最小兼美
事件はあっけなく日常を飲み込んだ。
真弘の常識がひっくり返されて完全崩壊したあの日から十日。二度ほど部室城で異臭騒ぎがあったことを除けば、至って平凡な日常だった。その異臭騒ぎというのも、先日の召喚実験を改造した天王寺による、異世界の生物が原因なのだが、そのことはさておく。というか、その程度なら平凡な日常だと思えるようになっていた。
つまるところ『満貫寺高校における平凡』というものに真弘も慣れ始めていたのだ。
程よく肩の力も抜け、授業もそこそこに聞き流すようになっていた真弘は、ぼんやりと春の陽気の中を漂う雲を、見るともなく眺めていた。
というのは大嘘で、その思考の中では常に女のことを考えていた。
昼休みを控えた四時間目の体育の待ち時間など退屈以外のなんでもないくせに、ちょっとでもしゃべろうものなら、体育教師による懲罰が待っている。
というわけで、この十日ほどでチェックした数名の女子生徒を頭の中に並べて、何とかしてお近づきになれないものかとひたすらに無駄な思考を繰り返していた。若気が至っている。
そんな若気の至りは、自分の体が改造を施されたなどという嘘とも本当ともつかない話題を、半ばほど頭からは消し去っていた。
そんなことだから、
「おーい、帝塚山!」
自分の順番が来たことにも気付かなかった。
「は、お、あい!」
何とも間抜けな返事をしながら慌ててスタートラインに並ぶ。背後からは宗司の「女子のことばっか考えてるからさ」という冗談めいた冷やかしが飛んでくる。当たっているのが凄まじく悔しい。
「おんゆあまーく、せっとぉ!」
完璧に日本語べたべたの発音で体育教師が叫び、スターターピストルを掲げる。
パァン
乾いた火薬の音が春の空に響き渡る。思いの外大きな音に、敷地を囲むフェンスにとまっていた鳩が飛び立つのが見えた。ゆっくりと、羽の一枚一枚の動きまで、鮮明に。
次いでその目で見たのは、ひっくり返る空と地面。撒き上がる砂利。こちらを見つめる、八十個近い見開かれた目玉。
足元にあっても空は綺麗だ、なんて呑気なことを考えるあたり、冷静さは残っている。ただ、それとこれとは別問題、と言わんばかりに世界は大回転し、気がついた時には目の前に自分の足元があり、白線があり、
「あれ?」
どごんっ、という交通事故クラスの音がした。後に聞いたところによると、グラウンドの反対側でバレーボールの授業をしていた女子にも聞こえていたらしい。とは、瞳が「誰か死んだと思った」という笑えない冗談とともに語った内容だ。
死人こそ出なかったものの、男子の体育はその時点で中断。全力で顔面から地面に突っ込んだ真弘を保健室に運ぶために、担架まで持ち出されたというのだから大騒動だ。しっかりと白目をむいて気絶している真弘の顔は、どこか間抜けだった。
幸いだったのは、ものすごい勢いで顔面から地面にキスしに行ったというド派手なエフェクトのおかげで、その原因の方に誰も気がつかなかったことだ。
凄まじい勢いで蹴られた地面は、わずかにえぐれていた。蹴る力に対して地盤が弱すぎたたのが原因だが、通常なら重機でも使わない限り掘り起こせないような硬さだ。
「な、なんだ帝塚山ー。派手な名前の割に走るのもできんとは、運動音痴だな。ほほほ、ほら、ほ、保健室で休んで来い、な、鼻血も出てるし。まったく最近のゆとり世代は」
引きつった笑みを何とか作りながら、それでも虚勢を張る体育教師、金谷の顔には動揺の色がありありと浮かんでいた。自分の授業中に事故が起きたらどうしよう、そんな保身にまみれた思考が垂れ流しになっている。ガタイの割に肝の小さい奴、それが金谷に対する生徒たちの率直な感想だったが、今はそれどころではない。
「俺が行くさ。あともう一人、誰かー」
率先して真弘を担ぐ役を買って出てたのは宗司だが、もう一人がなかなか決まらないのは、ひとえに金谷の人徳のなさのせいだ。だれも、こんな男に媚びを打っているなんて思われたくはない。
「お、おう。こういうのを率先してやるってのは、評価高いぞ」
震える声音で、あくまでも偉そうな態度をとり続ける金谷を早々に無視して、宗司は真弘を保健室に運びこんだ。結局もう一人は、背がでかいからという理由で体育委員に任命された守山だったが、「今日はもう金谷の顔見たくねー」とだけ言い置いて、早々に保健室を後にした。
というわけで真弘は今、真っ白なシーツに体を横たえて、揺れる布製の仕切りを見つめている。その向こう側の、春独特の柔らかい日差しがわかる程の、薄いカーテンが微かな風に揺れる
時計を見ると、四時間目も終わりに近い。
ゆっくりと覚醒する意識は、昼寝から覚めるときのように心地よい。
