<閑話>昔最底辺の仕事に就いていた男の話(後編)
なんだろう。
色々どうでもいいや。
賢者と僧侶が彼を土に埋めた頃には、自分を大切にする気は毛頭なくなっていた。
他人という感覚が更に遠のく。
戦陣に血が舞い散っても感慨がない。
なんとなく賢者に、重いロッドを借りた。
「何に使うんだ」と聞かれる。背中でも掻こうかな。
とりあえずこれで敵を殴ってみると言い置いて、そのまま仕舞っておいた。
途中から旅の仲間として参加したサマランチに、召還メダルを借りた。動力に魔力がいらない、珍しいやつだ。
ピンク色したスライムが出てきた。
とりあえずザックに放り込んでおいて、メダルはポケットに入れておく。
貸してくれるって、まだ人間関係があるようで、嬉しいよね。
エヴァが不安げに俺を見ていた。
後で返すよ。
そのうちにね。
なくなったって、壊れたって、自分だったら気にしない。
だから、そのうちにね。
戦争が終わって、初めて俺は自由になった。
そして、あれだけ憧れていた公務員と、「ふつう」の生活を、手に入れた。
ただ、人から何かを借りる癖は全くなくならなかった。
災い転じて、この癖のおかげで王女と結婚する事も、貴族になることも逃れられたけど。さて。
ふつうってなんだろう。
どうやって、ふつうに生きていけばいいんだろう。
◇◇◇◇
賢者は、俺を自分が所長を勤める職場に置いてくれた。
戦争中に俺を、助けることができなかった代わりだという。
こうして生きて帰れたのも、賢者のフォローがなければ難しかった。
だから、十分に助けてもらったのだと言った。
でも彼は首を振る。そういう意味ではないのだと。
もういい歳だったから、後見人も何もないけれど。
彼は俺を養子にして、俺の社会復帰を見守ってくれている。
最初は大変だった。
職場や出張先の文物を借りては放り出す俺を、賢者とエヴァは少しずつ指導してくれた。
戦場の俺を知っている連中だ。
所内に、出張先の遺跡の遺物を借りてその辺に転がしても、とやかくは言わなかった。
自分のものと、他人のもの。
他人は感覚が、いかに自分と違うのか。
人と関わる仕事を通じて、彼らは人の感覚と常識というものを教えてくれた。
人から何かを借りるという行為に、意味をなさなくなったのもこの頃だ。
ようやく、境界線が見え始めていた時に、新人のチサが来た。
所長はあえて、隣の席に彼女をおいた。
エリートの多い職場で、彼女は唯一のⅢ種。
田舎出身の、ほどほどに流行を追った服を着た、実によく見かけるような外見の子だった。
仕事にテンパったり、大笑いしたり、失敗して涙目になったり。
俺のことを勇者と聞いても実感が湧かないようで、ただの職場の先輩として扱ってくれた。
ふつうだ。
ふつうが隣にいる。
一緒に話していると自分もふつうになれたようで、穏やかな気持ちになれる。
ああ、これが本当の生活なんだ。
ただここで。
自分の癖が別の意味で作用する。
ふと。彼女のものを手にしたくなるのだ。
何となく借りて、どうでもいいから放置するのというものとは違う。
気になるのだ。目に入ってしまうのだ。
初めて彼女が手渡しで、インクを貸してくれた時。
ふと彼女の指に触れて、なぜか動揺した。
それを繰り返しながら、強く、彼女のものを借りたいと思うようになる。
いや。
借りたいんじゃない。
欲しいのだ。
彼女のものが、欲しいのだ。
だが彼女は怒る。
怒って、怒って、俺を責める。
今まで、自分に対してあれほどまでに激怒し続けたものはない。
召喚師の家系だからだろうか。
物や事に対する対価、約束に対する姿勢、発言に対する責任。
彼女の自他の境界はどこまでもはっきりして、どこまでも厳しい。
他の人たちは、むしろ貰って欲しいと懇願し。
仕方ないと肩を落として終わり。
または哀れみを浮かべ。
そんなものだと思っていた。
だが、チサの反応こそが、「ふつう」なのだと賢者が言う。
◇◇◇◇
魔国から帰国すると賢者が待っていた。夕飯の誘いだ。
彼は奥さんと死別して、永らくの独り身だ。
彼らしい小さな屋敷で、通いのお手伝いさんが作ってくれた夕飯をごちそうになる。
