ある日出遭った狼さん
4月25日土曜日晴れ。
登校していたら道端で真っ黒な狼が寝転がっていた。この大きな狼はあちこちに怪我をしているらしく、所々に血が滲んでいた。今日は部活に行こうと思っていただけなので、時間に余裕がある。見捨てるのも可哀想だからちょうど近くにあった公園に狼を引っ張って、持っていた比較的どうでもいいハンカチと大量のポケットティッシュ(私は花粉症である)を使って応急措置をした。狼が綺麗になった。よくよく顔を見てみたら同じクラスに在籍している猛獣だった。
何だか興味が湧いたので、この黒い狼の世話をしてみようと思う。今日から私が飼い主だ。気絶してる狼を叩き起こして、名前をつけたことを教えた。今日からお前は「クロ」だよ。安直だと言わないでほしい。そう教えたらクロは少しだけ惚けた顔をして、いきなり私の肩に噛みついた。なんて猛獣だ、躾をしなければクロが他の狼に苛められてしまう。お腹が空いていたらしいクロを宥めて、とりあえず持っていたお菓子を与えると、クロはヘラリと軽薄そうに笑ってこう言った。
「なぁ飼い主さん、俺は血濡れた生肉が好きなんだけどな」
とにもかくにも、私は真っ黒な狼を飼育し始めた。
そんな高校二年生の春である。
『ある日出遭った狼さん~狼さん、飼い主を得るの巻~』
小さい頃から自分が突拍子もないことをする人間だということは心得ている。そんな私についていける人はいつだってゼロに近くて、かといって私自身が孤独に苛まれることは何一つなかった。何故かと聞かれたら、親戚はアレでも両親は理解を示してくれるし優しい幼馴染みもいる、そして高校に入ってから友人は一人出来たので寂しいことは何一つないのだ。私はとても恵まれている。とても恵まれている、はずなのに。
なのにいつも、心の中の穴がぽっかり空いたままま宙ぶらりんになって、悲しくて悲しくて泣きたくなる。どうしてそんな風に思うのだろう。わからない。どうしても分からない。
そうしたらある日、目の前に病んだ狼さんが落ちていた。
「大神、またお前は教室をぐちゃぐちゃにして…!」
「センセ、ボクやってませんよ。ここに来たらすでにぐちゃぐちゃでぇ」
「くだらん嘘を吐くな!進級してから悪さをしていないと思ったら…他の先生が許しても私は許さん。今日という今日こそお前を退学にしてやる!」
「そんなに怒んないでよセンセ。だーかーらァ、やったのは俺じゃアリマセンって」
「そこで待っていろ大神!!」
窓の外から特別棟を眺めていると、生徒指導の先生が空き教室の前にいたとある生徒、大神尋に怒鳴って注意をする。この先生は何かにつけて大神尋──クロを目の敵にしていちゃもんをつけてくることで有名だ。まあ、それくらいクロが入学してからずっと悪い事をしていたという証拠でもある。それにしては理不尽にクロを怒ったりするので飼い主としてこちらも怒りが溜まっているところだったりする。うちのクロは野良狼じゃないんですよ、先生。
先生の捨て台詞のような言葉に「あーあ、話聞けよ狸」と言いながら舌打ちをして、クロはうちの教室へと視線を上げた。飼い狼と目があった。ヘラリと笑ってきたので、自分の両手を首に回し、締め上げる動作をしておいた。今日は学校を遅刻しない約束のはずだったのに堂々と遅刻して、加えて濡れ衣とは言え面倒な生徒指導の先生にお叱りを受けてしまった。これはお仕置き決定、由々しき事態だ。私がやった動作を見てお得意のヘラ顔(と呼んでいる)を引きつらせたクロは、長い足をいつもより早く動かしながらうちの教室へと向かったようである。知らず溜め息を溢した。
大神尋はこの学校の猛獣だ。校外で不良相手に派手な喧嘩は当たり前、校内で生徒相手に暴れて教室をぐっちゃぐちゃにする(例えば窓ガラス割ったり机ぶちまけたり)ことなんてもっとザラにある。親御さんが有権者なのか、彼の後ろにいる人が有権者なのか、それを踏まえた上でこの学校が私学だからなのか、彼は停学になることはあれど退学になったことはなかった。それもそのはず、校外はともかく校内で起きた出来事はほぼ偶然だが、学校側が手を拱いていた生徒を処理していたようなもので、少々の器物破損はおまけ程度と認識されている。つまり、本人の意思は置いておいて学校的にあまり実害がなかったのだ。そういった学校の汚いところに付け入る形で、彼の存在は偶然容認されていた。その全てが偶然で済まされていた大神尋は前述の通り猛獣であり、その手綱を引けるものは未だに誰一人として存在しない。
高校に入学してもう何ヵ月か経った秋頃、そんな噂を友人から耳にした。そして今年偶然道端で出会い、私は彼を拾った。こんな愛らしい獣を捨て置くなんて、悪い人間が居たものだ。
「おはよ羽間センセっ大神尋ただいま登校致しました!」