(こうやって、もう少し……って思いながらまどろむのって、気持ちいい……)
とろけた意識でそんなことを思いながら、夢と現の境界線を楽しんでいると、不意に頬を風が撫でた。
さわやかな風に、普段なら寝起きが悪いはずの真弘も気持ちよく目を覚ます。
(こんなんなら毎朝でもいいのにな)
なんて思いながらゆっくりと瞼を開ける。
風の心地よさに頬を緩めていると、その風がふいに目の前のカーテンを持ちあげる。
間仕切りでもあるカーテンがふわりと持ちあがり、隣のベッドが現れ、そこに横たわる生徒と目があった。
女子生徒だった。
青い瞳は磨き上げられた宝石のようで、真弘は夏の青空を押し込めたようだと思った。
見る者を吸い込むような美しさ。
それがじっと、こちらを見ている。首筋を流れる髪は少し赤みを帯びたブロンドで、染めて作り出せる鮮やかさではないように思えた。事実、少女のそれは数代前の母方にいた北欧系の血によるものなのだが、少女を構成する要素の一つ一つに目を奪われた。
そんな、女性なら誰もが望んで羨望の眼差しを向けるふわふわの髪が、風に揺れる。
「こ、こんにち、は」
恐る恐るといった感じで、少女が口を開く。消え入りそうな小さな声だが、静かな保健室にはそれで十分だった。透き通った、よく通る声だった。
「は、あ……はい」
あいさつに「はい」で返す馬鹿がどの世界にいる、と思うかもしれないが、その時の真弘にはこれが精いっぱいだった。それほどに少女は、綺麗だった。
人形のような、そんな言葉がしっくりくるような外見は、幼い顔立ちから来るものだ。
「はなぢ」
少女の口がその一言だけを呟いたが、最初は何のことかわからずに、横になたまま首をひねる。そこでようやく、口元を伝う生暖かさに気がついた。
「あ」
指先で拭ってみると、鮮やかな赤が指の腹に乗っていた。
「やべ、ぽっちが取れたんかな? あーあー」
見ると、枕のすぐ隣には血を吸ってちょっとスプラッタになったティッシュの塊が転がっていた。さすがにそれを拾い上げて装着する気にはなれず、まくら元に置かれたボックスティッシュのを一枚拝借することにした。
「ふぉれでらいじょうぶ」
死にたくなった。サイズが大きすぎたようで、思い切り鼻声になってしまった。
鼻にポッチを詰めている時点でカッコよさなんてゼロなのに、なけなしのプライドにすがった結果がこれである。見事なまでの自爆、撃沈のフルコースだ。
恥ずかしさにもだえ死にそうになり、いっそ背後の窓から飛び出して逃げてやろうかと思っていると、少女がいきなり枕に顔をうずめる。
「くっ、くく」
シーツ越しでもわかるほどの小さな肩が小刻みに震え、ついには枕をぎゅっと握りしめ、それでも我慢しきれずに、
「ぷっ、くすっ、ふふ、ふふふふ、あはははは」
声に出して笑い始める。しかも、なまじっか最初を我慢していたせいで、どうやら自分でも止められないらしい。やばいんじゃないかという勢いでが真っ赤になっていく。
呆然と見つめている真弘が、そろそろ止めるべきかと心配になったところでようやく、ゲホゲホとむせながら笑いが収まり始めた少女は、涙まで浮かべている。
「怪我を、されたのです?」
唐突な質問だったので、うまく言葉が見つけられず、張り子の虎のようにかっくんかっくん首を動かすのがやっとだった。
「そうなのですか。体育です?」
少々怪しい日本語文法だったが、語尾が上がっているのでおそらく疑問文だろうと推測して、もう一度張子の虎になる。かっくんかっくん。
「面白い人ですね。お名前は?」
かっくんかっくん。
「いえ、もうイエスのーの疑問文ではないです。ほんと、面白い人です」
またくすくすと笑う。今度のは口元を手で隠しての少々上品な笑い方だったが、それもまた絵になっていて、お姫様を見ている気分になった。
「て、一年の、帝塚山、真弘、です」
「だったら同い年です。わたしも一年生で、鹿王紅葉というですよ。よろしくです」
幼い顔立ちと、それに見合ったたどたどしい声音だが、仕草は少し大人びていて妙にそれが似合っている。
不思議な雰囲気だった。
色んな意味で同い年には見えないが、先ほど自分で「同い年」と言っていたので、それは信じることにした。
「こちらこそ、よろしく。そっちも怪我? それとも」
「病気?」と聞こうとして、初対面で聞くにしては地雷要素が強すぎることにギリギリで気がついて、とっさに方向修正。
「さぼり?」
誤魔化せただろうかと、ポーカーフェイスを装いながら、胸の中では心臓が爆破三秒前だ。これで訝しがるような眼をされたり、あまつさえ悲しい眼なんてされた日には、残された選択肢は、本当に『背後の窓から飛び出す』の一択になってしまう。
