王子には向かない職業
今日は赤い血が、べっとりとドアについていた。
何の血だろうか。
奴に惚れている女は、実にご苦労なことである。
そして、これを消さないといけない私は、もっとご苦労なことである。
すべての元凶を呪うしかない日々は、本当に、やってられない。
座り込んでため息をついていると、ミミィが壁の血のにおいをふんふんと嗅いでいた。
汚いからやめておきなさいと諭そうとすると、「みゃ~~~~ん」と長い鳴き声をして戻ってくる。
白いちっちゃな体を抱き上げて、今日のお弁当は作るのやめよう、と決めたのだ。
早朝に職場に着くと、いつもは誰も来ていない場所に、どうやら先着が来ていた。朝からまばゆい光で、 目がチカチカする。
豪奢なキンキラ金髪の、ニート王子だ。
今日は金の装飾が生える、パールホワイトの盛装をしている。
あれ?
彼の本名って、ミート王子だったっけ?
まあいいや、どっちでも。
とうに彼は机に座り、姿勢良く黒い本を読んでいる。
真剣な顔でページをめくる姿は、整いすぎた横顔と相まって、一枚の絵画のようだ。
肝心の本が、子供にはとても見せられない、淫猥極まる内容でなければ。
「おはようございます」
「うむ」
彼は振り返らず、うなずくだけだった。
これでも最大限、相手を気遣って挨拶してくれているのだ。
所長と副所長が何度も何度も、ビジネスマナーを施したのだが、すぐに上から目線に戻ってしまう。
「形はともかく、他人の夢のためになんとかしようという努力は見えるから」と、二人はこれ以上の努力は放棄した。
カバンの中から、そっとミミィを右下の引き出しにしまおうとする。
「それは、霊獣・猫又だろう?」
いきなり王子が指摘した。
へ? と王子を見上げると、黒い本を夢中だったはずの彼が、青い目でこちらを見ている。
ミミィは呼ばれたの? と反応して、机の上に飛び上がった。
「みぃ!」
「あ、こら!」
「ほう、二本のしっぽ。聖書にあったとおりだ。白い色とは珍しいな」
「あの、どうして気が付かれたのですか? というか、ネコマタってよく分かりましたね」
王子はしたり顔でうなずいた。
「ずっと部屋にいるとな、周囲の音に敏感なるのだ。いつ自分の悪口を言っているやつがいるか分からないからな。
壁を蹴る時も、近くに人がいることを音で察せないと、肝心の効果が出せぬ」
「はあ」
「また先ほどの指摘だが、二本の尾を持つ霊獣は、この黒い本にもよく出てくる」
手元の本を持ち上げる。
「え、そうなんですか!?」
「妖艶な女人となって男を惑わす役が多いな。特に割れた尾が性感帯になってい「もういいです。聞きたくないです」」
なんだ詰まらぬ、と本を閉じる王子から、ミミィを遠ざけた。
「ミミィ。あのキンキラさんに近づいちゃだめだからね。性的ないたずらをされちゃうよ」
「み!?」
毛を逆立てるミミィを見て、王子が不機嫌な顔をする。
「失礼だな。
耽美な本を読むものが皆、変質者だと思うな。
不倫がテーマの騎士道文学を読んだら不倫をするのか?
自殺がテーマの純文学を読んだら自殺をするのか?
放火がテーマの娯楽本を読んだら放火をするのか?
違うだろう?
やりたい者は本を読まなくとも、やる。
私は性をテーマとする文学に親しんでいるだけだ」
「あ、はい。すみません……」
王子の剣幕に、どこか言いくるめられている気がしないでもない。
だが、一理あるので謝った。
分かったのなら良いと、王子は本を机の中にしまって立ち上がる。
確か今日は、所長が「お前の言う王子には向いている仕事を紹介してやる!」と朝から面談室に呼ばれているのだ。
なんだかんだいって、彼は真面目なのだと思う。
あちこちでもめてはクビにはなるが、遅刻や欠勤は一度もない。
今は王族が詰め込まれている宿舎では、黙って隅っこに転がって寝ているらしい。
部屋は金貨百二十枚をためて取り返せば良い、と割り切っているそうだ。
そう、真面目なのだ。
ただ、ひたすら仕事も勉強も嫌いで、真面目な下ネタが多すぎて、ひたすら上から目線で相手を怒らせているだけで。
……んん?
