(19)苦手なもの
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校に通うバイオリンを弾く少女。也梛と諷杝とは音楽仲間。
・高瀬 也梛…同学園に通うキーボードを弾く少年。
・海中 諷杝…同学園に通うギターを弾く少年。
一.
それは本当にふとした拍子のことだった。
矢㮈が読んでいた雑誌から顔を上げ、固まった筋肉を解そうと首を傾けたところで動きが止まった。
白い壁の一点に視線が釘付けになる。数秒の間息が止まる。
その歪な茶色の塊から目を逸らさずに、ゆっくり深呼吸をした。そして、スローモーションのように姿勢を低くしたまま部屋のドアへとにじり寄った。もちろん視線はそいつから離さない。
逸る気持ちを押さえつけてドアノブをゆっくりと捻る。素早くドアと壁の隙間から廊下へと脱出すると、脱兎のごとく階下のリビングへと駆け出した。
「母さん! 部屋にアイツがいる!」
ドタバタと慌ただしくやってきた娘を、母親はいつもと変わらずのほほんとした様子で出迎えた。
「あらあらどうしたの、矢㮈」
「だから! アイツがいるんだってば!」
矢㮈が力を込めて訴えると、母親は慣れたように「ああ」と一つ頷いた。
「虫ね。この前新しい殺虫剤を買ってきたわよ」
「じゃあそれで何とかして」
「それくらい自分でやりなさいよ」
「やだあ。この前出て来た時のこと忘れたの? みんな忙しかったり家にいなかったりであたしが三時間も戦うことになったんだから」
「はいはい。それはお疲れ様だったわねえ」
母親はどこ吹く風で娘の言い分を聞き流し、買ったばかりだという殺虫剤を矢㮈に渡した。
「今ならまだ弓響がいるんじゃないかしら」
どうやら母親は助けてくれないようだと悟り、矢㮈は踵を返してまた慌ただしく階段を上った。
自分の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋の扉の前で急停止する。ノックをしようとしたところで先に中から小さく開いた。
「……何してんの、姉貴」
顔を覗かせたのは訝し気な顔をした弟の弓響で、ランニング用のジャージを着て今から外に出るところだったようだ。――危ない、ナイスタイミング。
矢㮈は持っていた殺虫剤のスプレー缶を弟の前に突き出した。
「出たの! アイツが!」
「……茶色いやつ?」
「そう!」
弓響は小さくため息を吐くと、姉からスプレー缶を受け取った。
二人で矢㮈の部屋の前に戻る。弓響が躊躇なくドアノブに手をかけるのを見て、矢㮈は彼の後ろから小声で言った。
「入って左の壁の上の方ね! ゆっくり開けてね、飛び出してくるかもしれないから」
「……ちょっとうるさい」
弓響は姉の言葉をスルーして簡単に扉を開いた。矢㮈は彼の後ろから恐る恐る部屋の中を見渡す。
「――ああ、アイツか」
すぐに弓響は標的を見つけたらしい。しかし声の様子からして若干拍子抜けしたようだった。
「茶色って……あの光ってるやつじゃなかったんだな」
どうやら違うものを想像していたらしい。どちらにしても追い払うべき虫なことに変わりはないが。
「でもアイツも茶色でしょ!」
「アイツはまだ動きがゆっくりだからマシだよ。下手に刺激したら臭いが最悪だけど。いつも見るのは緑だったから少し新鮮だな」
「変に感心してないで早くどうにかして!」
「はいはい」
弓響は少し虫を観察してから、何を思ったか殺虫剤を置き、代わりにティッシュを数枚取った。
「……弓響?」
「まあ無駄な殺生はしたくないからな」
弟はそっと壁に近付き、少し背伸びをして手に持ったティッシュで虫を覆うように捕まえると、急ぎ足でさっさと部屋を出て行ってしまった。階下で玄関の扉が開閉した音が聞こえた。
「はい、終了」
けろりとした顔で戻ってきた弟は、使わなかった殺虫剤を矢㮈に返した。
「臭い大丈夫だった?」
「する?」
弓響は姉に手のひらを向けて見せる。矢㮈は軽く手で扇いだがどうやら大丈夫そうだった。
「じゃあ俺はランニングに行ってくるから」
「……ありがと、弓響」
「はいはい。姉貴も一人で対処できるようになりなよ」
弟の去り際の一言に、矢㮈はがっくりとうなだれた。
二.
