13、フローレンス
「終わった……」
私は馬車のベンチに体をぐったりと預け、そう呟いた。
厳かな式は少年合唱団の美しい讃美歌と共に無事に終わった。
その後のパーティも、ダンスは招待していたダーナに合格点をもらえた出来だったし、代わる代わる挨拶に来る客ににこやかに挨拶を返すスタンレイの後ろで、愛想よく笑って会釈をする仕事もよく頑張ったと思う。猫かぶりは得意だったが、後半は頬が引きつらないようにするので精一杯だった。
ジョーゼフとも少し話をできたし、久しぶりに会った兄姉達ともよく話せたし、彼らの子供たちはそれはもう可愛かったし、大泣きしてしまったが両親に感謝の言葉を伝え別れの挨拶もできた。
私は見事に今日を乗り切ったのだ。
その戦友であるスタンレイも疲れ切っているはずなのに、彼はどこか借りてきた猫のように背筋を伸ばして私の向かいに座っていた。
視線に気付いて、彼は気まずそうに目を下げる。
「居心地が、少し……」
そういうことかと笑う。
つい数ヶ月前までは私達には超えられない壁があって、私が馬車に乗っている時はスタンレイはどれだけ寒くても暑くても外の御者の隣に座っていた。
結婚して同じ立場になったとはいえ、落ち着かない気持ちは分かる。
「すぐに慣れるわ」
一時間ほどでようやくスタンレイの家へと到着する。もう私が帰る家はここしかない。
さすが国内有数の商業区だ。きらびやかな建物がところ狭しと並んでいる中の、ひときわ大きな建物が今日から私の家になった。
身の回りの世話をしてくれるメイドの紹介を受けてから、私は耐えられずにリビングのソファに沈んだ。そんな私をスタンレイが見下ろす。
「お食事はどういたしましょうか」
「そうね、軽くでいいわ。あなたは?」
「私もあまり多くは食べられません」
スタンレイがそばに控えているメイドを振り返る。
「何かリビングでつまめるようなもの、すぐに作れる?」
「はい。すぐに」
作ってもらっている間に別室でコルセットだけ緩めてもらい、リビングに戻る。同じように服を緩めたスタンレイはソファに座っていて、私の顔を見て立ち上がった。笑って手のひらで座るように促し、隣のソファに腰を下ろす。
彼はどれくらいで私との生活に慣れてくれるだろうか。
熱いコーヒーをふたりで飲んで、一緒にため息をつく。
「明日は家の中を案内いたしますね。小さいですが中庭とテラスがあって、どちらも花が満開ですよ」
「本当に?」
庭があるように見えなかったのでそれはもう嬉しい。
スタンレイは数日間休日をもらっている。本来ならハネムーンへ向かうところだが、国外に出られるほどまだ私の体は万全ではない。区内の名所を回ろうと約束していた。
間もなくメイドが、燻製された魚と野菜が挟んであるサンドが盛られた皿を持ってきてくれた。
それほど入らないと思っていたが、一口食べるとどんどん食欲が戻ってくる。結局出された分をペロリと平らげ、さらにチーズも出してもらった。
「ワインが飲みたい」
「今日は駄目ですよ」
間髪入れずに却下され、肩を竦めてみせる。確かに今飲んだらきっと数秒で寝てしまうだろう。
もう今ですら、腹が膨れてさらに柔らかいソファに座っているせいで、気を抜けば眠ってしまいそうだ。
さすがに、今日は。
「疲れた……」
ため息とともに吐き出すと、スタンレイがぴくりと顔を上げた。
「お嬢様、具合が優れないようでしたらすぐに私に」
「スタンレイ」
いつもの過保護を名前を呼んで遮る。
「私達は夫婦になったのよ。いつまでお嬢様と呼ぶつもり?」
彼の顔が目に見えて狼狽える。その目がふらりと揺れて戻ってこない。
「……フローレンス様」
「呼び捨てにして。私はもう貴族の娘ではなくあなたの妻なんだから」
少し意地悪を込めて言ってみたが、珍しく彼はそれに気付かない。
スタンレイは意を決したように顔を上げて「フローレンス」と呟いてから、たまらなくなったようで「様」と付け足した。
うめき声を上げながらスタンレイは両手で顔を覆う。
「駄目です、染み付いた従僕精神が……」
真面目がこんなところで裏目に出たようだ。あまり使用人たちには見せられない姿だ。
「ゆっくりでいいから慣れて」
