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11、私のご主人様




 そのまま出て行ってしまうのかと思ったが、スタンレイは私に歩み寄って足元に片膝をついた。

 怯えたまま彼の目を見る。

 彼も同じように、その目に恐怖のような、戸惑いのようなものを宿していた。

 それでも彼は、私のように逃げたりしなかった。


「お聞きください、お嬢様。初めにもお伝えしました。私はあなたとの婚約を了承した時点で、自分は子供を持たないと決心したのです。元々、ここで旦那様に仕えている間は独身を貫くつもりでおりました。子を持てないことは、私にとって些細なことでしかありません」


 些細なことでしかなかったのは事実なのだろう。しかし子供を持たないと決めていた彼の人生に、従者をやめ家業を継ぐことによってもうひとつの選択肢が増えたことも事実だ。

 私のために、彼がそれを諦めることなんてない。犠牲になることなんてないのだ。


「私のせいで、あなたが不幸になるのが、嫌……」

「なぜ、なぜそんなことを仰るのですか……? 旦那様は、本当にそれでいいのかと一ヶ月も考える時間をくださいました。考えて考えて、自分がどうしたいのか考え抜いて、そして私はあなたとの婚約を決めました。それに後悔はありません」


 彼の手が伸びてきて、膝の上に置いた私の手を包む。ゆっくりとひとことずつ、言い聞かせるような言葉だった。


「お嬢様の病気が発覚した時期と、私がアーリスを継ぐと決まった時期は全く同じなのです。子を成せないあなた、子を必要とされない私。私達は同時期にぴたりと当てはまった。お嬢様がよく仰るでしょう、人生はなるようになると。その言葉を思い出して、私はこの必然の成り行きに、最早運命に、身を任せると決めたのです」


 なるようになると、何度も私に言い聞かせた彼の声が蘇る。彼はもうあの時から、この結婚は運命なのだと受け入れていた。

 私の頬に触れたスタンレイの指が、私を思考の深淵から引きずり上げる。

 指が輪郭をなぞって、すぐに離れる。代わりに私を捕らえたのは見慣れたヘーゼル色だ。その真っ直ぐな瞳から、目を逸らすことができなくなった。


「私の、小さくて華奢でか弱い、もうひとりのご主人様。ずっとあなたの幸せを願い続けてきました。未だに出会った日のあなたを忘れられないのです。ベッドに横たわってお話の続きを催促する幼い少女が、私はもう死ぬのだからと、死を受け入れていたあの絶望を。私はあなたに生きていて欲しかった」


 瞬きをするたびに、彼の瞳が濡れているようにくるくると光る。


「成功率が半分以下の手術を受ける時も、あなたは笑顔だった。好き勝手生きてきたのだから死んでも悔いはないだなんて、周りの気も知らずにあなたはそんなことを仰るのです。手術が終わって、目を開いたあなたを見た時の私の気持ちを想像できますか?」

「……泣いていた」

「そうですよ、泣くほど嬉しかった。もうあなたは死を前提に生きなくてもよくなったのですから。そうすると次はあなたに幸せになって欲しくなった。そのためなら何でもしました。あなたの伴侶を決める時も、それはもう時間をかけて、何人も人をやって調査させ、そして最高の伴侶を旦那様と共に選び抜きました。あなたは優しく誠実な貴族の男と結婚し、あなたを幸せにするという私が自らに課した責務はそれで終わりだと思っていたのです」


 しかし、と彼は首を横に振る。言葉に、視線に、強いものが混じり始める。

 両手で包んでいた私の手を力任せに握り締めて、スタンレイは唇を震わせて声を上げた。


「しかしその婚約は破談になり、私にその役目が回ってきました。その運命に私は決心したのです。あなたを幸せにできるのが私しかいないのなら、それなら、私が幸せにしてみせる……!」


