(8)痴話喧嘩
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈…高校1年生。
・海中 諷杝…同上2年生。ギターを弾く。
・高瀬 也梛…同上1年生。キーボードを弾く。諷杝のルームメイト。
一.
いつもの朝より、自転車置き場に止められた車体の台数が多い。
それもそのはず、今朝は寝坊したせいで普段より十分程学校に着くのが遅くなったからだった。
笠木矢㮈は空いている隙間に自転車を押し込み、ひとまず間に合ったことに一安心して昇降口に向かった。
上靴に履き替えて階段の方を向いた時、視界の端に見知った顔を捉える。
「諷杝」
「あ、矢㮈ちゃん。おはよう」
二年の下駄箱スペースの間から出てきたのは、柔らかそうな焦げ茶の髪をぴょんぴょんと跳ねさせている少年だった。眠たそうに欠伸を一つする。
「あれ? 今朝は一人?」
いつも一緒に登校してくるルームメイトの姿が見えない。珍しい。
「……置いて行かれた」
諷杝がこれまた珍しく眉を潜め、若干唇を尖らし気味に呟く。
よく考えると、普段より遅めの登校になったこの時間に、彼の姿を見るのもおかしい。彼の場合は、ルームメイトの高瀬也梛がしっかり早めに学校に連れて来るからである。
しかし今日に限っては高瀬は一人先に登校してしまったらしい。特に部活にも委員にも参加していない高瀬なので、余程の用事があったのか。
(ていうか諷杝、拗ねてる?)
矢㮈は一つ上の先輩の顔をじっと見つめた。明らかに、複雑な表情をしているのが見て取れた。
「何かあった?」
そっと尋ねると、諷杝は少し考えるように黙りこみ、やがて首を振った。次に矢㮈に向けられたのは、いつもの柔らかい笑みだった。
「ううん。何でも無い。謝ってるのに許してくれない也梛が悪いから」
「え?」
矢㮈が首を傾げるのを待たず、諷杝は片手を軽く振って「じゃあね」と先に階段を上って行ってしまった。
「……それ、全然何でも無くないやつじゃないの?」
矢㮈は諷杝の姿が消えた階段を見上げ、ぼそりと呟いた。
教室に入ると、廊下側の後ろから二番目の席には既に高瀬が着席していた。手元の分厚い本に視線を注いだまま微動だにしない。
(こっちは特に変わりなし、よね)
いつもと変わらない様子の高瀬に、矢㮈は軽く息を吐いて自分の席に着いた。
先程の諷杝の様子と言葉から推測するに、恐らく彼らは何かトラブっていると見た。だが高瀬には特におかしい様子は見られない。元々そこまで感情を表に出すやつではないが、それでもさすがに諷杝と何かあったら矢㮈にも分かるくらいの変化はある。それくらいは馴染んでしまった。
(諷杝が謝って許してくれないってことは、悪いのは諷杝の方なのかなあ? でも高瀬の方はそんなに気にしてない感じ?)
だが高瀬は、今朝諷杝を置いて先に一人で登校している。あの世話焼きオカンからは考えられない非常事態だ。つまり、高瀬の方もそれなりに頭にきているということか。
気になりつつも授業は始まり、結局矢㮈が高瀬に話を聞けたのは昼休みに入ってからだった。
いつもなら諷杝と昼食を取っていることが多い曜日なのに、高瀬は教室に残り、クラスメイトの松浦と衣川と共に食事をしていた。
矢㮈は千佳と弁当を食べ、陸上部のミーティングに行く彼女を見送ると、高瀬に話しかけるタイミングを窺った。基本的に複数人行動が嫌いな高瀬が、ふらりと教室を出たのを見てその後を追う。
「高瀬」
階段を下りかけた背中に声をかける。高瀬はズボンのポケットから小銭入れを取り出しながら振り返った。どうやら自販機の飲み物を買いに行く所だったらしい。
「何だ、お前か」
高瀬はすぐに前を向いて階段を下りだす。矢㮈は慣れたようにその隣に並んだ。彼の足のペースが緩んだのは、矢㮈の話を待っているからだ。
「朝、一人で登校してる諷杝と会ったんだけど。ねえ、諷杝と何かあった?」
「……」
高瀬は答えない。だが、見上げた横顔は不機嫌そうに眉が寄っていた。
(こりゃ何かあったな……)
「……今回はあいつが悪い」
ようやく漏れた呟きに、矢㮈は首を傾げる。
彼らは互いに、相手を悪いと言っている。