「――ということがあって」
放課後、集まった音楽仲間の二人に矢㮈は先日の出来事を話していた。
「へえ。弓響君、虫平気なんだね」
焦げ茶の髪の少年がミックスジュースのパックを片手に言う。
「うん、あの子はわりと平気な方かな。昔から昆虫とか大好きだし。諷杝は?」
「うーん、僕も別にそこまで苦手ってわけじゃないかなあ。すごく好きってわけでもないけど」
「じゃあ諷杝は部屋に虫が出ても一人で退治しちゃう?」
「こいつは退治なんてしない」
横から割り込んで来たのは不愛想な声だった。黒髪眼鏡の仏頂面がカフェオレをじゅーっと啜り上げた。
「どういうこと?」
矢㮈が小首を傾げると、高瀬は肩を竦めて続けた。
「自分に害がない限りそのまま放っておくパターンだ」
「……気にならないの?」
諷杝を見ると、今度は彼が小首を傾げた。
「……別に?」
「そっかあ~」
それはある意味幸せだ。虫にとっても。
(あたしには無理だ)
「俺にも無理だ」
矢㮈の心の中の声を読み取ったかのように高瀬が呟いた。
「こいつが動かないから、俺が対処することになる」
諷杝と高瀬はルームメイトだから、寮の部屋で虫が出ればそうなるだろう。
「也梛は問答無用でスプレー噴射だよ」
そりゃもう見事な早業で、と諷杝が苦笑した。高瀬がふんと鼻で笑う。
「俺たちの部屋に入ってきたのが運の尽きってことだ。それに虫退治に三時間もかけてられない」
「……ついでのようにあたしのことをイジらないでくれる?」
矢㮈の小さな反論は見事にスルーされた。
「あれ、でも、ということは高瀬も虫がダメってこと?」
「まああんまり好きな感じではないかもね」
高瀬の代わりに諷杝が答えた。高瀬は仏頂面に眉間に皺を寄せていた。
「でも対処はできるんだね」
「……だから速攻で終わらせるんだよ」
お前はどこの必殺仕事人だ、という言葉を飲み込む。
諷杝がミックスジュースを飲みながらふふふと笑った。
「也梛にも苦手なものがあるんだなあってちょっと楽しいよね」
「別に苦手じゃない」
どこか意地を張ったように高瀬が言い返す。
「じゃあ好き?」
「好きじゃない。そもそも『苦手』の反対語は『好き』じゃねーよ。もっと国語勉強しろ」
「また難しいこと言う~」
「言ってないだろ。小学生でも笠木でも分かる」
またとばっちりを食らった矢㮈は小さく頬を膨らませた。
「余計な一言が多いのよ!」
「余計じゃない、事実だ」
しれっと答える高瀬がまたムカつく。
諷杝が呆れた顔をしてため息を吐いた。
「そういうところが小学生みたいだよ、也梛」
「ホントそれ! 高瀬ってたまに小学生男子みたいなこと言うよね!」
矢㮈が激しく同意すると、高瀬の睨みが飛んでくる。
「そもそもこんな生産性のない雑談を始めたのはお前だろ」
「雑談に生産性は求められていません~」
べえっと舌を出した矢㮈に高瀬は心底呆れた顔をした。
「お前もたいがい小学生みたいだぞ」
大きなお世話だ。一体誰のせいだと思っているんだ。
ジュースの入っていたパックを潰しながら諷杝がくすくすと笑った。
「まあどっちもどっちか」
「お前、一人だけ蚊帳の外だと思うなよ」
「諷杝もだからね」
そこでようやく、高瀬と矢㮈の意見が合致した。
Fin.
久しぶりに書いたお話の内容が虫退治ですみません。つい最近我が身に降りかかったことだったので。私は二時間ほど格闘しました。
(2024.10.09)




