(15)胸の内の残響
本編『奏』第57話、58話「楽しい音」の余話です。
【主な登場人物紹介】
・臣原 千佳…彩楸学園2年生。矢㮈のクラスメイト。陸上部短距離走者。
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。也梛のルームメイト。
テスト期間は原則全ての部活動が停止される。陸上部も例外ではない。とは言っても一日でも走らないと体の調子が狂うので、ほとんどの部員たちは自主トレーニングを欠かさない。
臣原千佳もまたそうだった。小学生の時から走り続けて来たせいか、もう生活の一部どころか息をするのにも等しくなりつつある。テスト期間も一人走っていた。
一人で黙々と走り込むのは嫌いではない。それでもやはり一緒に練習に取り組む仲間がいる部活動の再開は楽しみだった。
記録会や競技会がある時は土日とも練習が入ることもあったが、テスト明けの今週末はさすがに外されている。
「千佳、お疲れ。ね、日曜日部活ないし、どっか遊びに行く?」
テスト最終日だった水曜日の放課後、久々に走り込んでクタクタになっていた千佳に、同じく短距離走者の友人・空野夏美が声をかけてきた。
「お疲れ。ああそっか日曜日はフリーだったっけ」
千佳は用具の片付けをしながらぼんやりと呟いた。
「何か用事あった?」
「ううん……何もないはずだけど……」
直近の予定を頭に浮かべてみるが、驚くほどに「陸上」「部活」というキーワードしか出て来ない。
(あれ? あたしのプライベートはどこ……?)
高校生にもなったのだから、もっと友人たちと遊びに行くだとか、デートに出掛けるだとか、部活以外にももっとプライベートを充実させようと思っていたのに。なぜこうなってしまったのか。
(まあでも……走るのが楽しいから仕方ないか)
何となく暇つぶしのようにショッピングに行くよりかは、部活で走って汗を流す方が好きだ。――多分こういうところが先述の敗因だろう。
別に全く遊びに出掛けないわけではない。中学の時の友人や部活動の友人・先輩たちと一緒に過ごすこともある。クラスメイトでは、一年の時から一緒の笠木矢㮈と何度か遊びに出掛けたことがあった。
(そういえば笠木の演奏会、今週末とか言ってたような……)
彼女はバイオリンを弾く。小さな演奏会が今週末に予定されていると聞いていた。
実は最近少し彼女の様子がおかしかったこともあり、千佳も気になっていた。だが今まで一度も彼女の演奏会に行ったこともなければ彼女から誘われることもなかったので、今回も自分から聴きに行ってもいいかと言い出すことができなかった。
「みーちゃんたちも誘ってみるから、オッケーだったら金曜までに連絡ちょうだい」
夏美が千佳の肩をポンと叩いて先に走っていく。その背を見送りながら、千佳は多分大丈夫だろうから明日には返事ができるだろうと考えていた。
笠木矢㮈は普段はぼんやりとした少女である。どちらかと言うと押しの強い千佳が彼女を振り回していることが多い。
そんな彼女もバイオリンを弾いている時は違った。千佳は偶然彼女の弾くバイオリンの音を耳にし、矢㮈が奏者であることを知らずにいた。その時は特に奏者にも興味がなかったのだ。
暫くして彼女が弾いていたのだと知った時、驚きとともに嬉しさが込み上げたのを今でも覚えている。ずっと音だけ聴いて来た千佳は、その音色が彼女の努力によって変化したのを知っている。日に日に上達していたのを知っていた。
(この子、すごいな)
千佳が得意とする分野とはまた違う分野で彼女は戦っているのだと気付かされた。