「るっさいぞ大神ィ!朝礼はとっくに終わってるんだが」
「知ってますこんにちはァ」
「職員室で届け出もらって、保健室でケチャップまみれのワイシャツ変えてもらえ」
「やだセンセ、これケチャップじゃなくて血ですわ」
「ダァァァ!!さっさと行ってこい!」
私こと鏡桃は、ご存じの通りいま担任とコントを繰り広げている狼の飼い主だ。背丈はクロと三十センチ差があり、体重はごにょごにょ、頭は平均より上で、顔面偏差値はもちろんクロと結構離れてて、足癖が悪いお陰で得意な技は主に足技。名字のイントネーションのせいか、ついた渾名は鏡餅。ちなみにこの渾名はクロがつけたものである。クロ曰く『白いし頬肉も餅みたいだからぴったり、美味しそう』らしい。早々に躾の必要性を感じた。
最初の一週間から五月初旬までごねていたクロを説き伏せて、やっとのことで登校させた五月中旬。そして今日、六月中旬にして遅刻だ。何が悪かったのか思い返してみると、そうだ、クロを放置してしまったのが原因か、と思い出した。昨日は一人にしろと言ってきたので、最近ちゃんと行ってるしまあいいだろうと甘やかしたらこの様だ。家に帰るところまでしっかり見届ければよかった。昨日の事といい先程の事といい、飼育というのはとても難しいものだと痛感した。クロを立派な狼にするために、まだまだ私は頑張らねばならない。
その為にもまずは、生徒指導の先生から片さねば。
「鏡餅ィ」
「何、クロ」
「いい加減その呼び方やめてくれる?虫酸が走ってお前殺したくなるわァ」
「お前こそ飼い主に何て口を聞いてるの。愛らしいクロには似合わないからやめなさいって、いつも言っていると思うんだけど」
「はァ、まぁた俺のこと愛らしいとか言ってるよ。お前絶対俺より頭可笑しいっすわ…じゃーなァくーてぇ、あの狸が謝ってきたんだけど何したのさァ。あのおっさんがそんなことすんの初めてなんですケド」
溜め息をついてスプーンを弄る姿は数週間前と比べると格段と愛らしいものになったと思う。やはりうちの子はとても可愛い、これならテレビに出ている愛玩チワワにだって負けない。まあそれよりもクロの質問に答えるとして、何と言われても飼い主として当然のことをしたまで、としか言いようがない。
いつも通り幽霊が出るというガセネタが流れている(情報源は私)人気のない屋上で、昼御飯を食べている最中にクロがそんなことを言ってきた。ちなみに今日のお仕置きはクロの大嫌いな人参をたっぷり使ったポタージュと、とても甘いと評判の購買のパンケーキを食べさせることだ。クロは野菜全般と甘いものが大嫌いらしく、こうしてお仕置きをするたびに野菜をとるようにさせている。しかしただ単純に野菜をとらせるのではなく、本人にとって食べやすい形にして摂取させる方法を行っている。甘いものについてはおまけだ。ポタージュについては難なくクリアしたようだが、やはり今日も顔を歪めながら甘いものを食べている。そんなに嫌なら約束を破るなと言いたい。
黙っていたら、艶やかな黒い毛並みと両目に浮かぶ琥珀色がマッチしてとても素敵な狼なのに、この子は喋れば病んでることがバレバレなのが残念で仕方がない。喋ったとしても凄く素敵な子なのに、この病み加減が残念感を生んでしまうので近づいてくるのは変な子ばかりだ。クロも心底嫌がっている様だし、クロの教育によろしくないからあまり近寄らないで欲しいものだ。
「うん、私じゃない」
「バレる嘘吐くなってーの裂くぞ。飼い主が嘘吐くなよ」
鋭い眼光が私を射ぬく。どうやら誤魔化しは聞かないようだ。確かに、飼い主の私が嘘を吐いてはいけないな。仕方がないので胸元から真っ赤なカバーのかかったスマホを出して、とある動画を見せる。
「普通に、一般生徒の意見を言ったの」
「あァ?」
「コラ、凄まない。生活課課長と風紀委員に、あの空き教室でこんなことがありましたって動画を見せただけ。あと、『荻原先生が大神くんに濡れ衣を』とも」
「は…、」
動画を食い入るように見つめて、何か言おうにも言葉が出ずに気の抜けた声を出すクロ。スマホと私の顔を交互に見つめて唖然とした顔をしている様子からして、動揺していることが窺える。珍しいものを撮った覚えはないのだが、何で挙動不審になっているのだろう。そんな姿も少しばかり滑稽で愛らしい。その姿にふ、と微笑んだ私の顔を凝視して硬直してしまったクロからスマホを受け取り、風紀委員から来ているであろうメールに目を通した。荻原先生、ちゃんとクロに謝ってくれたんだ。よかった。
「…あ、アンタさ。何で俺なんかにこんなこと…俺が狂ってんの、知ってるだろ…?」
自覚があるのかは分からないが、怯えたように震えた声で私に問いかける。何をそんなに怯える必要があるのだろうか、甚だ疑問である。首をコテン、と傾けて数秒考えてみる。うーむ、私には分からない。