高瀬はそれきり黙ったまま、昇降口を通り過ぎて自動販売機が並ぶスペースに直行した。機械的に小銭を投入し、カフェオレのボタンを押す。出てきた紙パックにストローをさすと、ずずーっと吸ってようやく人心地着いたように息を吐き出した。
じっとその一連の動きを追っていた矢㮈を見て、微かに肩を竦めた。
「まあどっちにしろお前は諷杝の味方なんだろ?」
「は?」
高瀬の言葉に矢㮈は間抜けな声を発した。意味が分からない。
「まだ何があったのかも聞いてないのに何でそうなるのよ」
「いや、お前が諷杝を悪く言うわけないし、そもそも俺の援護をするとはもっと思わないから」
「別に一方的に諷杝を庇うつもりもないわよ、いくらあたしでも」
矢㮈が素直に言うと、高瀬が驚いたように一瞬目を見開いた。
(何でそこで驚くかな)
矢㮈はため息を堪えながら、高瀬に話の続きを促した。
「いいから何があったか話しなさいよ」
カフェオレを一口含んだ高瀬が、ふいと矢㮈から顔を反らして口を開いた。
「あいつが、俺のケーキを食ったんだ」
「……」
「そんなことで、って顔だな」
心の声が漏れたかと思った。まさに、この男は何でそんなことで怒っているのだろうと思っていた。
矢㮈はひとまず口を噤んだまま、彼の話を聞くことにした。
「ここ連日、バイトがなかなかにハードで、昨夜やっと解放されたところだった。帰りにコンビニに寄ったら、ハロウイン期間限定のスペシャルスイーツが一個残ってた。しかも、ほとんどのコンビニで即売れ切れ、遭遇確率一パーセントあるかないかの超レアなヤツ」
高瀬がまたカフェオレのストローを口に運ぶ。そして最後まで一気に吸い上げ、紙パックをべこっと潰した。
「もちろん買って寮に戻った。部屋に入って袋を机の上に置いて、着替えと手洗いをすませてさあ食べるかと戻ってみたら――」
高瀬の手の中で、さらに紙パックが小さくなる。
「あいつが最後の一口を食べる所だった」
「……諷杝って甘いものあんま食べないよね?」
思わず矢㮈が口を挟むと、高瀬は低い声で言った。
「ああ、俺もそう思って油断してた。その日に限って気まぐれに甘いものが食べたくなって、味見のつもりで食べたらおいしかったらしい。ぺろりと平らげて、その代わりと言わんばかりに俺にヨーグルトのカップを渡して来た」
高瀬は無愛想な顔とキツイ性格からはとても想像できないくらいの甘党だ。よりによって、その超レアな期間限定スイーツが味見され、気に入られ、あっというまに食べられてしまったわけだ。
「俺も、何でこんなことでって思わないこともない。だけど、楽しみにしてたケーキが年中売ってるヨーグルトに形を変えたのを見た途端、自分でも珍しく腹に据えかねたと言うか何と言うか……」
超レアスイーツは、バイトで疲れ果てた高瀬の癒しになるはずだったのだ。それが、諷杝に台無しにされたのである。
まあ、気持ちは分からないでは無い。全てのタイミングが悪かった、としか言えない。
矢㮈はとりあえず二人の間にあったことを理解した。
(確かに今回は勝手に食べた諷杝が悪いなあ)
矢㮈は眉間に皺を寄せながら、高瀬を見た。
「でも諷杝、謝ったのに許してくれないって言ってたよ?」
「はあ? 俺はあいつが謝ったのなんて聞いてないぞ。――あまりにもショックが大きすぎて、シャワー浴びて即寝たからな」
なるほど、高瀬には諷杝の謝罪が耳に入っていなかった可能性が高い。
「……もう落ち着いてるんでしょ? 諷杝の話聞いてあげたら?」
おずおずと提案してみる。
「お前やっぱりあいつの味方じゃねーか。……やだよ。あいつの方が先輩なんだから、ちゃんと謝りに来いってんだ」
これまた珍しく高瀬がぼやく。だいたいこういう時は、彼の方が大人の対応をするのだが。
矢㮈はため息を吐いた。何と言うか――
「……男子ってもっと殴り合いの喧嘩をするイメージだったんだけど、あんたたちってどっちかっていうと女子みたいね」
といっても、女子である矢㮈も友達とこんな喧嘩をすることなど滅多にないが。
「殴り合いで済めば苦労しねーよ。殴ったら自分の手にダメージあるし、あいつの顔も腫れるし、デメリットが大きすぎる」
第一あいつが誰かを殴るようなキャラかよ、と高瀬が至極真っ当なことを淡々と言った。
二.