そんな彼女はテスト期間に入った辺りからどこか様子が変だった。いや、いつも通りに見えるのだが、ぼんやりの質が違った。心ここにあらずというような、別のことが気になってしょうがないというような。もしや恋煩いではと思ったがそれも見当違いのようだった。
まず、全然楽しそうでないし幸せそうでもない。どちらかと言うとネガティブな感じがした。矢㮈は眉間に皺を寄せ、ピリピリした緊張感をまとうことが増えた。
彼女の不安をそのまま表したような音色が気になって、とうとう千佳は矢㮈に尋ねた。
「さっきの音はどこか迷っているようなそんな音に聞こえたんだけど。……気のせいだった?」
矢㮈は少し驚いたような顔をした後に、反対に訊いて来た。
「……千佳ちゃんは、自分よりすっごい選手を目にした時、どう思う?」
どうやら矢㮈はライバル的な人物と出会ったらしい。千佳の印象では、矢㮈はあまりライバルを気にしたり、競争心を剥き出しにするタイプではないと思っていたので驚いた。
(へえ、笠木もこういうこと考えるんだ)
その時の千佳はあくまで自分の陸上での経験から答えを返した。
そして最後に、
「笠木が何に迷ってんだか悩んでんだか知らないけど、でも、一つだけ。笠木が努力してここまで来たこと、あたしはずっと聴いて来たから知ってるわよ」
矢㮈は小さく「ありがとう」と呟いた。自分の言葉がどれほど彼女の中に響いたかは分からないけれど、それ以上は何も言わずに彼女の隣にいた。
テスト期間中は一年の時に同じクラスだったお馴染みのメンバーで勉強会をするのが恒例となっていた。この勉強会の一番のメリットは、学年上位の成績をキープし続けている高瀬也梛が先生役としていることである。
彼は初めの頃は誰かとつるむこと自体を避けて一匹狼のようにいた。周りにも声を掛け辛かった。だが当時クラスメイトだった松浦大河や衣川瑞流が何だかんだ絡み続けた結果、今ではすっかり馴染んでしまった。正確に言うと、高瀬が色々と諦めたように見えた。ちなみに千佳もまたうざったくも彼に絡み続けた一人なので偉そうなことは言えない。
高瀬はひょんなことから矢㮈の音楽仲間になっていたそうで、彼女がバイオリンを弾くことも知っていた。千佳はまだ二人が共に演奏しているところを見たことがない。
矢㮈がいない勉強会の終わりに、最近の彼女について高瀬に話してみたことがある。素直に認めはしなかったが、彼もまた矢㮈のことは千佳同様案じていたようだった。さらに事情についても承知しているように感じた。
音楽のことは千佳では分からなかったが、それでも高瀬も同じ気持ちでいてくれたことにどこかほっとした。
それから暫くして、矢㮈の周りの空気がまた変わった。少しだけ、ピリピリとした緊張感がなくなったような気がした。
千佳はそんな矢㮈を心の中で応援し続けることしかできなかった。
「臣原」
声をかけられたのは金曜日の放課後だった。授業終了後、部活に向かう途中だった。
隣のクラスの彼が、さらに言うと千佳にわざわざ声をかけてくるとはレアすぎる出来事だった。
「どうしたの、高瀬君」
高瀬は千佳を人の通りがない場所に連れて行き、相変わらずの仏頂面で口を開いた。
「日曜日は部活か?」
「日曜日? 何もないけど。今週部活は土曜だけだから……」
まさか週末の予定を聞かれるとは思わずきょとんとしてしまった。
「じゃあ空いてるんだな?」
「空いてるけど」
その後に続く言葉にドキリとしつつ、まあ自分の予想通りに行かないだろうことも分かっていた。
「笠木の演奏会、聴きに行くか?」
「!」
予想を遥かに超えた誘いだった。思わず身を乗り出していた。
「行く! 行きたい!」
高瀬の方が若干焦ったように身を引いて、「ちょっと落ち着け」と手を前に出して距離を取った。
