第四話
case 3 国田 章
−真理を掴んだとほざく者よりも、真理には程遠いと述べる者のほうがまだ、真理には近い。
十階建てのマンションの最上階。そこから見下ろす街並みを国田 章は何よりも好んだ。外科医になって十年近く経ち、地位も名誉も確固たるものにしていたが、彼のそういったものに対する思いは常軌を少々逸脱していた。他人によく見られようとすることに固執し、そのためならばどんな努力も惜しまなかった。
「朝焼けってのはどうしてこうも染みるのかな」
誰に言うわけでもなかった。3LDKのマンションに一人で暮らしているのだからそれも当然といえば当然である。別に一人を望むわけではなく、かといって誰かと共にあろうともしなかった。それは他人と一定の距離を保とうとする国田の癖であると同時に、他人を見下し認めようとしない性格のせいでもあった。だが、それをとくに苦とも感じない、それが国田 章という男だった。
幼少期から天才だ神童だなどと騒がれていたが、自分がそういった類の人種ではないことはよく分かっていた。ただただ誰にも知られる事のない努力の賜物だった。だがそれが結果として自らの性能の高さを周囲に知らしめることになり、傲慢や自己中心的な内面を形成していくことになる。自らの能力に自分自身を形作られるジレンマは酷なものであったが、それ以上に周囲の羨望の眼差しが心地よく現状に満足してしまっていた。
「規則正しい生活ってのは間違いなく体に良いのだが、休みの日でも無駄に早起きしてしまうってのは考え物だな、どうにも勝手に目が覚めてしまう。」
窓から街を一望しながら、国田は大きな欠伸をして呟いた。昨夜のマッカランが抜けきっていないのか、普段よりも体にだるさをどことなく感じる。それでも忙しない毎日を乗り切るための充電時間である休日をどう過ごそうかと頭をめぐらせると、少しだけ心が躍るのを感じた。
「・・・今年で三十四なんだがな」
子どもっぽい部分が残っている自分に苦笑いをして、自らに毒を吐く。
国田の一日はインターネットでニュースを読むことから始まる。目を通すニュースは芸能から株価、経済、はたまたゴシップ記事にまで至る。興味があるわけではなくこれもまた知識人をきどるための、いわゆる見栄であった。どのような分野に関しても博識であろうとする、他人より優れていようとする、彼の思いから産まれた習慣であった。
この日も平日と変わらず、ニュースに目を通す国田。大して目新しいものもなく、退屈そうに欠伸をする。
「やはり、飲みすぎだな。欠伸が止まらない」
あごが外れんばかりの大きな欠伸。同時にうっすらと涙まで浮かんできた。
見飽きたようなどれも似通ったニュースは刺激もなく退屈そのものだったが、それでも惰性で読み続ける。習慣とは簡単には変えられぬもので、国田のそれも同じだった。つまらない。そう思いながらも続けるしかなかった。どこぞのアイドルがホテルから男と出てきただの、雪男の正体だの、この国の平和さにはほとほと呆れるものがあった。こんな記事を嬉々として載せる馬鹿もそうだが、こういった記事のほうが興味を引かれる人口が多いというのも愚かな国民性を象徴していた。
「堕落したもんだ」
わざとらしく溜息をつくと、うっすらと口元に笑みをこぼしながら国田は言った。世の中に溢れるこのような下らない情報は必要なのだろうか。まぁ、こういった下らない記事があるからこそ他の記事が引き立つのだろう。要は芸能というやつは引き立て役なわけだ。
そんな中、国田の目を引く記事が一つだけあった。大した記事でもないのだが、眠くてどうしようもない眼を覚まさせるには、彼にとっては十分だった。
