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10、この身を捧げる




「先日は取り乱してしまい、大変申し訳ございませんでした」


 三日短くなった四日間の謹慎を終え勉強室に顔を出したダーナは、あの日の錯乱なんて嘘のような素っ気ない顔でそう言って、私に向かって深々と頭を下げた。


「顔を上げて」


 それでも上げない彼女を「ダーナ」と呼ぶと、ようやくゆっくりと頭を上げる。

 その顔を覗き込んだ。


「あなたに怪我がなくてよかった。でも今度からあんな危ないことはやめて頂戴。あちらが逆上していたら、あなたが危険な目に合うのよ」

「はい。肝に銘じます」


 もう一度頭を下げてから、ダーナは私の前に座った。

 しかしこれだけは言っておかなければと口を開く。


「でも、怒ってくれてありがとう。私ひとりだったら、きっと逃げ帰って何も言えなかったと思うから」


 現に私はダーナの手を引いて引き返そうとしていた。そんな戯言言わせておけと思ったし、彼らの言葉に反論できないと思ったからだ。


「……いいえ」


 静かに首を横に振ってから、ダーナは手に持っていた本の束をテーブルの上に積み上げた。

 こんな時くらい勉強はやめにしようと言えば、彼女はいつもの調子に戻ってくれるだろうか。


「では始めましょう」


 差し出された風習について書かれた本の、ダーナが指定したページを開く。


「では本日は、貞潔の儀式について」

「貞潔の儀式……」


 聞いたことのない儀式だった。貞潔だなんて、解雇された下男たちへの当てつけのようだ。


「結婚をした夫婦が初夜に行う儀式です。神の御前で誓った貞潔の誓いを、さらにふたりで誓うものです」

「神様の前で誓うのならそれでもういいじゃない」

「フローレンス様」

「はい、ごめんなさい」


 本に視線を落とす。開いている少し古いページには、一輪のバラの挿絵が載っていた。


「まず白いバラを用意します。白いバラの花言葉はご存知ですか?」

「……この流れでいくと貞潔、かしら」

「正解です。無垢、純潔という花言葉もあります」


 本を一ページ朗読させられる。

 何だか小難しく厳めしい言葉で説明しているが、要するに初夜に白いバラの花びらを一枚引きちぎりお互いに食べさせる、という他愛のないものらしい。

 ドレッシングを用意したほうがいいかもしれない。


「この儀式って、結婚する人皆がしているの?」

「いいえ」


 ダーナは大袈裟な動作でかぶりを振る。


「嘆かわしいことに、昨今の地位ある殿方は何人もの女を囲ってこその男、という悪しき風潮に毒されています。少し古い儀式ということもあり、最近はあまりされる方はいらっしゃらないと花屋に聞きました」


