1、王子様は来ない
白馬に乗った王子様を夢見る年齢はとうに過ぎて、私はもう大人になって現実を生きなければならない。
だってこの体は、子供では耐えられなかった難しい手術に耐えてみせたのだから。
私はようやく人並みの健康を手に入れた。
もうこれで一年の半分以上をベッドの上で過ごすこともないし、少し庭を散歩しただけで一週間寝込んだりもしない。
苦しみをただただ耐える日々は終わった。
神様の試練とやらを耐え抜いた私には、とっておきのご褒美があるはずだった。
それなのに、十九歳の誕生日を少し過ぎた頃。
母様は泣いている。父様は額を押さえ項垂れている。
「フローレンス、よく聞いて頂戴ね。あなたは……子供を産むことができない体なの……」
理由を聞かされなかった精密検査の数日後、両親に呼び出された私が聞かされたのは、貴族の娘として致命的な体の欠陥だった。
王都からきていた縁談はもちろん全て破談だ。
私を待っていたはずの健康的でそして平凡な日々は、一瞬にして霧散した。
あの日からずっと何をする気力も出ない。
私は一日中温室のベンチの背もたれに体を預け、まるでこの心を写しているようにどんより曇った空を見ていた。
「これが暗雲が立ち込めるという状態なのね……」
呟くと、すぐ後ろから困ったように笑う声が聞こえた。
笑い事じゃないと声の主を振り返り見上げる。
後ろ手を組んで立っていたスタンレイの目には思ったよりも心配の色が濃くて、申し訳なくなってまた前を向いた。
珍しく一日休みをもらっていた彼は、朝からずっと私のそばにいた。
「お嬢様、針にお気を付けくださいね」
後ろから伸びてきた手が、膝の上に放られている糸のついた針を針山に戻す。私も手に持っていたまち針をその隣に刺して、それからまたベンチの背もたれに全身を預けた。
「ああ、やる気が出ない。だって頑張って作っても誰も着てくれないのに」
膝の上の白い布地は、ほぼ婚約者に決定していた男のために作っていたドレスシャツだ。もう必要ないのに、練習のため最後まで完成させろと家庭教師に言われていた。
まだ腕がついていない生地を持ち上げる。
「父様は恰幅がよろしいからもう修正はきかないし、兄様ひとりに作ったらきっと全員分作れと言われるわ」
執事には少し布地が若すぎる。適当な若いフットマンに贈っておかしな噂でも立ったら困る。
若くて、私が軽く贈り物をしても問題にならない屋敷内である程度の地位がある男。
考えて考えて、後ろを振り返る。何ということだ、灯台下暗しだ。
「あなたは? あなたにあげる」
立ち上がって手に持った身頃をスタンレイの体の前にかざす。
サイズは見たところそれほど変わらないようだ。
ただ襟の形が、伊達男と名高い現国王が流行らせたらしい気取った形だ。スタンレイの好みではないだろう。
「襟の形をシンプルにするから。貰ってよ」
身頃を上半身に押し当てる。丁寧に漂白された生地は、いつも目の下に薄っすら隈を作っているスタンレイの顔を少しでも明るく見せてくれるだろう。
その提案に彼は少し迷ったような素振りを見せたが、すぐに首を縦に振った。
「では、ありがたく頂戴いたします」
驚いて彼を見る。
そのお堅い性格のことだ。主人の娘から服を贈られるなんてどうだのこうだの断ろうとするんじゃないかと思っていた。どう断られたって権力を振りかざして押し付けるつもりでいたが、受け取ってもらえるようだ。
「よかった。じゃあ次の正式な縁談が決まる前に仕上げてしまうわ」
早速縫い付けたばかりの襟を糸切りバサミで解いていく。
スタンレイは黙って、それから少し抑えた声で尋ねた。
「……正式な縁談?」
「父様より年上の方から何件か縁談が来ているんでしょう?」
「……どなたからお聞きになったのです?」
「屋敷中で噂になってる」
なんでも、わざわざこの屋敷まで赴いて熱烈にアピールをしていったらしい。それもひとりふたりではない。
父親の決めた男と結婚する覚悟はできていた。小さな頃からそうするのが当たり前だと教育されてきたからだ。
貴族の娘という立場に生まれたのだから、それは義務なのだと。姉たちもそうやって嫁いでいった。
今回の手術も、平民ならきっと受けることすらできなかったのだろう。
政略結婚のために生きてきたわけではない。
それでも病弱な私をここまで育ててきてくれた両親のために、彼らの望む家に嫁ぐことは私の生きている理由のひとつだった。
この豊かな生活をさせてくれている両親が五十半ばの男に嫁げというのなら、それが私にできる唯一の親孝行なら、受け入れなければならない。
深い深いため息をつく。
「……白馬に乗った王子様が、私をさらっていってくれないかしら」
もうそんな幼稚な夢を見るような歳ではないのに。
それなのにスタンレイは、私の言葉を嘲笑ったりなんかしない。
「お嬢様がさらわれてしまったら、旦那様が軍隊を派遣してでも探しに行かれますよ」
その姿が目に見えるようで、わざと肩を竦めてみせた。
「貴族の娘はおちおち誘拐もしてもらえないのね」
冗談が過ぎたらしい。スタンレイが目を細めて窘めるような顔をしたので、おどけて視線を空へやる。
きれいに磨かれたガラスの向こう、なかなか晴れない早春の空を見やった。
「はぁ、まあ仕方がないか。なるようになるわ、人生なんて」
「口癖ですね、人生なるようになる」
指摘されて初めて気付いた。そういえば確かによく口に出すような気がする。
「何て前向きな性格でしょう」
「そうですね。お嬢様の良い所だと思いますよ」
自虐を込めて言ったのにと笑う。
そこまで言われたら仕方がない。良い所だと思うようにしよう。
「なるようになります」
「なるようになる」
「なりますよ」
今日はスタンレイがずっとそばにいて話し相手になってくれているおかげで、あまり悲観的にならずにすんでいる。
彼も誘ってそろそろお茶にでもしようかと考えていると、背後から名前を呼ばれた。
「フローレンスお嬢様」
温室の扉を開いて立っていたのは、私の世話をしてくれているメイドのアイシェだった。
「旦那様がお呼びでございます。執務室までお越しください」
思わず首を傾げる。仕事中の父様に呼び出されることなんて滅多にない。思わずスタンレイを見上げると、彼は微笑んで小首を傾げた。
「何だろう……」
縫い物をかごに戻してスタンレイと共に執務室へ向かう。
ちょっとした話なら夕食の時間にするだろうから、ちょっとで済む話ではないのだろう。
部屋に近付くにつれ嫌な予感が増していく。むしろ嫌な予感しかしない。
たどり着いた父様の執務室の扉の前で少しの間立ち尽くしてから、私は意を決して小さくノックをした。
「フローレンスです」
「入りなさい」
すぐに返事が聞こえて、その声にほんの少し固いものを感じ取って、細くため息をついた。
少なくとも楽しい話ではない。
隣にいるスタンレイを見上げた。
「スタンレイ、父様との話が終わったらお茶にしましょう。付き合って」
「かしこまりました。ここにおります」
頷いて、私はいつもより重く感じる扉を両手で開いた。