放課後。
最後の授業を終えてすぐに高瀬は教室を出て行ってしまった。あの調子では放課後も諷杝と顔を合わせるつもりはないのだろうなと思う。
どちらにしても彼らはルームメイトであるので、寮に戻れば嫌でも顔を突き合わせることになるだろうが、果たしてまともに会話をするのかどうかも怪しい。
矢㮈は屋上に行こうかどうか迷いつつ、窓の外を見た。丁度昇降口を出た辺りに、諷杝の姿を見つける。どうやら彼も今日は屋上へ行かないらしい。
そして、彼が進む方向は正門の方で、普段出入りしている寮に近い裏門の方ではなかった。
(どこ行くんだろ?)
矢㮈は気になり、鞄を掴んで急いで教室を飛び出した。
矢㮈なりの全力疾走で、正門手前で諷杝に追いつくことができた。ぜはぜはと肩で息をする矢㮈を見て、諷杝が驚きと心配を混ぜこぜにした表情になる。
「矢㮈ちゃん、大丈夫?」
「だ、だい、じょう、ぶ……」
諷杝は矢㮈の息が整うのを待ってくれている。
「諷杝は、どこか、行くの……?」
ようやく静まってきた呼吸の合間に尋ねる。
諷杝は少し困ったような顔で束の間黙り込んだ。そして、諦めたように口を開く。
「……コンビニ巡りの旅?」
「もしかして、期間限定スイーツ探し?」
「ああ、也梛から話聞いたんだね」
諷杝が何かに納得したように頷き、バツが悪そうな表情になる。
「まあ元々悪いのは僕の方だから。もう一度ちゃんと謝らないと、と思って」
「うん。高瀬ももう怒ってはいないみたいだったし、謝ったら許してくれるよ」
矢㮈はひとまず、諷杝に高瀬と仲直りする姿勢があることにほっとした。
(まあ、たかがケーキを食った食われたの喧嘩なんだけどね)
大した用もなかった矢㮈は、諷杝のコンビニ巡りに付き合うことにした。このまま放っておくのも落ち着かなかったのだ。
「也梛、何か言ってた?」
「諷杝の方が先輩なんだから謝りに来いって言ってた」
「……こういう時だけ先輩を押し付けられてもねえ」
あいつの方が二ヶ月は年上なのに、と諷杝は呆れ気味にぼやく。
矢㮈たちはまず、例のハロウイン期間限定のスイーツを販売している店の場所を確認した。移動にかかる時間や距離等を考慮した結果、該当するコンビニは全部で六件だった。しかも頑張れば全て自転車で回れる。
「超レアなやつとなると、ほいほい残ってるわけないよね。二手に分かれた方が効率的じゃない?」
「そうだね……ていうか矢㮈ちゃん。本当に手伝ってもらっちゃって良いの?」
一度寮に戻って自転車を取って来た諷杝が、今さらになって改めて確認してくる。
「ここまで話を聞いておいて放っておけるわけないでしょ」
矢㮈としても、このままの状態を二人に続けられると困る。しかもこんな些細なケーキ事件が原因で。
「それにこっちの三件は家の帰り道だし、寄り道ついでだと思えば」
寄り道は嫌いじゃない。通学路から逸れてふらふら色んな道を通って帰ることも少なくない。
矢㮈が諷杝の背中をポンと叩くと、彼は小さく「ありがとう」と呟く。
話し合いの末、矢㮈は帰り道ついでに三件、諷杝はその他の三件を回ることになった。
(本当は諷杝と一緒に回りたかったけどなあ)
そんなことを思ったのは内緒だ。今はそれよりも何よりも、目当てのスイーツをいち早く発見して手に入れることが先決である。
矢㮈と諷杝はそれぞれの方向に自転車を向け、コンビニを目指して走り始めた。
「なかった……」
「こっちも全敗だよ……」
約一時間半後、矢㮈と諷杝は矢㮈の家の最寄駅前で落ち合った。
例の期間限定スイーツは手に入らなかった。
「また日時を改めて行くべきかなあ」
諷杝が意気消沈した声で呟く。
「……とりあえず、休憩しようよ。ほら、うち寄ってって」
矢㮈は何とか諷杝を促して、自分の家へと自転車を走らせた。
自転車を止めて、店の方を窺うと客はいない。これ幸いと、諷杝を伴って店の方から入ることにした。
「あ、お帰り。――海中さんも、こんにちは」