それだけでも、結構厳しいな。
私はふと、そんな王子の背中に、声を掛けてしまった。
「王子。これからの仕事先では、女の子にその手の話はしない方がいいですよ」
王子が気品よく振り返る。
「なぜだ?」
「王子の高貴なイメージが崩れます」
どんなに目にまぶしくとも、言葉一つで真っ暗闇だ。
「そんなもの。私を一目見れば、高貴と分かるものだろうが」
「女の子は男の人ほど、目からの情報に頼っていないんです。言葉もとても大切なんです」
「ふむ。シチュエーションによっては言葉責めが効くのはそういう意味か」
「だから、それは勘弁してください」
「しかし参考にはなった。頭に留め置いてやろう」
そうして、意外に素直なキンキラニート王子は、面談室に去っていったのだ。
「チサ、(俺が勝手に食べる)弁当がないよ」
「あんたが食べる弁当なんて、古今東西存在しません」
昼休みになって、私の机の周りをうろついていた強奪未遂犯がクレームを付けた。
きゅんきゅんと鳴くを前科何十犯を捨て置いて、カバンから財布を取り出す。
ユーランとレティには、今日は食堂だから断り(食堂では持ち込みのお弁当を食べてはいけないのだ)、目的地に向かおうとすると後から奴がついてきた。
「なんだ、今日は社食なんだ。それならおごるよ」
そう言うので、今回は甘えることする。
今まで勝手に食われた手作りの数々を考えれば、むしろそれは当然のことにも思える。
本日の食堂のメインは、肉料理が中心のAランチと魚料理が中心のBランチ、麺類が中心のCランチで三種類だった。
私はあまり食欲がなかったので、Cランチを注文する。
「チサはそれでいいの? もっと高い、血の滴る霜降り肉の特Aランチもあるよ」
「これでいいです」
血の色はごめんだ。
奴はAランチを大盛りで注文し、四人掛けのテーブルに向かい合って座る。
しばらくすると、食堂がざわつき始める。
見ると、女性の山。
キラキラしたエフェクトが人混みのから漏れて見えるから、中央には王子がいるのだろう。
「流石に王子は人気ですね」
「まあ、なんだかんだいったって、王族だしね。結婚すれば玉の輿になることは間違いないよ。
究極のところ税金や直轄領の収入でも生活できてしまう身分だから。基本的には下の者がやればいいわけだし」
ん? 働く必要はない?
「じゃあニートのままで良かったんじゃないですか?」
「王妃は可愛がれれば、それで良かったらしいけどね。
王様はもっと人間的に自立してほしいんだよ。
下の者を使うにしても、ある程度は考えなければならないし」
女性たちはご飯に集中できず、頬を赤らめたり、ため息を付いたりしている。
しかしニート王子の方は女性陣に一切興味を示さず、無表情で特Aランチを食べている。
形の良い唇に肉の血がついて、美貌に壮絶に映えている。
黒い本に頼らずとも、あんなに現実に女性がいっぱい寄ってくるのだから、一人くらい付き合えばいいのに。
「王子、せっかくすごい美形なんですから、モデルとか、女性相手の仕事をしてみればいいのに」
「それは無理だね」
フリッツが否定をする。
奴はもくもくと食べているキンキラ王子を見た。
「王子はね、女が嫌いなんだよ」
「え?」
「マザコンが過ぎると、女が嫌いになる典型だよね。
王妃が自分以外の女の悪口を、さんざん吹き込んで育てたというのもあるし」
「え? え? でも黒い本がいっぱいありますよ?」
女の子が好きなんじゃ。
私の指摘にフリッツが苦笑した。
最後のデザートにフォークを入れながら、教えてくれる。
「本にはあくまで理想の女性と、性欲を抽象化したものでしかいないよ。
現実の女性はもっと生々しくて、一寸先も読めなくて、自分の思うように動かない。
コミュニケーションが苦手な王子には、もっとも難しいお客さんだね」
君みたいにね、とフリッツは笑う。
失礼な。
「だけど、王子は誰よりも本については詳しい。
内容は偏っているけど、世界中の本を読み切ったと豪語するだけあるよ」
「話したんですか?」
「ああ、王子の派遣先でね。
すさまじい下ネタとエロの評論を聞かされたけど、その背後にあるのは深い教養だった」
深い教養?
