56/64
第五十三話 「まだ温かい」
雨に濡れた影は
一歩も踏み出してこなかった
ただ
そこにいる
勇者は
剣を握ったまま
動けずにいた
腕の中で
小さな身体がかすかに揺れる
呼吸は
ある
だが
不規則で
浅い
勇者は
子供の背に手を回し
必死に体温を確かめる
まだ
温かい
それが
救いなのか
呪いなのか
分からなかった
影が
低く
喉を鳴らす
距離は
遠くない
剣を振れば
届く
だが
振れば
この腕は離れる
それが
分かってしまった
勇者は
歯を食いしばる
剣を握る指に
力が入る
それでも
足は動かなかった
時間だけが
静かに
確実に
削れていく
雨音の中で
子供の呼吸が
一つ
乱れた
勇者は
影から
目を逸らす
剣を持つ手が
わずかに震える
まだ
温かい
だから
まだ
終わっていない
そう
信じるしか
なかった