「飼い主が自分の飼い狼を守るのはそんなに可笑しい?」
「…?」
私の返答に怪訝そうな顔をして眉間に皺を寄せる。ああ、そんなことをしたら折角の可愛いクロが台無しになってしまう。私は別に、とても当たり前のことをしただけなのに何を過剰反応しているのだろうか。プルプルと震えて、随分と弱々しい子狼になったものだ。
「お前を守るのは飼い主として当然。私の大事な大事な子だし。それに、理不尽なあの先生に前から腹が立っていたから告げ口しただけよ!」
ふんっと鼻息荒く返事をして残りのご飯を口に詰める。あの先生は本当に執拗だ。この一ヶ月間何の事件に巻き込まれていなかったときでさえクロにいちゃもんをつけてきたのだ。事ある毎に絡んでくる姿は、とてもじゃないがクロを可愛がっているようには見えない。うちの担任ならもっと愛のある接触をする。何故あの人が生活課なんてものに所属出来ているのか分からない。切に抗議させてもらいたい。
「…何だよソレ、保護者気取りか。鏡餅ごときにビビって損した」
「何だとクロ!もう一度言ってみなさい、まだ今日のお仕置きは終わってませんよ!」
「はァァ?!!ふざけんな、今日は大人しくしたじゃねぇかこの餅!食ってやる!捌くぞ餅ィ!」
「…暴れるならその口に角砂糖を突っ込む。こら、そのポケットナイフ仕舞いなさい」
「ヒィっ!その敬語口調どうにかしろ、あ、してクダサイ。やめ、俺ヤ!やだやだやだやだお前の家嫌い!嫌い嫌い嫌い嫌い」
目下の悩みは、この狼が飼い主の気持ちを汲み取るにはどうしたらいいのだろうということだ。「嫌い嫌い嫌い」を連呼して本格的に青ざめながらガタガタと震えているクロを引き摺って屋上を後にした。全身の毛を逆立てて何をそんなに怖がる必要があるのだろう。クロ、それでは狼ではなく猫になってしまうよ。
どうやらクロはうちの両親が苦手らしい。あれだろうか、いつもクロが来るたびに両親がねこ可愛がりするのがいけないのか?まあクロは可愛がられることが苦手みたいだから仕方がないな。
飼い主としては、もっと可愛がられることに慣れてほしいものである。
* * *
クロと私の関係性を知っている人物は多いようで少ない。両親とたった一人の友人(高校で出来た)には教えたので知っているし、担任と学年主任には二人揃って頭を下げに行ったので知られている。風紀委員会にも根回しのために挨拶をしに行ったので知られているのだが、この辺りをクロは知らないので今後も秘密にするつもりである。このことがバレたらあの子は照れるどころか発狂してしまうだろうから、慎重に隠すべきだ…とは思っているのだが、適度に放置しているので近々バレそうな予感はする。それはそれであの子の成長の為にもなるような、まだ早いような。
「桃ちゃん、今日も大神くんとお昼ご飯食べてたの?」
「んー、うん」
「いいなぁ、羨ましい」
高校で出来た唯一の友人、千川由依は私とクロのことに対していつも「羨ましい」と言う。随分と前に具体的に何が羨ましいのかを考えて、あの子兎のように怯えて可愛らしい部分を見ることが出来ることか、と聞いてみたところ「全然違う」と大激怒されてしまった。どうも私と彼女の感性は違いすぎるようだ。今は同じクラスではないから余計そう思うのかもしれない。元々何かしらミーハーな性格を見せていたのだが、それとは違うものが感じられるようになった。そう、クロを飼い始めた時分から。
例えば、まだ人間によって傷つけられ威嚇する猫のようだったクロに、会いたいとしきりにお願いをしてきたこととか。いきなり屋上にやってきて、クロは居ないのかと聞いてきたこととか。クロのプライベートについて質問責めしてきたこととか。挙げるとキリがないので割愛させていただく。その姿はまるで、クロがあまり好きではないと言っていた人物像やクロの周りを彷徨きたがる輩に似ていたので、クロに近づけるのは危険だと思った。クロが発狂して手を出してしまったら(血を見ることは明らかだ)危ないので(物理的にも精神的にも)、両者の為にもそれとなく近づけないようにしていたら、何故だか「酷い」と非難されてしまった。うん、意味がよく分からない。説明をしても聞いてくれないので、彼女への対応はどうしたらいいのか悩んでいる。困った。価値観が合わないというのは、こんなにも厄介なのか。
「ユイはそんなにクロに会いたいの?」
「もちろん!だって大神くんカッコいいもん!あんなカッコいい人とお近づきになれるだなんて、みんなに自慢できるし」
何か用事があってここにきたと言っていたのに、それらしきことなど言わずに私の席の回りでキャアキャアと騒いでいる。目を輝かせている様子はさながら、視聴者受け狙いの愛玩チワワだ。色んな意味でついていけないと思い、軽くため息を溢す。