−エボラウイルスの無毒化に成功。増殖を防ぎ人間には感染しないという性質をウイルスに持たせる。これにより本来はエボラウイルスを扱う際、バイオハザードを防ぐため特殊な施設が必要だったのだが、これからは無毒化ウイルスを使う事で安全に研究が行えるようになる。エボラウイルスの研究が進めばエボラを有効活用できるようになるかもしれない。エボラ出血熱とは、フィロウイルス科のエボラウイルスを病原体とする急性ウイルス性感染症を指す。最初にこのウイルスが発見されたのは1976年、スーダンのヌザラという町で、ある男性が急に39度の高熱と頭や腹部に痛みを感じて入院、その後消化器や鼻等から激しく出血し、死亡。その後、その男性の近くにいた2人も同様に発症、それを発端に血液や医療器具などを通して感染が広がった。そして、最初の感染者の男性の出身地付近のザイールのエボラ川から病気を引き起こしたこのウイルスは名前をエボラウイルスと名づけられ、病気もエボラ出血熱と名づけられた。致死率は50〜89%と非常に高い。
「・・・」
黙ったまま記事に目を通す。この記事に目を奪われたのは医者としての性分ではなかった。それは昨夜きたメールのせいであり、国田が仕事の虫であるからでは決してない。
国田は俗に言う冷めた男だった。どのような事態にも冷静さを欠かない、というよりすぐに自分を戒める事ができる男で、それが結果として他人に冷めているという印象を与える原因になっていた。しかし、今回は違った。どうにも心が落ち着かず、ふわふわと浮いた心を抑えられずにいた。それはメールの内容のせいなのか送り主のせいなのかは定かではなかったが、それでも生まれて初めて感じる心の躍動に自分自身でも驚きを隠せなかった。
「そういえば、あいつがいたな。・・・あれ、名前なんだっけ?同じ大学の・・・そうだ沖田だ。沖田 正信。たしかジャーナリストになったとか言ってたな。・・・聞いてみるか」
そう言うと、国田は十二畳ほどのリビングのちょうど真ん中に配置されたテーブルの上の携帯電話に手を伸ばした。某家電ショップで「一番性能のいいやつ」と店員に頼んだら出てきた真っ黒の携帯電話。なにやら無駄に機能が豊富らしいが電話とメールさえ使えれば何も文句のない国田にとっては、まさに宝の持ち腐れであった。
慣れた手つきで携帯電話のメモリーから沖田 正信の名前を探す。そういえば連絡を取るのは五年ぶりくらいか、などと思いながら沖田の番号を探していると、大した苦労もせずに彼の番号は見つかった。文明とは大したものである。
「・・・」
一瞬迷ったようにディスプレイに映し出された沖田の携帯番号を見つめていたが、国田は表情も変えず親指を通話ボタンに近づけ、ゆっくりと優しく押した。その姿は端から見れば国田の心の動きを表しているようには到底見えるものではなく、感情の抑圧を得意とする彼そのものの様だった。小さな機械音とともにディスプレイにはCoolingの文字が表示された。これで後は、沖田が電話に出さえすればいいだけだ。携帯電話にくっつけた耳から空気の波が鼓膜に伝わり、脳を巡り、国田に音として認識される。五コール目ほどだろうか、コール音は突然止み二、三秒の静寂の後に機械音ではなく人の発する言葉が携帯電話から国田の耳に届いた。国田にとってはひどく懐かしい音だった。
「もしもし」
どこか呆けたような声。どうやら起き抜けらしい。だが、休日のこんな時間に用も無いのに起きている国田が珍しいだけなのかもしれない。
「もしもし・・・沖田か?」
「あぁ。突然どうしたんだ?五年ぶりか、連絡してきたの」
「年数なんて関係ないさ。今、何やってるんだ?」
「寝てたんだよ馬鹿野郎」
通話口から伸びをする音が聞こえてくる。国田にとって、こういった自らの弱い姿を他人に簡単に見せるという行為は理解できないほどの愚行だった。凛とした姿しか他人には見せてはいけない、弱点は見せない。それが国田という男であり、彼の生き甲斐であった。
「それはすまなかった。だが俺が聞きたいのはお前が今現在どのような行動をしているかなのではなく、今何の仕事をしているかということなのだが」
「しがないフリーのジャーナリストだよ、エリート医師の国田くん」
「いちいち言葉に棘があるな、相変わらずのようで嬉しい。フリーのジャーナリスト、といったが新聞社は辞めたのか?」
