最悪組合せ
怒涛のごとくすぎさった高校生活初日。時計の針が九時に差し掛かったあたりで、今日がまだ三時間も残っていることに、真弘はある種の感動を覚えていた。
あまりに濃密過ぎた一日は、まだ今日であることが信じられないほどだ。
「つうか、なんでこの時間にわざわざ牛乳の買い忘れ思い出すんだよ」
母親から問答無用で頼まれたパシリだが、断れば無慈悲な制裁が待っているので首はたてにしか動かない。ヒエラルキーの底辺にいるものの悲しさを、ただただ噛みしめる。
街灯の少ない田舎の道、ついでとばかりに夜のサイクリングをすることにした真弘はそんなことをこぼしてみる。
今朝の通学の時にも通った田舎臭さ満載の県道を、のんびりとしたペースで駆け抜ける。朝の事故の痕跡だろうか、痛々しくひん曲がった『動物注意』の交通標識を横目に見ながら。
いつもなら近所の公園でもぐるりと回って帰宅するはずなのに、なぜかこの日の真弘は朝と同じコース、学校へと向かう道を走っていた。
原因は、今日の出会いのせいなのは間違いなさそうだ。
「なんなんだろな、あれ……」
生きてきた中でもトップクラスの美少女と出会ったと思えば、片や破壊王、片や魔女王ときた。しかもどちらも折り紙つきのびっくり人間というのだから、良くも悪くも興奮を抑えきれない。今もアドレナリンは絶賛分泌中だ。ついでに言うなら思春期ホルモンも。そんなものがあるのかどうかは別として。
何に期待するのかは別として、初めてサファリパークで生の肉食動物を見た子供のテンションが上がるのと同じ原理だ。
もちろん、そんな好奇心にも似た気持ちが、後の後悔の種になるなどとは想像だにしないわけだが。
『あくまでも偶然』を装うために二度ほど曲がる必要のない角を曲がって遠回りしている。誰も見ちゃいないのに、ご苦労なことである。
「くそぉ、自販機撤去されてたせいでコーヒー買えなかったし。今朝はあったのに」
脳内で描いた学校までのルートには、自販機で買いものというのが含まれていたのだが、どういうわけかつい今朝まであったはずのそれは撤去されており、土台と思しきコンクリートブロックだけが街灯に照らされていた。
前かごに牛乳だけを積んだ自転車が正門前に到着したのは、午後十時ちょうど。
興奮した面持ちの真弘が見つめる前で、夜の校舎はいくらかの明かりを外にこぼしながらも静かにたたずんでいる。昼間の喧騒がまるで想像もできない、静謐な場所。
墓場のようだという喩も脳裏をよぎったが、頭を振ってかき消す。
学校と死のイメージの直結に、虫唾が走る。
「まだ灯り点いてんのな。しかも、別館じゃないのか?」
薄っすらと残る日中の記憶を掘り返すと、教室で配られた校内地図の存在にたどり着く。田舎という立地条件を最大限に生かした、無駄に広い敷地の中には普通の公立高校や、私立でも都会の学校にはないような施設がそこかしこに点在していた。そのうちの一つが、校舎一つが丸々部室のために提供されている別館。
『部室城』の俗称の方が生徒に浸透している、満貫寺屈指の魔窟とのことだ。
真弘のいい加減な記憶に間違いがなければ、いくつかの窓に明かりがともっているのはその『部室城』のはずだ。
「まだ部活やってるやつがいるのかよ。まじでか?」
宗司の説明によると、「高校の方は中学よりもさらに部活の自由度が上がってて、そこに命かけて人生棒に振るやつまでいるって話さ。住んでるやつまでいるって話さ」ということだ。
「まさかな」
しかし興味は尽きない。
中でもその時の真弘の頭の中を埋めつくしたのは他でもない、オリエンテーションのトリを務めた超絶ナイスバディの美少女。思い出すのは豊かすぎるほどにたわわに実った、二つの水蜜桃。
何故か想像の中では記憶通りの制服ではなく、布地の極端に少ない水着姿で両腕に挟み込んだ谷間がグランドキャニオンのごとく
「違う違う違う! 何やってんだ、違う、違うしっ! あっぶねぇ、俺」
存在しない誰かに向かって必死に弁解しながら頭をぶんぶんふる姿は、もはや変質者以外の何物でもない。
おかげで気がついた。気が付いて、心臓が止まるかと思った。
途方に暮れたように正門前に立ち尽くす、一人の生徒。生徒だとわかったのは簡単で、満貫寺の制服を着ていたからだ。傍らの自転車はママチャリではなく、新聞配達や派出所のお巡りさんが使うような、とにかく頑丈そうな一品だった。
少なくとも、真弘がここに来た時にはいなかったはずなのだが、いつ現れたのかさえ定かではない。まるで幽霊のように何の前触れもなく現れた姿は、幽霊さながらに呆然と校舎を見上げている。そして、溜息。