 語気が荒くなる。

 スタンレイは立ち上がって、私の両手首を強く掴んで叫んだ。


「そしてそれは、旦那様にも、誰にも強制されたことじゃない! 嫌々決めたことじゃない、何かを諦めたわけでもない! 俺自身がそうしたいと決めたのです! 俺は、あなたと結婚して不幸になるつもりなど微塵もない……!」


 彼の声がきんと耳に響いて、脳内に静寂が落ちる。

 ゆっくりと時間をかけて静寂の中で彼の言葉を繰り返す。

 激しい言葉だったというのに、それは驚くほど優しく暖かく私を包んだ。


「あなたが幸せなら、俺も幸せです。あなたが笑っていてくださるのなら、他には何もいらない。必要ない」


 ぽつりと呟かれた言葉に顔を上げる。

 握り潰されそうだった手首が、ふいに離された。


「すみ、ませ……ん」


 呆然とした声で呟いて、スタンレイはふらりと二歩後ずさった。


「すみませ……申し訳ございません。無礼をお許しください」


 彼はまた私の目の前に膝をついて、深く頭を垂れる。

 腕を伸ばして、その髪に触れる。そっと頭を引き寄せてしがみつくと、少し戸惑った彼の手が私の背中に触れて、すぐに下ろされた。


 想像していたよりもずっとずっと、ずっと彼は私を大切にしてくれていた。最大の幸せを与えてくれていた。

 そして今度は婚約者として妻として、私を幸せにしてくれるらしい。

 スタンレイが私の肩をそっと押す。息が触れそうな距離のまま、彼は囁くように言う。


「お嬢様。私は男なので、子供を産めないという苦しみを実際に経験することはできません。あなたがどれほど苦しんで、どれほど他人の言葉に傷ついているのか、想像することしかできない」


 うんと頷く。


「だから、教えてください。ひとつひとつ言葉にしてください。そうすれば、私はあなたの苦しみを少しでも和らげることができるかもしれない」


 もう一度頷いて、その拍子に涙が一粒落ちた。

 もう何年も見なかった涙だ。久しぶり過ぎてどうやって止めるのか思い出せない。

 拭おうとした手を止められ、ハンカチを差し出される。

 礼を言って受け取って、流れ落ちる涙を何度も拭う。何度も深く深呼吸して嗚咽が止まった頃、私はようやく覚悟を決めた。

 腹を割る覚悟をだ。


「スタンレイ、私、怖いの……」


 彼の手がまた私の手を握る。目一杯握り返して、震える声で全てを吐き出す。


「あなたみたいな素晴らしい人の妻になって隣に立つことが怖い。私はずっといい加減に生きてきて、世間知らずで、他の女性が当たり前にできることが……子供を産むことができない。きっとそれは世間では嘲笑の的だ。私の恥は夫であるあなたの恥になる。いつか私が、頑張って努力して生きているあなたの重荷になってしまうんじゃないかって、怖いの」


 スタンレイが目を見張る。私がそんなことで悩んでいたなんて、彼には想像もつかなかったのだろう。


「私、あなたの役に立ちたい。子供を産めない代わりに、あなたが外で子供を作ってきても我慢しなきゃいけない。それ以外のこともちゃんとできるようにならないといけない。そうやって頑張って、我慢して、頑張ったけど、でもそれで足りているのかも分からなくて」