「かしこまりました……」
「あと、あまりかしこまった敬語はやめて欲しいわ」
「かしこま……分かりました」
先が思いやられると、私達は顔を見合わせて笑った。
食事を終え、スタンレイの次に湯を使わせてもらう。
丁寧に櫛を入れてもらい、髪や体にオーデコロンを塗りこまれ、用意された寝間着を羽織る。
そのあまりの薄さと頼りなさに、ようやくオーデコロンを塗られた理由と、スタンレイが今日はワインは駄目だといった理由を理解した。すっかりやりきった気になっていて、まだイベントが残っていることを失念していた。
なぜか妙に居心地のいい自室で、ベッドに座りスタンレイを待つ。
ようやく控えめなノックの音がして返事をすると、入ってきたのはゆったりとした寝間着にガウンを羽織っているスタンレイだった。
彼はいつもと変わらない顔で小首を傾げる。
「お加減はいかがですか?」
「問題ないわ。今日何度目かしら、その台詞」
「三回目くらいですか?」
「九回目よ」
覚えているだけでそれだけだ。
私の隣に大きく隙間を開けて座ったスタンレイを見る。彼の手にはテディベアだ。持ってきてくれるだろうと思い、私もお守りのリボンを用意していた。
受け取ったテディベアにリボンを巻き直して、枕元に置いてからその頭を撫でる。
「あなたは本当に心配性ね。私はもう、小さくて華奢でか弱いあなたのお嬢様じゃないのよ」
冗談めかして言ったのに、彼は思ったよりも強いショックを受けているようだった。
「そう……ですよね」
どこか寂しそうな彼に苦笑いをする。
「ひとりの大人として、いつまでもあなたに寄りかかっているわけにはいかないでしょう。夫婦なんだから」
枕元に置かれている白いバラの花を手に取る。濃厚な匂いを堪能してから、スタンレイにそれを差し出した。
「今の私を見て。……私、大人になったでしょう?」
頭の中は置いておいて、少なくとも体は大人になったはずだ。
それはどういう顔だろう。彼はなんとも言えない、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも緊張しているようにも見える顔をしてから、ぐっと唇を引き締めた。
バラを受け取ってから、それからバラを掴んでいた私の手も取る。
背中を丸め、彼は恭しく私の手の甲にキスをした。
「はい。とてもお美しく成長なされました。……目眩がするほどに」
スタンレイの息が一瞬乱れる。
恭しい手の甲のキスとは正反対の、押し付けるようなキスが手のひらと手首に落とされる。
彼の男の部分が見えたようで、感じたのは背筋が跳ねるような感覚だ。恐怖のせいなのかもしれない、それとも。
聖書の一節を口にしながら、スタンレイがバラの花びらを一枚千切った。
口元に運ばれたそれをぱくりと口に入れる。咀嚼してみたが、やはり美味しいものではない。
一気に飲み込んで、スタンレイが差し出したバラを受け取る。
どれが美味しいだろう。外側は固そうだし内側は花粉がついている。真ん中の花弁をぷつりと千切って、彼の口に運ぶ。
咀嚼する唇を見つめながら「ドレッシングを用意するのを忘れていたわ」と言うと、スタンレイはきょとんと目を丸くして、すぐに冗談だと気付いて非難するように目を細めた。
「怖い顔をしているから、場を和ませようとしたのよ」
自覚がなかったのだろう。気まずそうに頬に触れて顔をほぐし、スタンレイは気を取り直したように顔を上げた。
「これで儀式はお終いです」
彼は立ち上がって、サイドテーブルに用意してあった花瓶にバラをさす。
またベッドへ座った彼との距離がさっきよりもずっと近いのは、わざとなのか。わざとだろう。
ベッドの下に垂らしていた足を上げ、私はじりりと後退る。
「……緊張してきた」
「今ですか。私は部屋に入る前から緊張しきっていたのに」
「そうね。右手と右足が同時に出ていたわ」
「……本当に?」
「嘘」
べっと舌を出すと、さすがの彼も眉間にしわを寄せる。だって、何か冗談でも言っていないと怖くて逃げだしたくなってしまうのだ。
「場を和ませようと」
言葉を切る。いや、切らされた。
