第三十五話 「伝播する静寂」
その個体は、計算を誤らない。
戦況は数式として把握し、
魔力の流れは常に把握している。
感情は排除するもの。
判断は最短距離で導き出すもの。
五柱の中でも、
最も合理的な存在とされていた。
任務はすでに完了している。
術式は予定通り展開され、
結果にも誤差はない。
想定外の干渉もなく、
報告すべき事項は存在しない。
――はずだった。
帰還後、
個体は魔力循環の確認に入る。
展開した術式を一つずつ再現し、
構成に乱れがないかを確かめる。
そこで、
詠唱の区切りが一拍、遅れた。
理由はない。
魔力残量も、精神集中も、問題はない。
計算上、遅れる要素は存在しなかった。
思考が、一瞬だけ止まる。
論理に載らない空白。
だが、
異常として切り出すには弱い。
個体は即座に原因を割り当てる。
環境要因。
不可視の魔力干渉。
偶発的な誤差。
どれでもいい。
進行に支障はない。
結果は変わらない。
そう結論づけ、
術式の確認を続行する。
その途中で、
別の個体の姿が脳裏をよぎる。
会話はしていない。
情報共有もない。
ただ、
城内ですれ違った後ろ姿。
大剣。
折れた角。
あの歩幅。
なぜ今、それを思い出したのか。
理由は導き出せない。
導き出す必要もない。
確認を終え、
個体は魔力の流れを落ち着かせる。
呼吸が、
いつもより一拍遅れる。
詠唱のリズムが、
わずかにずれる。
致命的ではない。
修正可能な範囲だ。
これまでは、問題にならなかった。
役割は維持されている。
判断も正常。
世界の進行に、
明確な異常は存在しない。
それでも、
一つの個体で生じた“間”は、
別の個体へ、静かに伝わり始めていた。
世界は稼働中。
進行は予定範囲内。
特記事項は――
未検出。