「なのに桃ちゃんは独り占めして、紹介もしてくれないんだよね。酷いよ」
そのカッコいいという表現があまり理解出来ないのだからしょうがない。第一、まだあの子は目に見える怪我すら完治していない。クロは会うたび何処かに怪我をしているので、この一ヶ月で常に救急セットを持ち歩くようになってしまったのだが、この間それでは対処の仕様がないほど深く腕を切ってしまっていたので、病院に連行して何針か縫って貰ったのだ。もちろんその後はお仕置きタイムである。そんなあの子に苦手なタイプの子を近づけたら、外的損傷だけでなく内部まで怪我をしてしまうのではないか。そのことを考えるとハラハラして私の心臓がもたない。そういった理由も含めてダメだと言っているのに。
「桃ちゃんだけの大神くんじゃないのに!ダメだよ、大神くんにそんなことしたら。みんなの大神くんなんだから」
この子は、人の話を全く聞かない。思い込みが激しい、という言葉で片付けるには度が過ぎるほどに。こんな子ではなかったはずなのに、一体何があってこうなったのか。
前はフランス人形のように愛らしい容姿をした彼女をとても可愛いと思っていたが、今はどうだ。その砂糖菓子のように女の子の理想が詰まったような笑顔は、ヘドロで塗り固めたナニカのようで気持ちが悪い。駄目だ。友人にこんなことを思うだなんて、私はなんて罰当たりなのだろうか。こんな私に付き合ってくれているのだから、感謝すれども負の感情を持ってはいけない。そう、思っているのに。クロの顔を思い出してみると、何だかもう。
とりあえず、この子は新種の珍獣だから人の話を聞かないのだ、ということにしておく。
「分かった分かった、そのうちね。じゃあちょっと用事があるからまた明日」
「えー、桃ちゃんの分かったは信用出来ないよぉ」
彼女の文句を右から左へ聞き流しながら、荷物を手にして教室を後にした。次いでクロに少し待ってて欲しいとメールを入れる。今日はそのままクロを引き連れて帰るつもりだったのに、朝から予約を入れられてしまった。この用事を早く終わらせてもらわないとクロが自分の家に帰ってしまう。相手がさっさとしてくれることを願うのみだ。
実は今朝、私の下駄箱に熱烈なラブレターが入っていた。内容はまあ至ってシンプル、且つファンシーだったのが何とも笑いを誘った。ハートだらけの便箋に″今日の放課後、第二美術教室でお待ちしています″とだけ書かれていた。字は一見丁寧でよく見たら雑だったので、性別はどちらかと聞かれるとよく分からない。第二美術教室と言えば、今日の空き教室荒し事件が起きた教室の近くだ。それに、あそこは私が所属している部活の部室の近くでもある。相手はそれを見越して場所を指定したのか…謎は積もるばかり。けれどまあ、差出人は大方奴等で間違いがないので風紀委員に連絡してから行こうと思う。
朝方、いつもより早めに登校していた私は妙なものを発見した。言わずもがな、クロが荻原先生に難癖をつけられていた空き教室荒し事件の真相である。もちろん犯人は寝坊して遅刻してきたクロではない。顔はよく見えなかったが男子生徒二名が教室の備品をぶちまけたり、窓ガラスを割ったり、机をひっくり返したりしていた。動画を録っていたのは風紀委員に告発する為である。クロのことで知り合いになってしまった彼らから、出来たら校内で起きた事件をなるべく教えて欲しいと頼まれていたからだ。そうしたら案の定、動画が必要になった。動画は偶然だとしても、クロが濡れ衣を着せられたのは必然のように感じる。そしてこの″ラブレター″だ…どうもきな臭い。どれだけ怪しさ満点のラブレターだとして指定場所に相手が居ようと居まいと、行かないのは流石に失礼に値するだろうから行くだけはしないと。
時間の詳細は「今日の放課後」としか書かれていなかったので、もしかしたら相手側が早く着いているかもしれない。今朝凝視していた特別棟に足を踏み入れるとは、ちょっと感慨深い。運命的な気がしてきた。まあそれは運命なんてものではなく、打算的な必然なのは明確で。推測でしかないけれど、このラブレターだって″ラブレター″なんてものではなく、ただの呼び出し状だろう。一体何処から、私とクロの関係を聞きつけたのか。情報公開は私的に信頼のおける人物と、守秘義務を全うしてくれる機関にのみしたはずなのに何故漏れたのか。
パズルは好きだ。ある程度は一定の単純作業で済むものばかりだから。それが理由だとは言わないが、今日たまたま私を呼び出し、あの場所へ誘導しようとした人物をすんなり特定してしまった。パズルは好きだが、理解したくないものを理解しようとしないので、きっとこのパズル好きが有益な能力には成り得ない。