「はぁ……間に合わなかった。ま、今日のうちに来られたからよしとしますか」
意味不明な言動を残した男子生徒は、眠そうな目をそのままにくるりと踵を返して、顔色一つ変えずに歩きだす。途方に暮れていたように見えた表情は、どうやらそういう顔立ちのようだが、それにしてもえらくとぼけた顔立ちである。目なんて、寝起きとしか思えないほどの糸目で垂れ目だ。
「また、遅刻記録を伸ばしてしまった」
謎の言動その二を残した男子生徒は、自転車を押しながらその場を立ち去ってしまう。
しばらくは特に何をするでもなく、ただただ遠ざかっていく自転車の反射板だけを見ていたが、不意に我に返った頃にはそれすらも見えなくなっていた。
時計を見て驚いたのだが、自分は五分ほどもボケっと突っ立っていたらしい。
「なんだありゃ? 遅刻って、このがっこは定時制とかもあんのか?」
とかなんとか、当たり前のことを考えて再び見つめた部室城の明かりに、消えかかっていた興味の炎が先ほどよりも強く燃え上がってしまう。さながら、消えかけの線香花火が燃え上がるように。
「例え悪いな。まあでもいいや、せっかく来たんだしな。高校生なら夜遊びや悪さの一つぐらいは……ちょっとぐらい、なら」
気づけば手は既にちょっとひしゃげた正門にかけられ、よじ登り始めていた。
意気揚々と、コントに出てくるコソ泥のように駆け抜ける姿など、実に楽しそうだ。
そんなだから、校舎の中からその様子を見つめる視線に、真弘が気づくはずもない。
この時の真弘の中にはあったのは、どこかに忘れてきてしまった、高校生らしい期待感だったのかもしれない。本人にその自覚がなかったとしても。
「くどいな、君も。私は自らの研究を他人のために使うつもりはないよ」
そろそろ黄ばみ始めた蛍光灯に照らされているのは、足の踏み場もないほどに散らかりきった、おびただしい数の本。この部屋で床が見えているのは、入口と先ほど口を開いた少女がいる場所とを、飛び石のように結ぶ数か所だけだ。
見事に染められた金髪(もちろん校則違反)にモデル顔負けのボディを持つ、校内トップクラスの有名人。天王寺美緒。それがこの部屋の主の名前だ。
「善悪にかかわらず、ね」
扉の上にかけられた『魔法部』のプレートはまだ真新しく、この部活動が発足間もないことは明らかなのに、室内の惨状は戦前から存在する古参のようだ。
そんな真新しいプレートの下には一人の女子生徒がいる。
「お嬢様のお申し出をここまでむげに断るとは、いい度胸でございますね。士官待遇とまで申しておりますのに」
大人びた口調に落ち着いた声音。が、はっきりそれとわかるほどの刃がその中に含まれているのに、美緒は少々含み笑いを漏らしてしまう。
敵意という名前の刃。
「株式会社パラダイス。まさか実在していたとはね、灯台下暗しだよ。」
「その存在をご存知とは、あなたもさすがといったところでございますね」
ひらりと、フリルのついたスカートが風を孕んで揺れる。よく躾けられているようで、細かな動きの一つ一つが気品を感じさせる。纏っている衣装に負けず劣らず。
「なあに、全てはついでだよ、ついで。興味がわくじゃないか、この世界に本当に『悪の組織』なんてものがあると言われれば。で、メイド君が構成員ということはやはり元締めは彼女だね?」
外見からは想像できない男っぽい物言いだが、凛とした態度で言うものだから妙に似合っている。それが目の前にいるヒラヒラフリルの、メイド服を着た少女とのギャップで際立っている。履いている学校指定スリッパは二人とも真新しい臙脂なので、同じ一年生だ。
「お嬢様の慧眼には感服仕切りでございますが、少々危険に過ぎるようでございますね」
メイド服を着た少女、雲雀谷華は静かに一歩を踏み出す。それまでの気品ある動作とは違う、緊張感を纏った動作。格闘技や軍隊を連想させる無駄のない動きだ。
「排除するのかい? 口外しない自信はあるんだがね」
「お約束でございましょう。鳴かぬなら殺してしまえ、でございます」
「こわいねぇ。さすがは悪の組織だ」
とてもそうは見えない不遜な笑みを浮かべながら、美緒は華の一挙手一投足を眺めている。まるで他人事のように、明らかに自分に攻撃を加えようとしている相手を。
「くたばりやがれ、でございます」
踏み抜くような勢いで床を蹴ったにもかかわらず、物音一つしない。ただ、勢いはやはり踏み抜く勢いそのままなので、一足飛びに教室を横切る軌道で華の体は飛び出し、
だんっ!
