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四十八話 未定義の仮説
知略は、誰もいない部屋に立っていた。
壁一面に残された板書。
消していない。
消す理由がないからだ。
指先で式をなぞる。
最初から、なぞった――はずだった。
途中で、指が止まる。
止まった理由が分からない。
式は正しい。
構造も、導出も、破綻はない。
結論も、誤っていない。
それでも。
どこから、この式を書き始めたのか。
その記憶だけが、見当たらない。
知略は一歩下がり、全体を見る。
書き直す必要はない。
修正も不要だ。
狂っていない。
狂っていると断定できる箇所が、存在しない。
だから、仮説を立てる。
世界が誤っている可能性。
自分が欠落している可能性。
前提条件が抜け落ちている可能性。
どれも否定できない。
どれも証明できない。
指先が、再び動く。
式をなぞる。
同じ箇所で、また止まる。
気の所為かもしれない。
だが、気の所為だと断じる根拠もない。
知略は、板書を消さなかった。
書き直しもしなかった。
答えを出さない、という選択をする。
仮説は保留される。
結論は先送りされる。
部屋には、正しい式だけが残る。
そして、
その正しさの理由だけが、
どこにも存在しなかった。