そう考えると、私も大概残念な飼い主だ─────。
「こんにちは」
大分立て付けの悪くなった引き戸を勢いよく引いて中に入る。近づいたときから人の気配がしていたので、一応挨拶をしておいた。訂正しておくと気配というより話し声だったのだが。それも男女含め数人。この後の展開が予想しやすくて、これなら昨日見た安っぽい恋愛ドラマの方がマシだなと一人頷く。校舎裏に呼び出さなかったことだけ及第点としておこうか。しかし、うちの学校の校舎裏とは何処になるのか疑問だ。これなら校舎裏に呼び出してもらって、ついでにクロを連れて散歩した方が楽しめたかもしれない。
「…こんにちは、鏡桃さん」
私の挨拶に返事をした女子生徒は、今日クロが浮かべた引きつった表情と酷似した顔をしている。人よりずれているのは承知の上だが、引かれるような行動をした覚えはない。それともあれだろうか、私が驚きもせずにいつも通り眠たげな顔をして入ってきたのが問題なのか。何て失礼なお嬢さんだ。私のタレ目と眠たげ顔は先天性であり通常装備である。
「そ、その顔なら、何の用件があって呼び出したかは分かっているんでしょうね!」
「はあ、まあ。アレですよね、クロの飼育についてですよね」
「く、クロ?クロって誰よ…」
「クロはクロですけど」
「違う!大神尋のことで呼び出したのよ!」
だから、さっきからクロだと言っているつもりなのだが。まさかクロが誰かも分からずに私を呼び出したとは…ということはクロの飼育についてが議題ではないのか?ならば、面白味がなさそうだしさっさとクロを迎えに行きたい。こんなところで時間を食っていたら、クロへのお仕置きの時間が減ってしまう。また悪い子に戻るのは困る。せっかく怪我の数が減ったところだったのに。
「貴女、大神様に付きまとっているようね。彼に迷惑だわ!」
「はあ」
「大体大神様はみんなのものよ。あの方は無闇に近づいていい御方じゃないの」
いつからうちの飼い狼は神様になったのだろう。確かに無闇に近づいてはいけない。安易に触れてしまうと傷つけてしまうから。繊細なものほどゆっくり触れなければならない。…とは言っても、私は強引に触ってしまった悪い飼い主である。
彼女の声を切っ掛けに、室内にいる女の子達が一声に罵倒し始める。ここ、五人も女の子がいたのか。キャンキャンうるさいな、やはりうちの飼い狼が一番である。しつこくない、あざとくない可愛さは天然物だと断言出来るのだから。人のことを「ブス」だの「チビ」だの言っている内は、クロに勝てないな。
「前はあんなに鋭かったのに…!アンタのせいで大神様が!!」
「小汚ない底辺の女が大神様に近づくな!」
全くもって可愛くない。恨み辛みを聞くためにここに来たわけではない。もしや、これが彼女たちの用件だと?そうだとしたら全く面白くないな、却下だ。
「はあ、なら誰ならよろしいのか」
「はぁ?!!それは、」
「私から言わせてもらえば、貴女方も大概ですよ。クロの教育に悪いので、そちらこそ近づかないでもらいたい。ああ、それと」
視線を彼女達から、その後ろへと投げる。教室に入ってからずっとここにいる男二人組がずっと気になっていた。どんな意図でここに連れてきたのかは知らないが、どう見てもこの二人、クロに濡れ衣を被せた実行犯達だ。
「そこのお二人は、うちのクロにどう言った因縁であのようなことをしたのでしょうか」
ああ、とんだ茶番だわ。
やっぱり私は、悪い飼い主のようだ。
「…、はぁっ」
クロと待ち合わせた場所は、私が部室として使っている旧視聴覚室だ。普段は私が鍵を持っているので、メールで鍵の場所を教えて部室で待ってもらっている。今日ばかりは私のその安易な行動に舌打ちをしたい。もう少し考えたらよかった。
暫く運動をしていないせいか、たったそこまで走るだけで息切れを起こしている。太股の筋肉も一瞬にして震えてしまっていることもあり、膝の皿が笑いそうで怖い。もしかしたら貧血手前かもしれない。だけど私の体調なんてどうだっていい。そんなものより、何よりも。傷つきやすいあの子が心配で心配で仕方がない。
事の発端は始終単純明快なものだった。もちろんあの子は何もしていない。ただ病んでいることと、その人間としてとても綺麗な顔立ちをしていることを除いては。
きっと今も対して変わらないのだろうが、私に飼われる前のクロは手当たり次第に視界に入ったもの全てを壊していく猛獣だった。人間を生物として扱わず、形ある無機物として、内なる破壊衝動を沈めるために次々に壊していった。手はいつも真っ赤であることが普通だと、それが常識であるかのように振る舞う。一日に一つ以上、何かを壊さないと落ち着かないくらいに。当の本人には何が正常な状態であるか、なんて分かるはずがない。それが当たり前であるかのように、じわじわと破壊衝動が侵食していったのだから。止めるものは誰一人としていなかった。きっと、逆にあの子達みたいな人がそれを後押ししていたのだろう。心の奥底では嫌だと思っているであろう彼に、ずっと。ずっとその行為を強要していたのだ。