踏みとどまった。今度は音を立てて床を蹴りつけ、ロケットのような勢いを相殺する。
「おお、気づいたか。さすがに凄いねぇ。悪の秘密組織はだてじゃないようだ」
にやりと口の端をつり上げて、いやらしい笑みを浮かべる美緒。
「なんでございますの? これは?」
踏みとどまったことに理由などなかった。ただ、この期に及んで諦めとは違う余裕を持っている美緒の態度に、直感としか言いようのない何かを加味した結果、華は急ブレーキをかけた。
室内を警戒しつつも、手近に干されてあった雑巾を指の先にひっかけて部室の中に放り込む。と、バシッ! という音を立てて雑巾が弾き飛ばされる。夏のコンビニで、青い殺虫器に虫がヤられる時のような音が、深夜の校舎に響く。
「ありがとう、実験は成功だよ。これが結界というやつか。いやあ、失敗したらどうしようかと肝を冷やしたが杞憂だったようだ」
あらかじめ部室を囲むようにして四方に配置された、美緒特性の結界発生器が淡い光を放って力の発動を示している。
「まあ、小さい上に電池式で稼働時間もたかが知れているが、初稼働としては十分だ」
「脱帽でございますね。まさかこんなものまで実在している……いや、実在せしめたとは。やはり手に入れるべき逸材、ということでございましょうか」
「買い被りすぎだよ。さあ、諦めて帰りたまえ。それとも実験台として手伝ってもらえるのかな?」
魔女王。そんな二つ名がまさに相応しい、不遜なくせに蠱惑的な笑みでヒラヒラフリルのメイド服を見つめる。ただし、その瞳は一点の曇りもなくはっきり告げている。
『絶対に信念は曲げない』
と。
「負けでございます。今日のところは」
「連勝記録が伸びたよ」
誇らしげに胸を張ると、ただでさえボリューム満点の胸元が恐ろしく自己主張をする。
華も決して小さい方ではないどころか、どちらかというと大きい方だが、さすがに美緒と比べるとその差は歴然だ。腹の底に生まれた理不尽な敗北感を飲み下しながら、個人的な恨みを込めた視線を投げつける。さすがの結界もこれは通さざるを得ない。
「では、メイド君にはいいものを見せてあげよう」
「いいもの?」
そこはかとない不安感に、先ほどとは比べ物にならない勢いで華の本能が警鐘を鳴らしている。今すぐ飛び出して行って止めろ、と。ぶん殴ってでもとめろ、と。
「本邦初公開。正真正銘召喚魔法だ。可愛い妖精さんが」
一年生である華は、もちろん昼間の惨状を知っている。というか、修学院の反応があと数瞬遅ければあの場に飛び出したいたのは自分だったのだが、それとて何とかできたかと言われると自信はない。
「ちょっと、あなたそれは」
「いでよ、妖精さ」
きしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
「なぜあなたは同じミスを二度も繰り返すのです! もしかしてあほなのですか? 栄養が乳にばかり行くからこんな残念な脳になるのでございますよ!」
メイドの鏡とも言うべき実に丁寧な口調で吐き出す罵詈雑言の破壊力たるや、既に凶器の域だ。これが健全でM要素を持たない男子だったりした日には、ショックに打ちひしがれて数日は立ち直れないところだが、それでも堪えないのが美緒だ。「ありゃりゃ失敗」と頭を掻きながら笑うだけだ。
ちなみに、M要素を持つ男子なら、別の意味で昇天間違いなしだ。
「シリアスシーンを演じた後だから成功すると思ったが、やはりノリだけでは駄目か」
「当たり前でございます。脳味噌わいてるとしか思えませんわ。ただちに精神科か脳外科、願わくばその両方を受診なさってください!」
「いやはや、弱ったな。医者は嫌いなのだよ」
「くれたばれっ! でございます!」
実に丁寧な罵倒の間に実体化した、悪魔としか形容できない奇妙な生き物は不愉快そうに口を開いて翼を開いた。
きしゃぁぁぁぁぁぁ
耳障りな咆哮が、窓から差し込む月明かりの中をこだまする。