締めには、とっておきだという酒を出してきた。
他国間の流通が良くなったことで手に入った、魔国のビンテージワインらしい。
賢者がグラスを傾けながら訊ねる。
「なあフリッツ。魔王様はどうだった」
「穏やかな様子だったよ。ようやく国内の戦後処理の目処がたったんだって」
「そうか。あの御仁もとんだ貧乏くじだな。息子が死んで返り咲いたら、国が最悪の状況下とは」
「生き残った孫とひ孫を、大切に育てられる世界にするって。マーたちもいるし、外に出て行ったレムも国の経済を支えてくれるから、こんなに心強く頑張れる仕事はないとも言ってたな。カイネの現状も喜んでくれていたよ」
ほっとしたように、目をつぶる賢者。
「本当に、あの人が今代魔王で良かったな」
「そうだね。あの人をうっかり殺していたら、もっと敵を殺さなきゃいけなかったからね」
自分もワインをご相伴させていただく。
ふと思い出したので、カバンからドロップ缶を取り出した。
蓋を開けると、中から出てきたのはピンクスライム。
「おいおい、そんな所に入れておいたのか」
「サチがドロップ缶を気に入って手放さないんだよ。勝手に持って行こうとすると怒るし。仕方ないから入って貰ったんだ」
これはこれで、サチは喜んでいる。
ピンクスライムの体をなでてやり、視線を上げると賢者が砂糖を吐くような顔をしていた。
「そのスライムの名前はサチって言うのか」
「ああ、可愛いだろう?」
「……なあ、フリッツ。俺はお前の親父になったが、ろくに親父らしいことはしてやれてねえ。
だがそろそろ理解できると思うから、聞くぞ?」
賢者がグラスをおいて、俺を見る。
「たとえばだ。お前からドルテを俺が借りたとしよう。そして帰ってこなかったらどうする?
『返す』と言われていたとしてもな」
「殺すかな」
ため息をつかれた。
「お前の今までの「借りる」という行為は、人から見たらそういうことだったんだよ」
一瞬の間を置く。
ワインの波紋が消えるくらいの間。
そしてようやく。
脳内の様々な事象が、一つに繋がっていった。
そうか。そうだったのか。
「ようやく新しく執着する対象ができて、理解ができたな。
ついでにいうとそれは「大切にしている」という意味だから、間違えるなよ」
「そうなのかな?」
「そういうものなんだよ。お前の良すぎて一回転してしまう脳みそに擦り込んどけ」
あーここまで理解させるのに、長かったわ。俺は本当に大変だった。
賢者はわざと肩を叩いてみせる。
彼の苦労に申し訳なく思ったが、こちらへの態度が露骨なので口には出さないでおく。
「いいか、ものすごく基本的なことを言うぞ。
その人のものを大切にしないやつは、その人自身を大切にしないと思われるからな。ドルテからの借り物は特に丁寧に整備してから返せよ」
「もう手遅れのものは?」
遠い目をして教えてくれる。
「あー。せめて同じ物を二倍の値段で買うか、十倍は値段の高い代わりの物を買って、土下座して差し出せ。その上にはお菓子も載せろ。こすい手だが、スライムにも手伝わせろ。これは死んだ奥さんでの、経験だがな」
「分かったよ」
賢者が再びワインを注ぐ。
「あの子を採用するときは、割と肝が太いくらいの印象だったんだがなあ。
ありゃあ、結構手強いぞ。俺なら絶対にナンパしないタイプだ」
まあ、お前の人生これからだ。
せいぜい頑張れよ。
俺は高見から、お前の失敗を笑っていたいんだよ。
最後の一言は余計だが、実に彼らしい言い方なので聞かなかったことにする。
「父さん。ありがとう」
「ぶほっ」
義理の父は、派手にワインを吹く。器官にも詰まらせたようだ。
背中をさすると、咳込みながら更に付け加えてきた。
「おま、お前のその無意識の人たらし。げほ。いやうっかり今までの女性に勘違いさせてきたツケは、相当溜まっているからな。
もしも借りパクがなくなったと評判になったら、返してもらいたい女は山ほどやってくる」
お前のツケは重い。
きっちり片づけて、ドルテを守れよ。
俺は後日、その言葉を、後悔と共に受け取ることになったのだ。