 止まったと思った涙がまた溢れた。


「私……疲れてしまって」


 何もかもが嫌になって、そして恐ろしくてたまらなくなってしまった。


 体にとんと衝撃があって、気付いたらスタンレイの腕の中にいた。私を強く抱き締めながら、彼は私の後頭部を優しく撫でる。


「頑張りましたね。辛いことを、よく頑張りました」


 うんうんと頷く。私史上最大の頑張りだった。彼の肩に頭を預け、優しい手にされるがままになる。


「しかしもう、頑張る必要はありません」

「うん……」

「結婚後は、また頑張らなければならないことが山ほどあります。今は休みましょう、お互いに」

「うん」

「我慢する必要は何ひとつありません。私はあなたが悲しむことは絶対にいたしませんので」

「うん」


 スタンレイの肩に顔を押し付けて、何度もうんうんと頷いた。

 彼の背中に手を回してぎゅっと握り締める。スタンレイが何か言いよどんだ気配がした。今度は私が彼の言葉をじっと待つ。

 ようやく彼は息を吐いて、小さな声で話し始めた。


「お嬢様は私を素晴らしい人と仰いましたが、私は素晴らしいという言葉からは程遠い男ですよ」


 ゆっくりと体を離した彼は、自嘲するように言葉を続けた。


「自分の限界すら見極められず、アーリス商会を継ぐ重圧で自分を追い詰めて、自滅寸前でした。あなたが『私のために休んで』と無理やり休ませてくださらなかったら、今頃どうなっていたか分かりません」


 スタンレイは何かを思い出したように苦笑いを漏らす。


「あの時も、あなたのお顔が見たくて気付いたらあそこに立っていたんです」


 あの時。彼が土のような顔色で、私の勉強室の前で立ちすくんでいた時だろうか。縋るように私の手に触れて、「疲れました」と珍しく弱音を吐いた時の。


「あなたの笑顔に、その明るい笑い声に、なんとかなるよと言ってくださる声に、私がどれほど救われたか。お嬢様はもう、何度も私の助けになってくださっているのですよ」


 そんなもので、本当に彼の役に立てているのだろうか。訝しげな私に、スタンレイは笑う。


「では、もう少しだけお願いをしてもいいですか? 私は休息を取るのが下手で、もし私が疲れたと弱音を吐いたら、少し休めと叱責してください。私が悩んでいたら話を聞いて、それくらい何とかなると励ましてください。幸せな時は笑っていてください。辛い時は私に話してください」