そんな人達ならば当然、この一ヶ月間のクロの様子を許せるはずがない。平和ボケした狼のようなものだったのだから尚更だ。今回の空き教室荒し事件は、昨日クロを野放しにした後に起きたことが原因だった。どうやらうちの病んだ狼が平和ボケしているという噂を聞き付けて、喧嘩を吹っ掛けた挙げ句血塗れにされたらしい。クロは面倒だったのか家に帰っていないのか、昨日のワイシャツのまま登校してきたから、担任曰くケチャップまみれだったと推測できる。実行犯は昨日の喧嘩で軽傷だった人物らしい。
真相がこれだけなら私だってこんなに急いだりしない。いくら病んでいると言っても、これくらいのことは軽くスルーするのがうちの飼い狼だ。
ただ、ここからが私が悪い飼い主だという事実になってしまうのが痛いところである。
「──クロ!」
ガラっと勢いよく引き戸を引く。旧視聴覚室とはいっても、第二美術教室とは年期が違うので古さは桁違いだ。
呼吸を整えながら室内にいる人物を睨み付ける。
そこにいたのは嫌そうに顔を歪めているクロと、───クロに垂れかかっている、先ほど別れたはずのユイだった。
「…ユイ」
「えぇ?桃ちゃん早すぎじゃない?」
「…やっぱりユイか」
今回の犯人、それはユイだ。
「あれぇ、ほんとだったら桃ちゃんにイケないことしてもらうつもりだったのに。あの二人使えないなぁ。取り逃がしちゃうなんて」
ふわふわと笑って、悪気なんてこれっぽっちも感じていないかのような口振りで起こるはずだった予定を話す。違うと思いたかった。だって、人生で初めて出来た友達だったから。だけどどうしても違和感を感じてしまったから、今回のことがすぐに分かってしまったのだ。パズル好きには、辛いものがある。
どうして、なんて思ったりはしない。ユイはずっとクロへの執着を口にしていたから。この子を付け上がらせたのは私のせいだ。分かってて放置していた部分も少しはあるから。
「どうやったの?」
「…風紀委員呼んでたから取り押さえてもらった」
「えー!桃ちゃん大神くんだけじゃなくて風紀委員会もなの?最低だよ」
「…あのさぁ、その最低って何なの」
「この尻軽って言いたいのぉ」
あの顔からそんな下品な言葉を聞く日が来るなんて思っても見なかったな。何だかんだで私なりにユイを信用してた。だからこそクロの話をしたのに。この子はその情報をあっさりと他人へと引き渡した。そうして、ユイに懸念していた男子生徒を使ってクロを襲わせたり、今回のラブレターに便乗する形で私から引き剥がそうとしてみたり。随分な方法をとってくれたものだ。
彼女はそんなに私が嫌いなのだろうか。いや、もうそんなレベルを越えた話な気がする。他人よりずれているらしい私でも、それくらいは分かった。
「桃ちゃんはずっと、私の下に居たら良かったのに。私を飾り付ける役で満足してたら良かったのになぁって」
この子はずっと、私と友人になったときからそう思っていたのか。
「何で私より先にこんな凄い人と仲良くなるの?桃ちゃんは私のおまけでしょう?有り得ない!」
「…ユイ」
「気安く呼ばないで!アンタなんか友達でも何でもないから!!」
ああ、どうしてだろう。ユイがヒステリックに、私からすると衝撃的であろうことを叫んでいるのに、全くもって心に響かない。それどころか、他人に知られたらドン引きされてしまうようなことを考えついてしまう。こういうところがずれているのだろうか、いや違うはずだ。やっぱり私には彼女が─、止めておこう。そんな場合ではない。
「…ね、大神くん。桃ちゃんじゃなくて私の方がイイよね?ルックスもセンスも、──こっちもウマイよ?」
そう、そんな場合ではない。このセクハラチワワがうちの飼い狼を誘惑しているではないか。クロの左腕を引っ張って自分の胸へと抱き込み、耳元で囁くかのように甘い声を出している。ぶっちゃけ、今しがた友人ではなくなったであろう人物のこんな場面なんて見たくなかった。何故かと聞かれると、それはもうドン引いてしまうからである。
私は昔から下ネタが受け付けない性質だ。聞くだけでその場から後退りしてしまう。恥ずかしいという感情よりも先に、はしたないとか下品という言葉が浮かんでしまうのだ。…さすがに不潔だとは言わないが。とにもかくにもクロの教育に不適切だ。猥褻行為は止めてもらいたい。
「クロから離れて。悪いけど、何て言おうと私はクロの為に全力を尽くすから」