 何だ、と私は万年筆を机の上に転がした。

 それならスタンレイが知らない可能性のほうが高い。して欲しいと私から頼むことなんてできない。


「だったらこの授業は必要ないわ」

「いいえ、あります。つい先日、アーリス様に教えておいて欲しいと頼まれたのですから」


 驚いて顔を跳ね上げる。


「……それは、あの騒ぎの後?」

「そうです」


 胸の辺りがずんと重たくなった。スカートを握り締める。

 あの時聞けなかった質問の答えだ。言わなくたって、彼は私の不安を分かってくれていた。

 不貞など行わないと、そう言ってくれている。言葉で言っても信じられないだろうと行動で、儀式という形で証明してくれるらしい。

 嬉しい。

 嬉しいはずなのに、胸に広がるのは押し潰されそうなくらいの罪悪感だ。

 本当にスタンレイが私に一生を捧げてくれるのなら、彼は永遠に血を分けた我が子をその胸に抱くことはできない。


「ああ、フローレンス様がお羨ましいです。あのような誠実な男性はなかなかいらっしゃいませんよ」


 うっとりとした顔でため息をつくダーナから視線を外す。

 誰もが彼を褒め称える。誠実で、真面目で、聡明で、紳士で。

 私はそんな人の隣に立つのか? この出来損ないの体で。

 重圧に押し潰されてしまいそうだ。


 上の空で短い授業を終え、ダーナがついてこようとするのを断って、ひとり温室へ向かう。

 ひとりきりになったってどうにもならないことを悩むしかないと分かっているのに、とにかく何かから逃れたかった。


 温室の扉を開く。微かにコーヒーの匂いがする。

 客人だろうかと辺りを見渡して、中央のいつもの席に誰かが座っていることに気付いた。

 スタンレイだった。

 私に気付いていた彼は立ち上がって、にこりと笑って向かいの椅子を引く。できれば今一番会いたくない人だったが、逃げる理由も見つけられずに、彼が引いた椅子に座った。


「私が来ることを知っていたの?」

「授業が終わったらすぐに来られるだろうなと予想していました」


 その言葉通り、スタンレイが呼んでいたのであろうアイシェが紅茶を運んでくる。

 準備ができたアイシェはいつものように扉の近くに立ったが、それをスタンレイが振り返った。


「アイシェ。少しの間、ふたりきりで話をさせて」


 だから、ここを出ていっておかわりや片付けにも入って来るなと、彼は暗にそう言っているようだ。


「……かしこまりました」


 少し躊躇ったようだが、アイシェは頭を下げて部屋を出ていった。これがスタンレイ以外の男だったら、彼女は絶対に出ていかなかっただろう。

 ふたりきりになった温室で、体を元に戻したスタンレイと見つめ合う。


「ダーナの授業はしっかりお聞きになりましたか?」

「……ええ」


 やはりその話だ。わざわざ人を払って、彼は腹を割って私と話をする気らしい。

 背もたれに体を押し付ける。私はまだ覚悟ができていない。


「お嬢様が、先の騒動で下男の言葉に不安になられてはいないかと、勝手ながら私がダーナに授業に組み込んで欲しいとお願いしておりました。……この儀式を、私はするつもりでいます」


 まただ。心臓を疼かせる喜びと、それの何倍もの罪悪感。


「私はお嬢様だけにこの身を捧げると、何度でも神に誓いましょう」


 夫となる男にここまで言わせて、そして彼はきっとそれを守ってくれる。世の女たちは私を羨むのだろう。

 それなのに返事ができなかった。こんな幸せ者はいない。それなのに。

 何も言わない私に、スタンレイは少し眉を下げる。


「先日も申しました。何か不安や要望があれば、私に仰ってください」

「……分かった」


 カップの取っ手に指をかけたが、持ち上げる力もなかった。指先が震えている。

 冷え切った唇を開いて、掠れた声を絞り出した。


「貞潔の儀式、しなくてもいいわ」


 それは彼が想像していた言葉とは違っていたのだろう。

 スタンレイの眉間に深いしわが寄る。


「……お嬢様は、私との貞潔を守れないと仰るのですか?」

「違う」


 首を横に振って俯く。


「私はあなたの子供を産んであげられないから。だから、あなたが血を分けた子供が欲しいと思うことがあったら、他の女性と子供を作ったり、その子を引き取ったりすることに口を出すつもりはない。それを伝えたかったの」


 本当は嫌だ。泣きそうなくらい嫌だ。しかし私にそんなことを喚く権利はない。

 沈黙が落ちる。長い沈黙だ。

 居たたまれないが、顔を上げる勇気もない。


「……私が、そのような不誠実な男に見えますか?」


 ようやく聞こえたのは、怒っているというよりも酷く落ち込んだ声だった。


「誠実不誠実の話じゃないでしょう。子供が欲しいと思うのは人間の本能よ」

「いいえ、不誠実です」

「私、あなたを不幸にしたくないの」


 スタンレイが机に手をついて立ち上がる。

 かちゃんと食器が小さな音を立て、私は体を震わせた。




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