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第五十八話「名前のないまま」
獣が
踏み込んできた
予兆は
すべて
分かっていた
だから
避けられた
だから
当てられた
剣が
肉を裂く感触が
腕に伝わる
確かな手応え
獣が
呻き声を上げ
大きくよろめく
勝てる
その事実は
もう
揺るがない
それでも
勇者の視線は
一瞬
背後へ向いた
雨に打たれた
小さな身体
胸の上下は
まだ
続いている
だが
その間隔は
さらに
長い
――間に合わない
その確信は
疑いようがなかった
勇者は
歯を食いしばる
救うためでは
ない
間に合わせるためでも
ない
これ以上
奪わせないため
ただ
それだけの理由で
剣を
振る
獣が
倒れ伏す
重たい音が
雨に沈む
森は
急に
静かになった
勇者は
剣を下ろす
呼吸が
荒い
震えは
止まらない
急いで
子供の元へ戻る
抱き上げる
まだ
温かい
だが
呼吸は
ほとんど
聞こえなかった
勇者は
名前を呼ぼうとして
――呼べなかった
最初から
そこには
なかったように
雨音だけが
続く
勇者は
子供を抱いたまま
立ち尽くす
勝った
それでも
何一つ
取り戻せなかった
その事実が
胸に
深く
沈んでいった