店番をしていた弟の弓響が軽く片手を挙げ、姉の後ろにいた諷杝にも会釈した。
「あれ? 今日は高瀬さんはいないの?」
弓響の素直な疑問に、諷杝が分かりやすく俯き、矢㮈はこめかみを指で突いた。
「……ちょっと痴話喧嘩中?」
「誰と誰が? 姉貴と?」
「何であたしよ。諷杝と高瀬よ」
「ああ、姉貴との喧嘩はいつものことだもんね。そっか、海中さんと……珍し」
弓響の言葉に色々と突っ込みたい矢㮈ではあったが、まずは諷杝を店内端のテーブル席に連れて行き、椅子に座らせた。
「諷杝、少し待っててね。今、紅茶かなんか淹れてくるから」
「いや、お構いなく……」
どこか弱々しい諷杝の声を置いて店の奥に引っ込もうとした矢先、そこに父親が現れた。
「おい弓響! これどうだ? つい最近食べたコンビニスイーツを参考に作ってみたんだが」
「ああこの前のハロウイン限定スイーツ?」
「ああ。あれに似た感じだけど、もう少し甘さを調整してさらにフルーツを加えてみたんだ」
父親が手に持った銀のトレイの上には、その試作品が六つ並んでいた。黄色い色はパンプキンクリームだろうか。ケーキの断面から見える層の間にはマロンクリームが挟まっている。上にはカットされたブドウやリンゴがバランスよく載っていた。
「あ!」
矢㮈と諷杝の声が重なり、二人の視線がケーキに集中する。
「お? 何だ矢㮈、帰ってたのか? 海中君までどうし……」
「ねえそれ! その元になったスイーツって、あの超レアで遭遇確率一パーセントのハロウイン期間限定スイーツ?」
矢㮈が勢い込んで訊くと、父親の代わりに弓響があっさり頷いた。
「そう。一昨日くらいに、運良く手に入ってさ。父さんと味見してたんだ」
「あたしそんなこと知らないけど!?」
「そりゃそうだよ。姉貴いなかったもん」
悪気なくさらりと言ってのける弟が恨めしい。
「ただレアものってだけかなあと思ってたんだけど、これが案外おいしくてさ」
「そう! 僕も全部食べちゃったもん!」
諷杝がうんうんと頷く。甘いものをそう食べない彼がここまで同意するとはなかなかのものだ。少し矢㮈もそのスイーツを食べてみたくなる。
「で、今丁度秋のケーキの時期で材料はあるから、父さんが興味本位で試作してたとこ」
「そうそう。ほら、丁度できたところなんだ」
父親が笑いながらカウンターの中から出てきて、諷杝の座るテーブルの方へ持ってくる。諷杝はただじっとケーキを見つめていた。
「あ、そうだ。お茶持ってくるね」
矢㮈はふと思い出し、父親と入れ違いに急いで店の奥に引っ込んだ。
三.
「矢㮈ちゃん!」
通常の登校時間。まだ生徒もまばらな時間帯の昇降口にて、矢㮈は諷杝に声をかけられた。
振り返った先には笑顔の諷杝がいて、その後ろには無表情の高瀬の姿がある。どうやら仲直りできたらしい。
矢㮈はほっとした心持ちで二人に言った。
「おはよう」
「うん、おはよう」
「ああ」
三人揃って階段へ向かう途中、諷杝が手に持っていた小さな紙袋を矢㮈に向けた。
「矢㮈ちゃん、これ。昨日は迷惑かけちゃったから」
受け取った袋の中を覗くと、いくつかのお菓子のパッケージが見えた。どうやら昨日のお詫びらしい。
「別に良いのに。……でも、ありがと」
昼休みにでも千佳と食べようと、有り難くもらっておくことにする。諷杝は満足そうに頷いて、やがて二年の教室への岐路へ来ると手を振って行ってしまった。昨日とは比べ物にならないくらい朗らかだった。
(まあ、元気になったなら良いか)
矢㮈は小さく笑いながら、相変わらず無表情な高瀬と共に自分たち一年の教室へと向かった。
そしてその昼休み、職員室に呼ばれた千佳が戻ってくるのを待っている時だった。
「笠木」
ふいに呼ばれたかと思うと、何かが飛んできて矢㮈は急いで両手を前に伸ばした。危うくキャッチした手の中には、冷たいフルーツジュースの紙パックがあった。投げた張本人は無表情のまま、
「俺からも一応、礼しとく。あいつが迷惑かけたな」
