第二話 『家族』 その3
昼間なのに、家の中はとても暗かった。
廊下の両サイドが部屋になっていて、明り取りの窓すら無かったからだ。
普通このような家なら、電気をつけるものだが、この家ではあまりそういった事はしなかった。
いつもなら、使っていない部屋のドアをいくつか開けて、真っ暗な廊下にも光を入れるのだが、たまに、そういう事をしない日もあった。
聡波は、昼間でも暗い廊下をゆっくりと歩いていた。
急いだ方が良い事は分かっていたが、レンが何か用がある風な様子だったので、聡波はあえて急ぐ事をせず、ゆっくりと歩きながらレンを待つ事にしたのだ。
屋敷内はそんなに広くは無い。用があるなら、その内また出会うだろう。聡波はそう考えて、廊下を歩くペースを速める事無く、ぼやりと歩いた。
するとすぐに、暗がりの向こうの方から、聞き慣れた忙しない足音が聞こえてきた。
暗闇に慣れた目に、はっきりと相手の姿が浮かんで見えて、それがレンだと確認すると、向こうもすぐに気が付いたようで、ぱっと顔を綻ばせて駆けてきた。
「聡波!」
「レン、なにやってたんだ?」
「タオルを取りに行ってたんです!」
「タオル…?」
「はい、最近雨ばかりで、洗濯物が間に合わなかったんですが、今朝干していたタオルが乾いていたのを覚えていたんで、取りに行ってたんです!」
「…そうか、さんきゅ…」
聡波は、そんな事しなくても良かったのに、と思いながらも、余計な事は言わず、なるべく素直を装って礼を述べつつタオルを受け取った。
何も気付かなかったらしいレンは、感謝された事が、ただ純粋に嬉しかったようで、照れたように笑っていた。
聡波は、それを見て、まぁ、良いか、と微笑んだ。
聡波は、9歳の割りにしっかりしすぎているレンが、少々苦手だった。
一生懸命、自分のやれる事を必死になってやろうとしている姿が、何処か昔の自分に重なるような気がして、嫌になるのだ。
「じゃあ、俺、風呂入って来る」
「はい、いってらっしゃい!」
ニコニコ笑いながら無邪気に手を振ったレンに、ちょっと手を上げて見せると、聡波は背中を向けて歩き出した。
レンから見えなくなった瞬間、聡波は安堵の溜息を吐くと、眉間に皺を寄せて立ち止まった。
様々な不安が、怒涛のように湧き上がっては押し寄せてくる。
その殆どが、家族に対する不安であり、恐怖だった。
悩んだところで、何も変わらない、それよりも、これから母親に会うのだ、と聡波は気持ちを入れ替え、歩き出した。
「…聡波…」
「…ただいま、母さん…」
脱衣所へ続く廊下の扉の前で、母親のアレクシアは待っていた。
その表情は笑顔だったが、何処か無理のある笑顔で、上手く言葉が出ないのか、息子の名前を呼ぶのがやっとのようだった。
脱衣所へと続く扉は開け放たれ、暗い廊下に光が溢れ出ている。
「さ、入って」
アレクシアに促され、ゆっくりと入って行くと、同じようにゆっくりと、アレクシアも入って来て、音を立てぬよう扉を閉めた。
そして、くるりと振り返ると、そのまま聡波を抱き締めた。
「聡波、どこも何とも無い?」
「大丈夫だよ、…分かってるだろ?」
「そうね、分かってるのにね、馬鹿ね、私は…」
「………」
アレクシアは聡波からゆっくりと離れると、ニコリと微笑んだ。
「さ、さっさとそんな服脱いで、お風呂に入ってらっしゃい」
聡波がコクリと素直に頷くと、アレクシアの笑顔に、少しだけ光が差した。
上着を脱ぐと、一瞬微かに、血の匂いが、むわりと広がって、空気中に消えた。
息を詰めて、ピタリと動きを止める。
「………」
一応車の中で着替えてきたのにな、と心の中で呟きながら、竜火の事を思い出して、湧き上がった不安に焦った。
兄弟の中に、一際鼻の利く奴がいる、と。
アレクシアの顔色を伺うと、何事も無かったかのように、絶えず微笑んでいた。
「これ、着替えね」
「うん」
「それじゃ、外で待ってるから」
「うん」
アレクシアは、そう言って脱衣所を出て行った。
聡波はそれを確認すると、眉間に皺を寄せ、汚らわしいもののように、さっと服を脱ぐと、傍にあったゴミ箱の中へと投げ捨てた。
体に血のあとが、染みのようにこびり付いている。
しかし、どんなに探しても、何処にも傷らしい傷は見当たらず、気持ちが悪いくらい綺麗だった。
「………はぁ…」
思わず出た溜息をぼんやりと耳で聞きながら、天井のライトを見上げる。
きっとお風呂から出たときには、夕飯の仕度も済んでいる頃だろう…。
聡波は、湧き出るように思い浮かぶ家族の顔を確認した後、浴室への扉を開けた。