「何それ嫉妬ぉ?自分が選ばれないからって可哀想」
またこのチワワは人の話を聞かない。クスクス笑って、クロの左肩に凭れかかる。こんなことをしている場合ですらないのに、事態は一向に進む気配を見せない。早くしないとクロが暴れてしまうと言うのに。
「…はぁ、飼い狼を守るのは飼い主の務め、そして今の私の楽しみなの。この際だからハッキリ言わせてもらうけど、″酷い″のも″最低″なのも″尻軽″なのも、全部貴女でしょう?」
呆れを滲ませた声で彼女に返答をする。終わりそうもない問答に頭痛がしてきそうだ。こうまでして話を聞かないなんて、もっとハッキリ言わせてもらえば異常としか言い様がない。全体を通して、クロの信者さん達は崇拝が過ぎるのか知らないが過剰なほどクロに傾倒している。ピークを過ぎた人間はそうでもないようだが、絶賛信仰中の方々は薬でもやってるのかってくらいブッ飛んでいる。そういうこともあって奴等にあまり近付けたくなかったのに。諸事情でこんな展開を生んでしまうとは。
図星なのか何なのか、私の言葉に対して非難されたと喚き、尚のことクロの腕に絡み付く。やっぱりその姿はテレビの向こうにいる愛玩チワワそっくりだ。
ここまで来るとどうしようもないので、私も告白させてもらおう。もう彼女が人間に見えない。チワワにしか見えないのだ。ほとほと呆れ果ててしまった。好きにしてくれという感じだ。いや、クロの回収だけはさせてもらうが。
「桃ちゃんやっぱり酷いよ!大神くん、桃ちゃんなんてやめようよ。ね?私にしよぉ」
「別にいいケド、さっきから思ってたんだけどさァ…」
中々クロから離れないユイをどうやって引き剥がそうかと思案していると、いつの間にかクロは彼女の顎を掬い上げて凝視していた。ユイの瞳が期待で潤む。クロ、番を選ぶのは個人の自由だが相手はちゃんと選びなさい。悪いことは言わないからそのチワワは駄目よ。通常装備の顔の下でそんなことを思いながら、スマホを弄って風紀委員に連絡を入れる。この人の話を聞かないチワワは今回の首謀者なのでどちらにせよ引き渡さなければいけない。
メールを入れ終わるまで、クロに相手をしてもらおう。これも今日のお仕置きの一貫ということにしておくか。
「アンタ、俺の飼い主になりたいワケぇ?」
「え?」
「コイツの代わりってぇのはァ、俺が人を殺しそうになったときに身体張って止めに来たり、俺に傷つけられんのが分かってて平気で躾したり、俺がやった諸々のことを後始末して俺のこと守るっつーことよ」
「な、なにそれ…」
「アンタには無理でショー?」
ケタケタと笑い出すクロ。そんなクロの異常さをやっと理解したのか、絡ませていた腕を離してクロと対峙するように立つユイ。今さら怖じ気づいたのか。クロは元からこうなのに。だから私はまだ会わせられないと言ったのに。
「鏡餅はァ、俺の唯一の飼い主なのォ。だってアンタ耐えられるゥ?」
「え…」
「初対面で肩肉食いちぎられそうになってるのに、そんな猛獣を抱き締められる?」
「そ、そんなこと私だって…!」
「あー、ムリムリ。お嬢ちゃんじゃ無理だワァ。だって俺、アンタに飼われた瞬間に殺しちゃうの分かるしぃ。アンタが死んでもトキメキも憎悪も湧かねーワァ」
「何よ!桃ちゃんと私の何が違うの?!!私の方が桃ちゃんよりも、」
「そんなことどうでもいんだよ。だからさァ、俺が言いたいのはァ」
トン、とユイの身体を軽く後ろに押していつもの軽薄そうなヘラ顔を貼り付ける。そして耳元で囁きながら片手をゆっくりとした動作で彼女の首へと滑らせ、軽めにきゅっと締め付けた。
「人の御主人サマに手ェ出したんだ、その首貰っていいだろ?」
クロ、成長したのは嬉しいが手を出すのはよくないと毎回言っている気がするよ。今日のお仕置きはこれで軽減しようと思っていたのだが、増量決定だな。
* * *
「時間が掛かっちゃったなぁ。ごめんね、クロ」
「…別に」
風紀委員の事情聴取を受けて、もうすっかり暗くなった道をクロと帰る。今日はどういう風の吹き回しか知らないが、私の荷物も持ってくれた。うん、愛い奴だ。
あのときユイの首の骨を折りそうな勢いだったクロは、すぐに駆けつけてくれた風紀委員の介入によってその手を放した。前のクロだったら人の話なんて一切聞かずに、自分の思うままにやっていただろう。飼い狼の成長は、意外にも早い。
「でも今日は偉かったね。ちゃんと止めることが出来た。凄いよ」
「だァア!触んな!バッ、撫でんなァ!」
顔を赤くして、振り払われようとも頭を撫でることをやめない私から逃げようとする。この反応だって、以前のクロだったら指に噛みついて怯える程度だったのに、どんどん変わっていっている。そんな姿がちょっと寂しいと思うのは全ての飼い主が通る道なのだろう。切ないけど、何だか嬉しいな。