「てか、あたしが行って良いの? 大丈夫?」
矢㮈本人には誘われていないのだが良いのだろうかと心配になる。
「別に良いだろ。お前はあいつを心配してたんだし、聴く権利はあると思うぞ。それに」
そこで高瀬は一瞬言葉を途切れさせた。
「それに?」
「……俺もあいつの演奏を臣原に聴いてほしいと思ったんだよ」
目の前の高瀬は照れた様子は皆無だったが、なぜか眉間に皺を寄せて複雑な表情になっていた。
少しおかしくなって、千佳はふっと笑いを零してしまった。
「高瀬君も笠木の演奏がお気に入りなんだね」
「お気に入りっていうか……音は悪くないと思っている」
素直になれないところが彼らしい。矢㮈はこの言葉を彼の口から聞いたことがあるのだろうかと思う。
「じゃあ日曜、最寄駅に迎えに行く。――念のために番号だけ教えておく」
高瀬が携帯を手にしているところを見るのは初めてなような気がした。お互いに番号を確認して登録する。
「こんな時に高瀬君の番号をゲットできるとは思わなかったなあ」
「先に言っておくが、普段はほとんど放りっぱなしだからな」
基本的にあまり持ち歩かないらしい。携帯の意味を考えてしまう。
「メールも?」
「メールも。よく妹の連絡に気付かずにいて怒られる」
「うん、それは怒られて仕方ないと思うよ」
彼のプライベートを垣間見れたことにほっこりしている千佳を置いて、高瀬は携帯をしまって背を向けた。
「じゃあ時間はまた後で連絡する」
「了解。あ、ちょっと待って!」
さっさと立ち去ろうとする彼を引き留めて訊く。
「演奏会ってどんな服着て行けばいいの?」
よくここで思い出したなと自分を褒めてあげたい。高瀬は怪訝そうな顔で千佳を見下ろす。
「何でも良いんじゃないか?」
「学校のジャージでも良いってこと?」
「……まあ臣原が気にしなければ」
何だその間は。千佳がわざとらしい笑みを浮かべて彼を見つめると、やがて溜め息が返ってきた。
「迷うなら制服が無難だな。俺も諷杝も学生服で行くだろうし」
制服なら確かに無難かもしれない。彩楸学園の制服はシンプルだがださくもない。
(でも折角だしなあ)
矢㮈の演奏会に行くのだから。
「ちょっとフォーマル感ある服だったら良い?」
「良いと思う」
どんな服があったっけ、と自分の部屋のクローゼットの中を思い返し始めた千佳に、再び高瀬は背を向けた。
「何かあれば連絡しろ。気付いたら折り返す」
「そこはすぐに出てほしいなあ」
千佳のぼやきをスルーして、今度こそ彼は去って行った。
そして演奏会当日。気付けばあっという間に終わってしまった。
初めて見る舞台上の彼女は、すっきりしたシルエットの衣装をまとい、一礼した姿はずっと大人びて見えた。
屋上で練習していた音とは違う、場内に響く音色がそのまま千佳の胸いっぱいに響き渡った。こんなにも胸の奥に切なく突き刺さる音があるのかとびっくりして、気付いたらボロボロ泣いていた。泣くなんていつ以来だろう。しかも音楽を聴いて泣くなんて初めてだった。
隣には高瀬が座っていたが、泣いている千佳に気付いてもスルーしてくれた。
「笠木、すごい……」
「ああ、すごいよな」
思わず漏れたのだろう彼の素直な言葉にも千佳はからかう余裕がなかった。本当にその通りだと感じていた。
その後矢㮈は最後にもう一曲演奏した。ピアノ奏者、もう一人のバイオリン奏者との共演だ。バイオリン奏者の少女は矢㮈と同じ年頃で、かつ演奏もとても上手かった。もしかしたら矢㮈が刺激を受けたのはあの子だったのかもしれないと思った。
演奏終了後、ついに矢㮈と対面した。彼女は予想通りポカンとした表情で千佳を見つめていた。