緊張の一瞬が過ぎて、二瞬が過ぎて、もう駄目だ。脱出確定を覚悟したところで、
「ほ、保健室でさぼってみる、というのが、夢だったですよ」
先ほどの、笑いの時とは違う理由で耳まで真っ赤にした紅葉は改めて、自らの恥ずかしい告白に打ちのめされてもだえている。このまま放っておくと、世界初で初めての、死因が羞恥心という死者を看取ってしまいそうになったので、
「お、俺も、ちょっと憧れかも。中学ん時の保健のば……先生がやたら女子ひいきで、男なんか骨折してもマキロンだけで返されたって伝説があるぐらいだったんだよ」
うっかり保健の「ばばあ」と言いそうになったのを、これも慌てて軌道修正。見るからにそういう汚い言葉に免疫がなさそうだったからだが、半分口から出てから気づくあたり、真弘らしい。
「そんな、マキロンで骨折は」
「都市伝説っていうか、あいつならやりかねないって感じだからたぶん作り話だけど、でも嘘じゃなくてもおかしくなさそうなばばあだったしな。あ、保健の先生だったし」
今度は言ってから気がついた。慣れないことはするものではない、ということだ。
「興味津津なのですよ」
ベッドから落っこちそうな勢いで身を乗り出した紅葉は、ただでさえ宝石のような目をキラキラ輝かせて、話の続きを催促している。
(やばい……無茶苦茶かわいい。ここにきてようやく俺の高校生活スタート?)
愚かな妄想の花を咲かせつつも、必死になって平静を装って口を動かす。
「そんなに? こんなんどこでも普通だと」
「うちはそういうことはなかったのですよ。中学も高校も、専門の保健医を常駐させているので……そういう怠慢はなかったですね」
『怠慢』とはまた大仰な物言いだと思ったが、ここが私立高校であることと紅葉の振る舞いや口ぶりからそこそこ、いや、もしかしたらかなり育ちのいいお嬢さんか何かなのだろうとあたりをつけておく。
「そ、そうか。他、他、何かあったか」
そこでタイムリミット。保健室であっても変わることのないボリュームでチャイムが鳴り響き、見えてもいないのに学校中の空気が弛緩するのを感じたように錯覚する。
「お昼、なのですよ」
「だな」
チャイムが鳴り終わるのをひとしきり待ってから再び向きあうと、今度は唐突に恥ずかしさがこみ上げてくる。。
こんなうれしはずかしドキドキな時間が、入学二週間にして訪れるなどとは想定外にもほどがあったが、この甘酸っぱい時間を限界まで堪能していたいのも本音だ。もしこの時間が永遠に続くのなら、悪魔に寿命のラスト三割までなら食わせてやる覚悟が、真弘の中にはできつつあるほどだ。
(これが、青春ってやつか)
が、それもそこまでだった。
目の前の紅葉が、気の毒なほどに顔を真っ赤にして今にもゆで上がりそうだ。そのまま放っておいたら本当に湯気の一つも上がりそうだったので、慌てて会話のとっかかりを探す。青春満喫ボーナスタイム、終了だ。
「あ、えーっと、お昼、だな」
あろうことか、まさかのオウム返し。自分の無能っぷりに絶望しながら、先ほどよりも重くなった沈黙に身を沈めていると、深海にいるような気分になってくる。
どうにも耐えがたい空気が保健室に充満し、窓からあふれ出して世界中に広がっていくというあほな妄想をし始めたところで、現実の方が真弘に襲いかかった。
「また遅刻!」
よく通る、聞きおぼえがあるような気がする声が、窓から飛び込んできた。
もちろん、このチャンスを逃す手はない。
「あれ、生徒会長の声だよな」
誰に言うでもなく口にして、実に白々しい動作で立ち上がる。まだ顔に違和感があるが、痛みというほどでもなかったし、今はあの恥ずかしい空気から逃げることだけを考えたい。
吹き込む柔らかな風を胸元に浴びると、それだけで清々しい気分になるが、そのせいでうっかり忘れていた。この学校では、その行動が確実に死亡フラグだということを。
「今日という今日は、しっかり反省してもらうからな!」
職員室や各種特殊教室が収められている本館の中でも、エントランスのすぐそばに配置された保健室からは、正門やそのすぐ近くの職員駐車場がよく見えた。
そのちょうど真ん中、正門と下足スペースの間を遮るようにして仁王立ちしているのは、カタログ見本さながらにびしっと着込んだセーラー服。トレードマークのツインテールが揺れている。
凛々しい口元が、他の人物ではありえないことを如実に物語っている。
修学院小豆、その人だ。
そして、その向かいのバツが悪そうな猫背はこれまた期待を裏切らない遅刻王、住吉。
「えーとですね、少々事情がありましてですね」
「言ってみろ」
「その、来る途中で銀行強盗に出くわしたのですよ。そしてまた運悪く人質ということで中に連れ込まれてしまいまして」
(うそくせぇ!)
