最不運人生
昼間であれば絶えることのない喧騒がそこにない。それだけでも異質に思えるのに、それだけではない、どこか静謐ともいえる雰囲気に否応なく緊張してしまう。
「っつか、こえぇ」
中庭の草を踏む自分の足音でさえ異世界の音に聞こえるのは、臆病だからではない。と、ヘタレの真弘は自分に言い聞かせながら歩く。思ったよりもずっと静かだ。
「もっと部活の音とか、話し声ぐらいあると思ったのにな」
窓から漏れている消火栓や非常口を示す赤や緑の電灯ですら、今の真弘にはお化け屋敷にありがちな演出のように映っている。言うまでもなく、効果は覿面だ。
昼間を動とするなら、夜の学校はまさに静のそれだ。常に対流する昼間の空気に対して、今この場所には沈殿し、堆積するような静けさがある。
遠くの国道を走る車を背中に聞きながら、ようやく部室城にたどり着いた真弘が中に足を踏み入れると、そこにはほんの少しだが昼間の延長のような空気が流れていた。
「にしても」
廊下を覗き込んだ真弘は顔をしかめ、言葉を選ぶようにもう一度視界を一巡させる。
「きったねぇな」
雑多。そんな言葉ではとてもではないが形容しきれないほどに、中はカオスに満ちた空間だった。造りこそ通常の教室がある本館と変わりはないはずなのだが、同じに見えるのは窓の形ぐらいのものだ。
一体何に使うのか、冷蔵庫やら自転車のフレーム、果てはガソリン式のレシプロエンジンまでが所狭しと行く手を塞いでいる。とてもではないが、高校の一施設とは思えない。物陰で百鬼夜行が日課になっていてもおかしくない。
足元のゴミともつかない何かを蹴散らしながら、軋む廊下を恐る恐る歩いてゆく。
「あんま怖くないのは、たぶん汚ったないからだな」
まさにその通りで、整然とした廊下であればそれなりの雰囲気もあるのに、両サイドを埋め尽くすゴミの山はコメディくさくて仕方がない。というか、何で高校の部室に夜の街のようなネオン看板があって、しかも光っているのか。甚だ疑問である。怖いわけがない。
「やっぱおっかしいわ、この学校」
明りが灯っていたのは二階以上だったのを思い出して、階段に足をかける。
一体いつから掃除されていないのか想像もつかないほどに汚れ放題の階段には、いくつもの足跡が、あるものはくっきりと、あるものはその上に堆積した新しい埃のせいでうっすらと残されている。理科の地層の授業にでも使えそうだと苦笑しながら、真弘は一番新しい足跡を刻む。そこを狙ったように静寂を引き裂いたのは、
きしゃああああああああ
聞き覚えのある、恐怖。
子供のように微笑んでいた真弘の心臓を思い切り鷲掴みする。引きつった口元が痙攣するのが不快だ。
「これって、あれ、だよな」
発言の中に、こそあど言葉と呼ばれる指示語が増えるとおっさんと言われているが、そんなことを気にしている場合ではない。今はとにかく、思考を最短で巡らせる必要がある。
その結果掘り起こされたのは、数時間前の記憶。
体育館の舞台上に現れた、謎の存在。宗司は魔族だなんて言っていたが、正体は何であれあんなものが人類の味方のはずがない。
「うっそだろ」
妙に視界が揺れるなと思ったが、膝ががくがくと笑っているせいだと気がついた時には決心がついていた。
逃げよう。
回れ右をして、今し方自分がつけたばかりの足跡を逆向きにたどって、来た道を寸分たがわずに辿って母親に牛乳を届けるために自転車で夜の道を爆走して
「…………」
人の声がした。気がした。
足が止まる。
心臓は破裂しそうなほどに拍動しているし、慣れないアドレナリンの放出に手は小刻みに震えっぱなしだ。体が驚くほど暑いのに脳は妙に冷静。奇妙な感覚だった。
そんな、鋭敏になった感覚で一度だけ耳を澄ましてみると、確かに人の声がする。
「……に……きましたわ。……で……います。きゃぁ!」
微かながらも、声の中には悲鳴のようなものも混じっている。その合間にも、あの不愉快な生き物と思しき怪音は廊下にこだまし、悪夢の中のような残響を残していく。
逃げるべきだ。