ある程度の距離まで走って、何を思ったのかそこで止まり私の方を振り向く。いくらクロが俯いていても、私の方が身長が短いのだからどんな表情をしているのか丸分かりだと気付いているのだろうか。
まあ、そんなことを気にしている余裕は無いんだろうけれど。
「だって…お前、俺のこと大事なんダロ」
「うん?」
「ま、守るのは当たり前なんダロ!」
自分の発言にワタワタと慌ただしく手を振る姿はとても愛らしい。さすがクロ、また一歩愛玩チワワを追い抜かしているよ。思わず暖かい目を向けた私を、どうか年寄りだと非難しないでほしい。ワタワタしている隙にゆっくりとクロがいる場所へと近づく。
今日は両手放しに思いっきり誉めてあげたい気分だ。
「じゃ、じゃあ、ペットが飼い主を守るのだって当然だよな!だって俺、お前のペットだしっ」
「─、クロ!」
「お、俺の飼い主はよわっちぃからナ!た、たまには俺が守んないと…ってお、オイ?!!鏡餅何して、」
「そんなに私のことを考えてくれていたのね。嬉しいよ!」
クロが思いがけず言ってくれた言葉から、歓喜極まってクロの胸元へと飛び込んでしまった。照れているのか、薄暗い中でもはっきりと分かるほど赤面させて、「離せコラァ!」と叫んでいるクロを放置して思いっきり抱き締める。身体を思いっきり捻ってブンブンと振り回されようとも、身の危険の為にも抱き着いたままにさせてもらうことにした。
私が本当に欲しかったのは、こういう暖かいものだったのかもしれない。
「あーもう!ちげぇよ!だってお前、あの女が初めての友達だって言ってたじゃねぇか!俺は、その。お前が寂しがるんじゃないかって…ァ、ちが、違う」
「クロ…」
「べっつに!愛らしい狼がいるじゃん?!!友達とかいらねぇだろ。俺だけでも手が掛かるんだからな!」
「クロ…」
「アァ?!んだよ!文句あんの!お前の愛らしいペットが御主人サマを慰めようとだなァ、」
「…そんなに必死になっても、お仕置きは減らないよ」
耳まで真っ赤にしたクロがあまりにも必死で、見ていて可哀想になってきたので、本人が欠片ほども考えていないことを口にした。ビシリといった音が似合うような固まり方をしたクロ。まだまだクロも青いな。ショックを受けて固まっているクロの前を歩いて、今晩の夕飯はクロの好物でよろしく、と母上にメールを入れた。
「ひっ人の親切心を…!待て鏡餅ィ!!やっぱり今すぐ刻んで食ってやる!」
「口が悪いよ、クロ。ユイに啖呵切って″唯一の飼い主″と言ったのは誰だったかなぁ」
「かーがーみィもーちィイイイ!」
すでに数メートル近く距離が離れていた私に向かって全速力で追いかけてくる。これは不味い。私はそんなに運動は得意ではない。うーん、きっと今日は追い付かれてしまうとヘッドロックを掛けられてしまうな。捕まるわけにはいかないので、私も出来る限りの力を出して走ることにした。
「俺は、お前なんか認めねぇからなァア!」
今日も今日とて、うちの病んでる狼は愛らしい。
4月25日土曜日晴れ。
何かよくわかんねー女に拾われた。昨日唐突に生きるのが面倒臭くなって、とりあえず売られた喧嘩に無抵抗でやられてみることにした。相手が悪かったのか死ぬ気配すらなかった。つーかむしろ睡眠不足で眠気半端なかった。酔ったサラリーマンのおっさんの如く道端で寝た。いつの間にか昼になってたらしく、そのよくわかんねー女に腹パンされて目が覚めた。
何なの。この女殺していいの?学校も春から数回しか行ってねぇし、昨日はまともにメシも食ってない。腹が減ったと女に言えば、ポケットから出したっぽいビスケットとマシュマロを掌に乗せられた。舐めてんのか、こんなんじゃ腹はふくれねーよ。砂糖の塊とか吐き気がする。つーか俺の名前「クロ」じゃねーし。はぁ?知ってる?髪の毛が黒いから「クロ」だ?安直にもほどがある。この女絶対俺より頭可笑しいわ。
そう、そうだこの女殺してくっちまえば腹も満たされる。そう思って肩に食いついたら、女は何を思ったのか俺を抱き締めた。なに、抱き締めるって。こんなのされたの初めてだわ。何か暖かい。あれ、ちょっと満たされてる。オイオイオイ、それこそふざけんなだろ。俺、遂に頭の回路全部イッちゃったんじゃないの。そんな自分が信じられず、本気で慌ててたら女が言った。
「血濡れの生肉は無理だけど、生肉を加工したハンバーグならあるよ。うちにおいで」
ばっかじゃねーの。何言ってんのこの女。
「クロ、お前は今日からうちの子よ。安心してご飯食べに来なさい」
「…俺、野菜嫌いなんだけど」
何でだろう。いつの間にかこの女の手を取っていた。
この日、一人だった俺に思考回路がずれている飼い主が出来た。