第三十二話 「選択後の空白」
勇者は宿に戻っていた。
部屋はいつもと同じ。
ベッド、机、窓。
配置に変化はない。
装備を外す。
剣を壁に立てかける。
手順は問題ない。
いつも通りだ。
――そのはずだった。
剣を離した直後、
指が、わずかに遅れて開いた。
ほんの一瞬。
自分でも気づかないほどの遅れ。
勇者は、その場で立ち止まる。
(……今の)
理由は分からない。
疲労値は想定範囲内。
怪我もない。
それでも、
「遅れた」という感覚だけが残った。
翌朝。
勇者は依頼掲示板の前に立っていた。
紙の並び。
文字の密度。
報酬額。
見慣れた光景。
一枚の依頼書に、視線が留まる。
内容は平凡だった。
魔物。
通行不能。
困っている人。
いつもと同じ。
勇者は、紙を取った。
その瞬間、
胸の奥で、微かな抵抗が生まれる。
(……これ、だっけ)
疑問は形にならない。
理由も出てこない。
ただ――
「違う返事をしたかった気がする」
そんな感覚だけが残る。
勇者は、口を開いた。
「……引き受けます」
声は、自然だった。
しかし、言い終えた直後に
喪失感が落ちる。
(今、僕は……)
言い換えられなかった。
考える前に、返事をしていた。
宿を出る。
足取りは軽い。
身体は動く。
なのに、
内側だけが、少しずつ削れていく。
進行は正常。
成果も出ている。
それでも
進んでいないのに
何かが減っている
その事実だけが、
はっきりと存在していた。
勇者は、歩きながら
無意識に拳を握る。
すぐに、力を抜いた。
理由は分からない。
ただ、
そうしたかった。
世界は稼働中。
進行は予定範囲内。
特記事項は――
未検出。