「へぇ、それでどうなったんだ?」
「他にも数名の銀行員さんとしばらくは人質にされていたのですが、このままでは遅刻どころか欠席になってしまうと判断しまして」
「それはいい判断だね。僕でも同じことを思っただろうね」
(会話が既におかしい!)
「そこで、せめて午後の授業に間に合うように、と力づくで脱出してきたしだいです」
「大変だったね」
(信じるのか?)
「でも、それはそれ。遅刻は遅刻だよ。さあ、今日こそ制裁を受けてもらうよ!」
「はぁ、やっぱりだめですか。こんなことなら倒した強盗を縛るのは銀行員さんにお任せすればよかったです。それがなければ、四時間目には間に合いましたのに」
「さあ、大人しくこの僕の正義の鉄拳を……だれ?」
勢いよく拳を天に向かって突き出した小豆が、不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。
小豆にしてみれば、一番の見せどころで出鼻をくじかれたも同然なので、何だかもやもやした気分になる。こういう中途半端が一番嫌いなのに。
「さあ、誰でしょう?」
気がつけば、二人の周囲を十名以上の人影がぐるりと取り囲んでいた。
とにかく、その恰好が異常だった。
「全身タイツ……って」
そこにいる十名ほどの連中は、全員が例外なく同じ黒の全身タイツを身にまとっていた。頭のてっぺんまですっぽり隠すタイプのやつだ。胸元には模様もあるし、ベルトやブーツを装着もしているのだが、いかんせん全身タイツである。怪しむなという方が無理というものだ。
実際には科学技術の粋を結集したオーバーテクノロジーで、驚異的な耐衝撃性と柔軟性を兼ね備えた上に、短時間なら宇宙服としても使用可能という夢のスーツなのだが、知らないものにすればただのタイツだ。
しかも、全員が仮面をつけているのだが、真弘はその仮面に見覚えがあった。
自分を改造したと告げた、あのメイドが付けていたのとほぼ同じデザインの仮面。
(悪の秘密組織って、マジなのかよ?)
「お前の知り合いか?」
じろりと、突然現れた全身タイツたちを一瞥した小豆は、それでも一郎をロックオンしたままだ。
「いえ。タイツを着る趣味の知り合いはいませんが……もしかして、今朝の強盗さんの仲間、とかでしょうか?」
「わかった!」
動く様子のない全身タイツ軍団と対峙しながら、小豆は唐突に声をあげ、ぱっと表情を明るくする。何かがわかるような要素もなかったはずなのだが、そんなことを思っている真弘の目の前で、小豆は「びしっ!」と音がするほどの勢いで指を突き立てる。
「貴様ら、悪だな!」
自信満々。尊大不遜。傲岸不遜。そんな四字熟語の挿絵に使われそうな、半ば独善の匂いすらする宣言。
さすがのタイツ軍団も動揺を隠せないが、一番驚いたのは傍で見ていた真弘だ。
「何だその解釈は!」
思わず声に出して突っ込んでいた。
「おぉ! お前はいつぞやの根性無し。なんだ鼻にティッシュ詰めて」
「ティッシュはかんけーねー! それより何だよ、『悪』ってのは! ガキか!」
「何を言う。全身タイツで、正義である僕を取り囲む。こんなことをするのは悪者だけと相場は決まっているじゃないか。だから」
「正義だぁ?」
どんな相場だと、そんな相場は早く世界のマーケットから締め出すべきだと思ったかどうかはわからないが、全身タイツ軍団が動いた。
見事な連携を感じさせる無駄のない動きで、撹乱と間合いを詰めるのを同時にやってのける。格闘技に疎い真弘でも、これがよく訓練された動きであることはわかった。
ただ、相手が悪かった。