12、白馬に乗った
庭一面を春の花が埋め尽くす頃。
スタンレイは父様の従者ではなくなり、それと同時に私の婚約者となった。
彼はすぐに出ていく予定だったが、式の最終確認や引き継ぎの確認などが思ったよりも長引いてしまった。
そして二週間後の今日、全ての仕事を終わらせてこの屋敷を去る彼を見送るために、私は玄関に立っている。
最後の最後まで両親と予定を詰めていた彼は、ようやく待ちくたびれていた私の元へ来てくれた。
その手にはいつか貸したままだったテディベアが抱かれている。私の視線に気付いて、スタンレイがそれを持ち上げる。
「長い間お借りしてしまいました」
「いいのよ。一緒に寝ていたの?」
「はい、枕元に置いていました」
笑いながら受け取って、私は少し考える。
「今からまた半月ほど会えないし、もう少し貸しておきましょうか?」
テディベアを抱きしめて、そのまま彼を見上げた。
「私がいないと寂しいでしょう?」
自信たっぷりにそう言うと、スタンレイは噴き出すように笑う。
「はい。きっと寂しくなるので、もう少しお借りしておきます」
うんと頷いて、もう一度キスをしてから彼にテディベアを差し出す。
そして彼の腕の中に戻ったそれから、私は思い出したようにリボンを解いて取った。
「これは、あなたの元へ行くまでのお守りにするわ」
「ええ、そうですね。そうしてください。どうかお気をつけていらっしゃってくださいね」
「分かった。でも先に気を付けて行かなければならないのはあなただからね」
言いながら指で彼の胸元をつついて、その時初めて彼が今着ているのが私が縫い上げたシャツだと気付いた。こんな門出の日に着てもらえるなんて嬉しい。
その襟元に触れる。我ながらよくできたと思う。
「サイズはどう?」
「ぴったりですよ。とても着心地がいいです」
「そう、よかったわ」
シンプルな襟を指で弄びながらふと気付く。
そういえば今日のスタンレイは、私が近付いても逃げようとしない。
婚約者となり少しは距離が近付くのかと思いきや、スタンレイとの物理的な距離はそれ以前よりも広がった。鈍い私でも気付くほどに。
彼はこれまで通り時間が空けば私に会いに来るのに、触れるどころか近くにも寄らない。私が近付けば逃げていく。
曲がり角で待ち伏せて、突然抱き付いて焦る彼を見て楽しんだりしていたが、ダーナに見つかってそれはもう怒られてからは適切な距離を保っていた。
「んんっ、ううん!」
父様のわざとらしい咳払いが聞こえて、笑いながらスタンレイから手を離す。
割り込むように私たちの間に立ってから、父様はまた咳払いをして私に言った。
「フローレンス、お前が渡してやりなさい」
「はい」
メイドが持ってきてくれた花束を受け取る。
旅の無事を願い渡す花だ。
スタンレイにとっては何度も行き来している道だが、これまで誠心誠意我が家に尽くしてくれた感謝の意も込めて、彼の門出を祝うことになった。
指を組んで神様へのお祈りを済ませ、スタンレイを見上げる。
「あなたの旅路の無事をお祈りします」
「ありがとうございます」
お守りのついた二輪の花を、膝を折った彼の胸ポケットにさす。
花でできた大きな輪っかは、馬車を引く二頭の馬の首にかけてやる。人懐っこい白い馬の頭を撫でながら、私はいつか自分がため息混じりに呟いた言葉を思い出した。
白馬に乗った王子様が私をさらっていってくれないかしら、という言葉を。
ふふ、と笑う私をスタンレイは不思議そうに見る。
「あなたが私の白馬に乗った王子様だったのね」
彼も私の言葉を思い出したらしく、困ったように笑っている。
「……王子様とは、恐れ多い」
だったらなんと言えばいいだろう。色々考えてみたが、なんだかしっくりこない。
その時、辺りに教会の鐘が鳴り響いた。報せてくれたのはスタンレイの出立の時間だ。
「時間だ、スタンレイ」
「はい」
スタンレイは何度も何度も父様に感謝の言葉を述べ、長い間頭を下げた。
この家と父様に生涯を捧げるつもりだった彼は、出て行くのが辛いと何度も言っていた。それでもここでの経験は、きっと彼のこれからの人生の役に立つことだろう。
スタンレイは母様や執事達とも最後の挨拶をして、また私の前に戻ってきた。
「お嬢様」
彼は目の前に片膝を付き、両手を差し出す。
その手に私の手を重ねると、顔を近付けそっと唇を押し当てた。
触れていたのはほんの一瞬。すぐに離れて、スタンレイは立ち上がった。
彼以外の男には何度もされたことのある挨拶だが、こんなに気恥ずかしくなったのは初めてだ。
誤魔化すように笑顔を浮かべる。
「さらわれに行くから、待っててね」
「はい。お待ちしております」
もう一度深く頭を下げて、スタンレイは馬車に乗り込んだ。
私は手に持ったリボンを強く握り締め、馬車が見えなくなるまでその場で手を振っていた。
もしかすると彼よりも私のほうが、このひと時の別れを寂しがっているのではないかと疑いながら。
***
スタンレイに遅れること十日。
私は大泣きするアイシェや他のメイド達に見送られ、両親と嫁入り道具と共に住み慣れた屋敷をあとにした。
本来なら一日から二日かかるスタンレイの実家までの道のりを、体調を考慮して三日かけてのんびり向かう。
いつも忙しい両親と最後にゆっくりと過ごせたおかげで、使用人達や住み慣れた家と離れた寂しさを癒やすことができた。