あんな化け物は人間の手に負えるはずもない。魔法部とやらが何かをしでかして、またあれが出てきたのなら、自分には関係がない。全くない。ましてやそれで誰かが巻き込まれたとしても、
「あー! もう! なんだよこの感じ、くそっ! くそっ!」
二度目の回れ右で三百六十度回った真弘が見たのは、月明りの差し込む踊り場の窓。
声が聞こえてくるのは上からで、どうやら移動しているらしいことも分かった。ばたばたという足音も響いている。
逃げるべきなのだ。見上げたところで何かをしようなんて思っていないのは、自分が一番よくわかっている。関わるだけ損なことがあるのは身を持って経験済みだ。むしろ、そんなことだらけなのだ。
今朝だって、族から少女を救おうなんて思わなくても、あの生徒会長だったので問題はなかったのだ。だから今度も同じようなもんだ。何せ魔女王さまらしい。
今朝の何もできなかった自分に、何もしなかった自分に、精いっぱい言い訳を与える。
「何でだよ、面白くねぇな。いちんちに、二回も」
正義感、なんて立派なものを持ち合わせているとは思わない。持っているはずがない。そんなものがいかに無駄であるかを悟り、自分の手で引き裂いて捨ててきたのだから。
むしろこれは、下品な野次馬根性やおせっかいの延長線でしかない。自分にそう言い聞かせてと真弘の足は階段を駆け上がっていた。
二階に踏み込んで左右を確認する。何もいない。声はまだ上の階から聞こえているが、先ほどよりはずっとはっきりと聞こえている。そう遠くはなさそうだ。
埃を巻き上げ、階段を真ん中あたりまで占拠する角材を飛び越え、何故かこんなところに転がっている、ベコベコにへこんで歪んだ金属バットを見つけた時には、考える前に手にしていた。明らかに野球以外の目的で使ったと思しき凹みが、何故か心強い。
踊り場で転びそうになりながら見上げた三階に、影が見えた。
非常灯に照らされた薄ぼんやりとした影が、ゆらりと動いている。
息をのみ、唾を飲もうとして口がカラカラなことに気づく。
「きゃぁ! なんでございますの、もう!」
女の声が、最後のスイッチを入れた。
「おらぁぁぁぁ!」
一段飛ばしに駆け上がり、金属バットを振り上て飛び出したのは、最悪のタイミング。
目の前を、何やらフリフリヒラヒラの女が猛スピードで横切る。目があったが、次の瞬間に女が視線を動かしたので、真弘がそれにならって右を向くと、
きしゃぁぁぁぁぁあああああああああああ
振りあげられている右手。月明りに鈍く輝くのは、刃物にしか見えないような極太の爪。そしてヌラヌラと唾液に濡れた、牙と思われる何かが本能的な嫌悪感を直撃した。
ただ、そんな感情もすぐに消え失せる。
爪が振り下ろされるのが見えた。
背後から絶叫に近い声が聞こえた。やけに通りのよい、柔らかな声だったのはわかったが、残念なことにその瞬間は言っている内容を理解できなかった。
でたらめに金属バットを振り抜いてみたら、大根のように輪切りになって宙を舞った。
バットを握った、左腕ごと。
恐ろしくスローモーションになった世界で、バットと腕を輪切りにした爪がゆっくりと近づいてくる。ここに至ってようやく、背後から掛けられた声の意味を理解して、納得する。
(『逃げろ』って、そりゃそう言うわな、こんな化けもん。ってか、遅いし)
ゆっくりと迫りくる爪が、前髪を掠め、鼻っ面を切り、飛び散った赤い雫に目を奪われている間に、胸に突き刺さった。
(あ、やばい)
そう思った時には、体はコマのように回りながら宙を舞っていた。
冷たいリノリウムの床に顔から落ちた時には、すでに意識は大半が闇に包まれていた。
(死ぬのか?)
そう思いながら動かした目玉がとらえたのは、どういうわけか悶え苦しみながら、溶けるようにして崩れ落ちた化け物の姿だった。
「なんだ、俺、やっぱいらなかったんじゃん……あほ、らし」
それが声になったかどうか、真弘にはもう判別できなかった。
(腕、くっつくのかな?)
他人事のようにそう思ったところで、意識が途切れる。