目にあわれますか?」
低い声で言って、その顔がずいと近付く。
「そうやって男を挑発することがどれほど危険な行為なのか、ご自覚なさるべきだ」
ぎりぎりと握り締められた手首が痛くて、体を跳ねさせる。
その力は強く、きっとどれだけ暴れても解けないだろう。これが男の腕力だ。
ようやく合わせてくれた目は真っ直ぐに私を、私だけを見ている。それが全身を歓喜させる。
「どんな目にあわせてくれるの?」
何も知らない、何も分からない。アイシェたちに教えてもらったって、まるで自分のことではないようだ。
何をするのか、何がどう危険なのか教えて欲しい。
こうすることでスタンレイがどんな風に変わってしまうのか知りたい。
「あなたになら、どんな目にあわされても構わない。……あなただけよ」
囁くように言って、目を細めて微笑みを浮かべる。
見たことのある顔だ。彼の血色の悪い目元に熱がこもって、ほんのり朱に染まる。見たかった顔だ。その顔が見たかった。
スタンレイの前髪が私の額に触れる。それほどまで近くに彼がいる。
目を閉じれば、彼はキスをしてくれるだろうか。
ゆっくりとまぶたを下げた、その時だった。
「おふたり……一体何をなさっているのですか……?」
その声に、いち早く動いたのはスタンレイだった。私の手を離して後退ったが、それがどれだけ素早くても、もちろんもう手遅れだ。
私もようやく動いて、おそるおそる声の主を振り返る。
廊下の真ん中で立ち尽くしているのは。
「ダーナ……」
父様の次にまずい人に見られてしまった。外出したのは確認したのに、彼女はいつもよりも早く帰宅したようだった。
怒りで顔を真っ赤にしたダーナが、長いスカートをたくし上げて廊下が割れそうなほど大きな強い足音を鳴らしながらこちらに走りだした。
「アーリス様、あなたは一体何を……!」
ダーナの怒りの矛先はスタンレイで、慌てて彼の前に飛び出て庇うようにダーナに向き合う。
「ダーナ、違うの、私がスタンレイをからかって……」
怯えた弱々しい声だったが、ダーナの怒りの視線は見事に私に切り替わった。私の肩を掴み、スタンレイから引き剥がすように壁際に押しやる。
「フローレンス様! 最近のフローレンス様の行動は目に余るものがございます!」
「はい、ごめんなさい」
「旦那様も仰っておられたでしょう! 婚姻までは清い距離を保ちなさいと!」
「はい、その通りです」
「もうじきミセスと呼ばれるご自覚をお持ちなさい! 私はもうあなたのそばにいることもできなくなるのですよ!」
目を丸くする。それはよくよく分かっていたことのはずだ。
「私がいなくなれば、どうなるのか……!」
「いてくれたらいいのに」
怒られている最中だというのに、つい本音が出た。
スタンレイが出て行く数日後に、ダーナも長年勤めたチェンバレン家の家庭教師をやめ、ここを出ていく。
頻繁に外出して実家へ帰り縁談を進めているダーナを、私は下がってしまった眉尻のまま見上げる。
「私が結婚してもあなたが結婚しても、私のそばにいてくれたらいいのに……」
その言葉に、ダーナは顔を朱に染めて口をパクパク動かす。
もちろん本心だったが、上手く怒りを逃せたらしい。と、思ったのは一瞬だけだ。彼女の怒りの矛先がスタンレイに移っただけだった。
「あ、アーリス様、あなたもです! お嬢様の挑発に乗るなど、少々浮ついていらっしゃるのでは!?」
「……返す言葉もない」
「旦那様も奥様もあなたを信頼しているからこそ、婚約の成立したおふたりが同じ屋根の下で過ごされることを快諾されたのです!」
「重々承知している」
「あなたはその信頼を……!」
「あの、ダーナ、お咎めは私が受けるから、だから」
スタンレイを庇おうとそっと近付いた体を、またしても強引に引き剥がされた。
「いいえ、なりません! アーリス様、今回のことを旦那様に報告するつもりはございません。しかし! 二度とこのようなことがないよう、今からみっちりとご指導いたしたく存じます! おふたりとも、今から私の部屋においでなさい!」
歩き出したダーナに、これから談話室で話し合いをする予定だった、なんて言えるわけがない。スタンレイと顔を見合わせて、諦めてもうすでに説教を始めているダーナを追いかけて歩き出す。
「ごめんなさい……」
スタンレイは完全にとばっちりだった。そろりと見上げて謝ると、彼は少し怒った顔を作って、それから耐えられなかったように笑った。
「ほら、痛い目にあったでしょう?」
「あなたに痛い目にあわされたいのに」
「……懲りませんね」
「フローレンス様! アーリス様! 聞いていらっしゃいますか!?」
突然投げつけられた怒声に、私は跳び上って叫んだ。
「はい、ごめんなさい! 充分懲りました!」