ダーナは私の婚約を見届けて家庭教師を辞め、嫌がっていた結婚をする決意をようやく固めたらしい。この歳ではろくな縁はないと腐っていたが、なかなかの良縁が見つかったようだ。それもスタンレイの住む区で。
彼女はこれからも良き相談相手でいてくれるだろう。
ようやくたどり着いた式を挙げる予定の教会に一泊し、とうとう式の当日だ。
今日はろくにものを食べられないだろうと朝に大食いしたせいでコルセットに殺されそうなくらい腹がきついが、それ以外はおおむね健康だ。
教会内の一室で、あっという間に花嫁に仕上げられていく。
きっと壁を何枚か隔てたところにスタンレイがいるだろうに、神前でしか会ってはいけないらしい。神様というのはもったいぶるのが好きなんだろう。
ようやく最後の仕上げが終わり、部屋に父様と母様が通された。
私を一目見て母様の顔が綻ぶ。
「きれいよ、フローレンス」
「ありがとうございます」
何も言わない父様を見上げると、彼は眉をこれ以上ないほど垂らし、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「お前を手放すことになるなんて思わなかった……」
何を今さらだと母様と顔を見合わせて笑う。
「体の弱いお前はずっと私の元にいてくれると思っていたのに……」
「強くなったのですよ、父様と母様のおかげで」
この歳まで生きてこられたのも彼らのおかげで、今こうやってウエディングドレスに身を包んでいられるのも彼らのおかげだ。
父様はうんうんと頷いて、赤い目で私を見た。
「フローレンス、幸せになってくれ」
その言葉に、私は満面の笑みを浮かべて、自信を持って言い切った。
「はい、幸せになってきます」
母様の手によってベールが降ろされる。さあ、これからひとつめの幸せが始まる。結婚式だ。
母様と別れ、父様と共に教会の玄関まで回る。大きな教会にはもうかなりの数の参列者が入場しているらしい。スタンレイももうすでに入っているという。
厳かなパイプオルガンの音が鳴り響き、それが入場の合図となった。大きな扉がゆっくりと開き、先導する司祭がそれをくぐる。
父様が差し出した手に手を置き、私も一歩を踏み出した。
大勢の参列客に驚きはしたが、すぐにそれは気にならなくなった。
鮮やかな新緑色の絨毯の向こうに、正装に身を包んだスタンレイの後ろ姿が見えたからだ。
スキップをしながら駆け寄りたい気分だったが、長いベールを持ってくれている兄姉の子どもたちが転ばないスピードで、一歩一歩絨毯の上を進む。
思ったよりもベールの視界が悪くかなり近付かなければ気付かなかったが、スタンレイは背中の真ん中まであった髪を切ったようだ。
母様と並んで参列者席に立つ兄姉にこっそり手を振り、父様に支えてもらいながら階段を上って、私はようやくスタンレイの隣にたどり着いた。
彼の顔を見上げる。彼も同時に私を見下ろして、目が合って微笑みあう。久しぶりに会う彼に気恥ずかしさを感じないのは、きっとベールのおかげだ。
スタンレイが囁くように言う。
「お綺麗です……」
「ありがとう。髪を切ったの?」
「ええ」
「そう。長い髪も好きだったけど、それも素敵」
パイプオルガンの音がやみ、視線を前へと戻す。
司祭の開会宣言から讃美歌、ありがたいお言葉と式は進んでいく。
本当ならしんみりと愛について語る司祭の話を聞かなければならないのに、私はそれどころではなくなってしまっていた。開会宣言の直前に、スタンレイが隣に立つ花婿付添人に「ジョーゼフ」と呼びかけたからだ。
ちらちらと盗み見る。この人が噂のジョーゼフか。なかなかの巨漢で、熊に怯えて腰を抜かすどころか本人が熊のように強そうだ。あとで絶対に話を聞かなければならない。
ようやく真面目に話を聞き始めた頃にはありがたいお言葉はもう終盤だった。
父様が一歩前へ出る。握り締めたままだった私の手を、スタンレイが差し出した手のひらの上にそっと乗せた。
「頼んだぞ、スタンレイ」
「はい」
固い、しかしはっきりとした返事が聞こえて、父様が微かに口元を緩め。そして、ゆっくりと私の手を離した。
父様とジョーゼフが祭壇を降り、私とスタンレイが残される。握り合った手が小さく震えているが、どちらが震えているのかそれともふたりとも震えているのか分からない。
止めようとぎゅっぎゅと握ると彼も同じように二回握り返してきて、ようやく強張っていた口元が緩んだ。
そのまままた長い長い説教を聞いて、賛美歌を歌って、神父の誓いの言葉を復唱する。
指輪の交換は、とあるジンクスをアイシェに教えてもらっていて楽しみにしていた。新郎が新婦の指の関節に引っ掛けずに指輪をはめることができると、結婚生活の主導権を新郎が握ることができるらしい。
スタンレイは見事に私の第二関節に引っ掛けたので、これは私が尻に敷くことになると思ったのに、私も同じように引っかけてしまい引き分けと相成った。
スタンレイは私がこんなに不真面目な事を考えているなんて思わないだろうか。いややっぱり、きっとお見通しなのだろう。
ベールが持ち上げられる。ようやく鮮明になった視界に、スタンレイが見えた。
司祭が、ふたりが晴れて夫婦になったことを宣言する。
讃美歌が流れ、教会の中が華やかに色づく。
しかし私はスタンレイの顔から目を離すことができない。
目を細めて、それはそれは幸せそうに笑う顔から。
それを見て私は唐突に悟った。
ああ私は、私達はきっと、誰もが羨むくらい幸せになれる。
次回最終話です