「あぁ、新聞社は辞めた。上司と反りが合わなくてな。フリーとして活躍中ですよ、大活躍。もう大忙し」
気の無い返事。台本を棒読みしたような言い方が、国田に仕事が上手くいっていないことを伝えた。
「そうか、それは好都合だ」
口許にうっすらと笑みを浮かべて国田は言った。
「なんだよ好都合って?」
「少し調べて欲しいことがあるんだがな、頼まれてくれないか?」
「なんだ?一応言っておくが、俺はジャーナリストだからな?ネタのためなら喜んで動くが、そうでないならばテコでも動かないぞ」
意地悪く言う沖田。だが沖田にとって残念だったのは、沖田の扱いを国田が熟知していたことだった。
「最近ゴシップ記事にはまっていてな、ああいう俗なものがあるからこそ世の中というものはぐるぐると回るんだ、わかるか?浮くものがあるからこそ沈む物もある。世の全てがお堅いものだったら息苦しくて堪らないだろう?消費者に一呼吸置かせてやるのもお前らジャーナリストの仕事というものだと俺は思うのだが?」
「ゴシップかよ。・・・・内容によるな」
「その点は任せておけ。出てきたものによっては大がつくほどのスクープになるはずだ。当然、空振りの可能性も大きいがな、裏づけはないし」
国田の優れているところは学問に秀でたところでも、教養の深さでもなく、人心掌握術であった。操る術が長けているというよりも、相手がどれだけ国田自身に依存しているかを的確に把握し、手のひらで転がすことに長けていた。憧れを抱く者ほど御しやすい者はない。こうして国田は多くの人間を利己的に使役する。さらに、それがまた、快感にも繋がっていた。
「・・・随分だな。で?その内容は?」
「詳しくは長ったらしくなるしメールで送るよ。アドレスは変わっていないよな?そこに調べるべき人物の住所なんかも加えておく。任せたからな」
「任せたって、まだやるとは言ってないぞ」
「こんなこと頼れるのは俺にはお前だけなんだよ。頼んだぞ?すまないが忙しいから電話を切る。すぐにメールを送るから待っておいてくれ。それじゃあな」
携帯電話から沖田の声が聞こえてきたが、それを遮るように通話を切る。こういうやり方が自分に依存した人間にとっては効果的だと知っているからこその横暴。先ほどと同じように口許にうっすらと笑みを浮かべて、国田は再びパソコンに向かった。今度は情報検索のためではなく、彼にメールを送るために。
メールソフトのフォルダをダブルクリックししばらく待つとフォルダが開かれた。メール内容を添付するために受信メールの欄をクリックし、昨夜来たメールを開く。二件ほど新着メールがあったが今は見向きもしない。昨夜のメールを開くと、国田はそれをもう一度読み直した。
−送信者 佐伯 英二 件名 国田 章様へ 本文 この世で最も美しいものは何だと思う。それは強いものだ。それも肉体的な強さではなく、生命的な強さ。この地球上に人間という種よりも現在優位な位置に立つ生物はいない。だが、私には受け止められないのだよ、その事実が。許せないのだ。だからこそ、その優位を崩してやろうと画策してみたのだがそう簡単にいくものではなかった。しかし、おそらくは成功したと言えるだろう。人という種以上に強い種の誕生に。これがキミにとっても実りのある報せであると願っている。ヒントはザイール川だ。では。
国田はメールを読み直すと、そのメールに添付されたデータを開いた。そこには「好血菌」と名付けられたもののいくつかのデータが書かれている。そして、データの下には画像が張られていた。その画像は、頭部が破裂でもしたかのように周囲に散乱している小鳥の写真であった。その様は見るものに安易に不快感を与え、同時に軽度ではあるが恐怖感を同時に与える。もとは真っ白であったであろう小鳥の羽は鮮血に染まっている。これを嬉々として写真に収めた佐伯 英二という人物の心根は少々理解に苦しむものである。
そして、その画像の下に何を考えたのかこう書かれていた。
−粛清の始まりは我が命から
この時、国田はこの言葉の意味を、理解できてはいなかった。