 うんと頷く。頭の中でもう一度反芻して、今度はもっと大きく頷いた。


「うん、それくらいなら私でもできる」


 追い詰められるほど頑張ったり、涙が出るほど我慢しなくても、それくらいなら私でも、彼の助けになれる。


「お嬢様は何か、私にして欲しいことはございますか?」


 して欲しいこと。

 唇を結んで、そしてもう貯め込むのはやめようと口を開いた。


「他の女の人と子供を作らないで欲しい……」

「もちろんです。約束します」

「でも、どうしても子供が欲しくなったら、我慢したりしないで私に教えて欲しいの」

「分かりました。その時は必ず。もちろんお嬢様もですよ」


 小さく頷く。彼のことばかり気にしていたが、私も欲しくなることがあるかもしれない。


「私の知人に、子宝に恵まれず養子を何人かとった夫婦がいます。その時は彼らを訪ねて、話を聞いてみましょう。とても仲のいい家族ですよ」


 うんと深く頷く。

 不安がなくなったわけではない。でも、ひとりで悩む必要はないと彼は言ってくれた。

 今の私でも、ちゃんと彼を支えることができる。


 初めからこうやって腹を割って話し合えばよかった。やはり、年長者の助言は聞くべきだった。


「ありがとう、スタンレイ」

「私こそ、ありがとうございます」


 スタンレイが、そっと私の表情を隠す前髪を指で払う。


「やっと、笑ってくださった」


 びくりと体が強張った。またこの感覚だ。彼が触れている髪から、全身に緊張が広がる。

 心臓が高鳴っている。ただスタンレイが私の髪に触れているだけだというのに。

 小さな頃からそばにいる。手を繋いだことも、抱き上げられたことも、頬にキスをせがんだこともある。その時はこんな気持ちになんてならなかったというのに、どうして。


 こんなに胸が苦しいのに、それは全く不快ではない。


「どうして……あなたに触れられると胸が苦しくなって、でもこんなにも嬉しくなるの?」


 熱を帯びる彼の目に、私は尋ねた。


「これが恋なの? スタンレイ」


 すぐそこにある彼の唇が動く。ああ触れたい。やっぱりこれは恋かも知れない。


 大きな手のひらが私の頬を包む。彼の吐息が私の唇に触れて、きっと私の吐息も彼に触れて。

 目を閉じようとした直前、頬のぬくもりが突然消えた。

 まぶたを上げて、立ち上がったスタンレイを見上げる。

 彼は何も言わずに向かいの椅子へと戻り、もう冷めているであろうコーヒーを一気に飲み干して、そして深刻そうに深い息をついた。

 私は椅子に座り直して、目を合わせようとしないその顔を覗き込むように机に肘をつく。


「ねえ、スタンレイ。私、男女の色恋には疎い自覚があるんだけど……今のはもしかしてキスをする雰囲気だったんじゃないの?」

「駄目です」


 強く言って、それから彼は視線を泳がせる。どうやら見た目よりずっと狼狽しているようだ。


「……まだ、婚約もしていない身で、そのような」

「したいとは思ったの?」


 息を呑んだスタンレイから否定の言葉は出てこなかった。つまりそういうことなのだろう。

 にやりと口の端を吊上げる。


「これはこれは……あのスタンレイ殿が、まだ婚約もしていない身分違いの令嬢にそのような不埒な感情を抱くなどと……」


 私の笑みが深くなるのに反比例して、スタンレイの顔が引き攣っていく。


「……いつものお嬢様に戻られましたね」

「それで、しないの?」

「しません」

「誰も見ていないのに」

「そういう問題では」

「人払いをしたのはあなたでしょう。今頃アイシェ達が噂話をしているわ。アーリス様も意外とおやりになるのね、って」


 それどころか扉の向こうで聞き耳を立てているかもしれない。珍しいスタンレイの怒声も聞かれたかもしれない。私の泣き言も。


「しないの?」

「しません」

「父様には、内緒にしてるから」

「……しません」

「そう、残念だわ」


 したかったと、言外に匂わせてみる。

 気付いたらしいスタンレイは、唇をへの字に結んだ顔をほんの少しだけ赤くした。誰もが褒め称える完璧な男だと思っていた頃には見たことがない顔だ。

 もっと見ていたくて机に肘をついて見上げていると、スタンレイの視線が居心地悪そうに左右に揺れる。


「では、そろそろ仕事に戻ります」

「そうなの、残念」


 スタンレイは立ち上がって胸に手を当てて深呼吸して、ようやくいつもの顔で私を見下ろした。


「また時間が空いたら参りますので」

「分かった。待ってる」

「失礼します」


 何事もなかったかのような顔で頭を下げて、でもきっと頭の中は大混乱しているであろうスタンレイの背中が、扉の向こうに消えた。

 私は手元に視線を戻し、焼き立てらしいクッキーを口に放り込む。

 何て気分だ。今なら空も飛べそうだし、でも穴に埋まってしまいたくもある。叫びたいような、誰かに聞いてもらいたいような。


 黙々とクッキーを平らげていると、こんこんと小さなノックが聞こえた。入ってきたのはアイシェだ。

 彼女の表情を見てすぐに気付いた。


「おかわりをお持ちいたしましょうか?」

「いいえ、結構よ」


 じっとその顔を見つめると、彼女の笑顔がぴくぴくと引き攣る。


「覗いていたでしょう」

「さて、なんのことやら……」


 あくまで白を切る気らしい。


「座って」


 そう言って、先ほどまでスタンレイが座っていた椅子を指さす。首を竦めたまま椅子に座ったアイシェをまた見つめて、それから口の端を上げて見せた。


「ねえ、キスくらいいいと思わない?」

「わっ!」


 何やら叫びかけて、アイシェは言葉を切る。辺りを見渡して、椅子を抱えて私のすぐ隣に移動してから、彼女は私に頭を寄せた。


「私は、キスだけなら、いいと思いますよ?」


 ひそひそと内緒話をするように彼女が言う。


「そうよね?」

「そうですよ……!」


 顔を見合わせてにやりと笑い合う。

 それから夕食までの時間、他にも数人のメイドが集まって、キスがどんなものなのかを私は彼女たちから聞かされることになった。




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