私の唇に、彼の唇が触れる。本当に少しだけだ。すぐに離れて、思わず閉じていたまぶたを上げる。
今のがキスだったのか。キスは柔らかくて甘くて気持ちがいいものだとアイシェ達が教えてくれたのに、ほとんど何も分からなかった。
「……よく分からなかった」
「では、もう少し長くしてみましょうか」
返事をする前に強くスタンレイの唇が押し当てられた。首筋に回された手が、さらに私を引き寄せる。
ああ分かった。もう充分だ。
ようやくアイシェたちが言っていたことが理解できた。確かに彼の唇は驚くほど柔らかい。その舌も砂糖のように甘い。
彼の手が背中と後頭部に回される。ゆっくりと体重をかけられ、ベッドへ転がされた。
お互いの口内を味わうようなキスが終わり、彼の顔が離れていく。
ランプに照らされたスタンレイの、顔の向こう。
今頃気付いた。花柄の天井だ。実家の私の部屋と似ている。
「天井、もしかして張り替えてくれたの?」
「はい」
「そうなの、嬉しい。落ち着くわ」
「そう言ってくださると思って」
そう言えばと部屋を見渡す。家具の配置も実家の自室と似ている。居心地がいい原因はこれだ。
「もしかして家具の配置も」
「フローレンス」
名を呼ばれて、言葉を切ってスタンレイの顔を見る。その緊張しきった顔に、彼がようやく敬称をつけずに名を呼んでくれたことに気付いた。
そう呼ばれるときっと嬉しくなると思っていた。彼と本物の夫婦になれたような気がするんじゃないかと。
それなのに。
体中の熱が顔面に集まったのではないかと思ってしまうくらい、燃えているように熱い。何か言おうと思うのに、口がぱくぱくと動くだけで声が出ない。
顔をそらそうとしたが、スタンレイの指に阻止される。
「ちょっと……待って」
「いいえ、もう待てません」
熱い頬を指で撫でながら、追い詰められた声でスタンレイが言う。
彼がこんな風になるなんて、一体どれほど待っていたのか。
いや待て。
本当にいつから待っていたのだろうか。
「いつから待っていたの?」
この生真面目スタンレイが、私をそういう目で見始めたのはいつからなのだろう。
婚約が決まってからだろうか、それとも婚約をしてからか、それとも式を終え夫婦になってからなのか。
「……その話、今でなければいけませんか?」
「今」
「絶対に今じゃないといけませんか……?」
「今がいい」
終わってからでは聞くのを忘れてしまいそうだ。
見つめ合って、スタンレイはようやく諦めたようで渋々口を開いた。
「……ダンスの練習の最中に、あなたが、『結婚したらキスをするの?』と私にお尋ねになった時から」
驚く。思ったよりも早い時期だった。それにそのあとも、彼の態度に変化は全く見られなかったというのに。
「それまでは、あなたと結婚すると分かっていながらも、どこかまだあなたの事を出会った頃のまま見ていたのでしょうね。そういう行為と全く結びつかなかった。しかしあなたにそう尋ねられ、一瞬あなたとするキスを頭の中で思い浮かべてしまって、その唇の柔らかさを想像してしまって、それからはもう駄目でした」
スタンレイの指が伸びてきて、私の唇を優しく撫でる。
「駄目だと思えば思うほどあなたに触れたくなって、我慢すればするほどあなたが愛おしくなって、そんな時にあなたはおひとりで悩んで私から遠ざかろうとするので、それがその思いに拍車をかけて」
「……スタンレイ」
「婚約をしたあとも、私は欲を抑えるために距離を取っていたというのに、あなたはそんな私の気も知らずに抱き着く触れるで、本当に」
「スタンレイ」
少し大きい声を出して彼の言葉を止める。
「恥ずかしいから、もういい」
もう早くランプを消して欲しい。この真っ赤であろう顔をこれ以上見られたくない。
思っていた以上に彼は私を女として見ていた。もっとお淑やかにしていればよかったなんて、完全にあとの祭りだ。
「では、続きをしても?」
返事をせずに、私は仏頂面のまま目を閉じる。小さな笑い声が聞こえて、すぐに唇に柔らかいものが触れた。
徐々に翻弄されて夢中になってしまう前に、私は枕元に手を伸ばす。
私達を見つめるテディベアを手探りで探し当て、ひっくり返して背中を向けさせた。