まだ感動冷めやらぬ状態だった千佳はただ突っ立っていたが、高瀬に背中を押されて足を前にだしたら矢㮈に突進していた。
彼女の折角の衣装を台無しにする勢いで思い切り抱きついてしまった。矢㮈は動揺しつつも千佳の抱擁を受けとめてくれた。そして情けない状態の千佳の顔にハンカチを差し出してくれた。
千佳が落ち着く頃には矢㮈が一緒に演奏していたピアノ奏者――この演奏会の主催者で高瀬のピアノの先生だと後で知った――も挨拶に来た。千佳は矢㮈のバイオリンが気になって、姉からバイオリンを預かっていた弓響にあれこれと尋ねたりしていた。
矢㮈と一緒に会場を出た。もちろん高瀬たちも一緒だ。
矢㮈がバイオリンケースの持ち手をぎゅっと握って、千佳の方を向いた。
「千佳ちゃん……」
「ん?」
「この後時間があるならお茶でも……って誘いたいところなんだけど……」
歯切れが悪い。さらに「けど……」と再度口籠った。
「けど?」
千佳は何ともなしに語尾を重ねた。彼女の複雑なその顔と今日の演奏会を思い返してみれば、彼女の心の内は自然と伝わって来た。
「~~、ごめん、千佳ちゃん! あたし帰ってバイオリン弾きたくてっ……!」
困った顔をしながら言う矢㮈がおかしくてつい口の端が緩んでしまった。そんな必死に言わなくてもと思う。
「うん、だと思った。笠木、会場出る少し前からバイオリンケース握り締めてずっとそわそわしてたもんね」
「! ごめん!」
彼女にとっては意味のある演奏会だったのだろう。そうと分かって千佳も嬉しくなった。
千佳もよくある。大会の後にまだ無性に走りたくて仕方ない時が。
そして今日刺激を受けたのは矢㮈だけではない。
「……実はあたしも帰ってひとっ走りしたい気分でさ」
「え?」
「笠木に伝えたいことは色々あるんだけど、まだ上手く言える自信もなくて。でもエネルギーはすごくもらったから、なんか走りたい」
このまま今日を終えるなんてもったいないと思っていた。というか大人しく布団で寝つける自信がない。子ども並に興奮して眠れない自分が想像できる。
「千佳ちゃん、今日は本当にありがとう」
「何言ってるの。あたしこそ勝手に来ちゃってごめん」
「そんなこと! 全然! しかもそんな綺麗な格好で……」
千佳は結局、花レース袖のピンクのトップスにレースを重ねた膝上丈の白いスカートを選んだ。本当はヒールを合わせたかったが、滅多に履かないため足への負担が心配でヒールなしのパンプスに落ち着いた。もしジャージを着ていたらここから走って帰っていたかもしれない。
「笠木も綺麗だね」
彼女の方こそ舞台に映える衣装と少しの化粧で雰囲気が違う。矢㮈は「これは演奏会だから……」と照れた様に俯いた。微笑ましい。
「まあ誘ってくれたのは高瀬君だからね。感謝しないと」
高瀬を見ると、彼は海中諷杝と話していた。
「……高瀬って本当に世話焼きオカンだよね」
矢㮈がボソリと呟く。
「諷杝にだけだと思ってたのに……」
(本当に)
千佳は心の中で同意した。
高瀬は他人と関わるのを面倒だと思っているように見えて、関わって見ると実は面倒見が良い。周りをよく見ている。勉強会だってそうだ。
「次は高瀬君の演奏も聴いてみたいな」
まだ彼の演奏は聴いたことがない。
「それはもう! 是非聴いて! 音楽祭で是非!」
矢㮈が驚くほど力をこめて言うので、千佳は思わず笑ってしまった。
Fin.
読んで下さりありがとうございました。千佳が矢㮈の演奏会に行くことになった経緯のお話です。
このお話の後、矢㮈はバイオリンを弾き、千佳は走り、そして高瀬もまたキーボードを弾き鳴らしているのだと思います。千佳のスランプ時のお話もまた書きたいですね…。
(2021.07.03)




