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第五十五話 「それでも剣は振られる」
雨は、止まなかった
視界の端で
影が歪む
獣は低く身を沈め
跳ぶための距離を測っていた
勇者は
剣を構えたまま
一歩も引かない
背後に
守るべきものがある
その事実だけが
思考を縛り
同時に支えていた
――来る
確信と同時に
獣が動いた
泥を蹴り
闇を裂く
速い
人の脚では追えない速度
だが
勇者の身体は
それより先に反応していた
剣が閃く
金属音が
雨音に混じって弾ける
衝撃が腕を貫き
指が痺れる
浅い
致命には遠い
獣が唸り声を上げ
距離を取る
赤いものが
雨に溶けた
勇者は息を整えようとして
気づく
心臓が
異様な速さで打っている
怖い
逃げたい
本能が
何度もそう訴える
それでも
足は
地面に縫い止められたままだ
剣を下ろす選択肢が
どこにもない
――違う
本当は
選べないだけだ
逃げる
守る
助ける
そんな言葉は
並んでいるだけで
一つも
選択肢ではない
獣が
再び身構える
その視線の先にあるのは
勇者ではない
背後だ
雨に濡れた
小さな身体
勇者の喉から
音にならない声が漏れる
「……っ」
考える前に
身体が動いた
剣を振る
無理な踏み込み
無茶な角度
それでも
剣は
獣の進路を断った
獣が怒りに吠える
勇者は
歯を食いしばる
間に合え
その願いが
誰に向けたものなのか
もう分からなかった
それでも
剣は
振られ続ける
雨の中で
ただ
必死に