とだけ言って教室を出て行ってしまった。
矢㮈は手の中にあるフルーツジュースを見つめた。
「……やっぱりあいつはオカンよねえ」
今日の昼休みは、彼らはまた二人でのんびり鳩も一緒に、ご飯を食べるのだろう。今度千佳がミーティングの時は、矢㮈も彼らに混ぜてもらおうと思う。
(まあ、何はともあれ、元に戻ったなら良かった良かった)
千佳が戻って来るまでにはまだ暫くかかりそうだったので、矢㮈は高瀬にもらったジュースのパックにストローを刺して飲んだ。
***
何となく寮に直帰する気にもなれず、折角バイトも休みなのだからと街をぶらぶらして部屋に戻ると、諷杝はまだ帰っていなかった。もう後十分もしたら夕食開始の時間なのに、こんな時間まで帰って来ないとは珍しい。昨日の今日で、也梛と顔を合わせ辛いからだろうか。
先に夕食を取りに行っても良かったが、也梛は何となく諷杝の帰りを待つことにした。放っておくと、彼の場合は「面倒臭いしあんまりお腹すいてないからまあいいや」と夕食を抜きにすることがあるのだ。しかも朝は朝で、ヨーグルト一個程しか食べない。也梛がこの寮に来るまで、きちんと食事ができていたのか、考えるのも恐ろしい。
携帯しているがその本来の役割をほとんど果たしていない携帯電話を手の中で弄ぶ。少し迷った後、諷杝の電話番号を呼び出した。
その時、勢いよく部屋の扉が開いた。
「也梛!」
手の中の携帯を危うく取り落としそうになった。後ボタン一つで、電話がかかる所だった。
諷杝がどかどかと部屋の中に入って来て、也梛の前にあるテーブルの上に、何かが入った透明の袋を置いた。
その袋に銀字で印刷されている店の名は、也梛も良く知るクラスメイトの家の洋菓子店のものだった。
「開けてみて」
諷杝がテーブルを挟んだ向かいに座り、也梛をせかす。也梛は訝かしみながらも、袋の中から小さな白い箱を丁寧に取り出し、シールの封を剥がして中のものを取り出した。
パンプキンの黄色が鮮やかな、秋らしいケーキ。上にはフルーツが盛られている。そして、フルーツと一緒に添えられたチョコレートのプレートには、下手くそな字で「ごめん」と書かれていた。
「っ……くっ……」
笑いを堪えきれずに喉の奥から変な声が漏れ、也梛は口を手で覆って横を向いた。
「也梛?」
「へったくそな『ごめん』だなあ……」
「……それでも三回くらい挑戦したんだけど」
諷杝が真面目な声で言う。也梛は咳払いを一つして、顔を上げた。
「どうしたんだこれ?」
「矢㮈ちゃんのお父さんがね、試作品を作ってて」
例のハロウイン期間限定スイーツを探して、矢㮈を巻き込んでコンビニ巡りをしたこと。結局手に入らなくて、矢㮈の家の店で休憩しようとしていたら、彼女の父親が例のスイーツを元にした試作品を作っていたこと。その試作品が、今也梛の目の前にあるケーキであること。
諷杝の話を聞きながら、也梛は夕食の前にも関わらずケーキにフォークを突き立てて口に運んでいた。言うまでもなく、おいしい。
「僕が言うのもあれだけど、やっぱり矢㮈ちゃんとこのはおいしい」
コンビニのスイーツが、とある洋菓子店のパティシエの一作に見事に化けてしまった。
「也梛、ごめ……んぐっ」
諷杝の口に、一口欠けた『ごめん』プレートを押し込んで黙らせる。
「もう良い。許す」
也梛は味わいながらもぺろりとケーキを平らげると、まだ制服姿のままの諷杝の首根っこを引っ掴んで立たせた。
「ほら、食堂行くぞ」
諷杝を追い立てながら、頭の隅でちらりと矢㮈を思い出す。
(あいつにも借りを作ったな……)
「ケーキ食べたとこなのに夕食入るの?」
「お前じゃないから大丈夫だ。それにただでさえ今日は出遅れたってのに、今を逃すともうすぐ運動部のやつらが帰って来てそれこそ食いっぱぐれるぞ」
也梛はいつものように、放っておいたらどこに行くか分からない諷杝の腕を掴んで、真っ直ぐに食堂に引きずって行った。
終
『奏』本編の筋には特に関係ないお話でしたが、日常風景の一つです。