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第五十四話 「動き出す影」
雨の帳の向こうで
影が一歩、踏み出した
ぬかるみを踏み潰す重い音が
森に響く
勇者は動かない
いや
動けない
腕の中の温もりが
消えてしまいそうで
子供の身体を抱き寄せる腕に
無意識に力が入る
その瞬間
小さな息が
かすかに漏れた
勇者は息を呑む
まだ生きている
だが
その呼吸は
今にも途切れそうだった
雨が視界を打つ
影が、また一歩近づく
獣の匂い
血の匂い
湿った土の匂いが混ざる
勇者の喉が乾く
逃げれば助かるかもしれない
だが背を向ければ
あれは追ってくる
ここで止めなければ
村に行く
あの村に
勇者の中で
何かが軋んだ
選択肢など
本当は存在しない
最初から
決められている
それでも
勇者は
ゆっくりと子供を地面に横たえた
雨がその小さな身体を打つ
「……すぐ戻る」
声は
自分でも驚くほど震えていた
勇者は立ち上がる
剣を握り直す
影が
牙を剥いた
森の奥で
獣の咆哮が響いた
そして
勇者は
一歩、踏み出した