「あれ? お勉強は嫌いだ聞いていますけど」
「人から強要されることが大嫌いなだけで、本をより深く楽しむために自分からする勉強の量はすごい」
例えば、騎上位のシーンを楽しむために、馬の習性から品種まで調べる。
またSMシーンを楽しむために、被虐と貢献の精神医学を学ぶ。
さらには、触手プレイを研究するために、植物学を追求する。
当然人体やモンスターの快楽を追求するために、医学はしっかりと修得している。
もちろん、周辺の知識も忘れない。
ベット一つでもメーカーを調べ、野外でのシーンではその土地の気候から植生、虫の発生状況まで調べる。
登場した女性の背景にある社会的な問題から、彼女を襲う暴漢たちの経済的な仕組みまで。
王子は言ったそうだ。
『人の性の奥に、何があるのか気になるではないか』
フリッツは微笑ましいものを思い出すように、語ってくれた。
「俺は王子が嫌いじゃないね。むしろ結構好きだ」
「あー、そうでしょうね」
公務員を手に入れるために、彼が払った努力を思い浮かべた。
なるほど。
だから本職の魔法使いであるサマランチが、ようやく当てたミミィの正体も、一目で分かったのか。
「実は王子は結構、有能なんじゃないですか?」
「ただ、次期王として有能か? と言われたら別じゃないかな」
「確かに……」
そもそも王位を受け継ぐ気が、全くない。
「王にしてみたら、息子が引きこもって本を読みながらも、自立してくれればそれでいい。
そのきっかけの就職だと言っていたね」
「仕事をさせることが、最終目的ではないんですか?」
「とにかく自立した姿がみたいらしいよ。今のままだと婚姻も厳しいし」
「でも自立って、すごく抽象的な言葉ですよね」
「そうだね」
単に就職しろというよりも、難しい。
就職できれば、自立なのだろうか?
仕事が続けば、自立なのだろうか?
その後の人生が、周りと同じように見えれば、自立なのだろうか?
そもそも、人間的な自立とは、一体なんなのだろうか。
王子は更に難しい立場に置かれているようだ。
そう話しているうちにも、王子の周りには彼とお近づきになりたい女性がだいぶ増加していた。
しかし、よく見ると、王子の一メートル圏内には誰も近づいていない。
彼の孤高、もしくは拒絶の壁が高すぎて、誰も近づけないのだ。
ニート王子に、空間を空けて囲む、女性の輪。
王都を草原を挟んで囲む周辺都市のような、ドーナツ化現象が起きていた。
……あーなんだろう。ドーナツ食べたくなったな。
今度揚げたてを作って、ミミィと食べよう。
穴を空けずにジャムを入れて、丸いドーナツにしてもいいよね。
そう考えていると、フリッツが肉を噛みしめながら言う。
「あれを見ているとドーナツ食べたくなるよね。いつ作るの?」
「あんたに作るものなんぞありません。
というかそのスプーン私のなんで、使わないでください」
奴が『私の』スプーンを、自分のスープ皿に突っ込もうとする寸前に止めた。
「別にいいじゃないか」
「良かないです。危うく消毒する羽目になるところでした」
「えー」
「えーじゃありませんよ、全く!
リストラの件で少しは、反省してくれたんじゃなかったんですか!?」
「うん、そこなんだけどね」
フリッツがふと真面目な顔になる。
スープが飲み終わって、自分のスプーンをぶらぶらさせた。
「今のところ、俺が借りるのってチサからだけじゃないか」
「ああそうですね。大迷惑です」
「それって実はすごく珍しいことなんだよ。今まで全方向、色んな人から借りていたからね」
「最低ですね」
「やっぱり、そう思う?」
「思わない人間は、人間じゃないと思います。もはや病気ですね」
そうかあ、と奴が苦笑する。
多少は自覚があるようだ。
「実はさ、ようやく返すことができたんだよ」
ふと、フリッツが言った。
何か、聞き捨てならないことを。
「……え? もう一回言ってください」
「ようやく、最近返し始めたんだ。この十年で借りていたもの」
休みの時には、遠出もしてね。
結構な量になっていたなあ。
そう続ける奴の顔を、本物の借りパク勇者なのだろうかと、疑いの目で見つめたのだ。