最強少女2
燃え盛るトラックにひしゃげた校門。茫然自失の境地に至った多数の全身タイツ。それだけでも常識外れに非常事態なのは明白だ。なのに、見上げた屋上では核爆発のような光がはじけ、町全体もぼんやりと夕焼けのような光に晒されている。
世界最後の日、そんなタイトルの映画ががあれば、まさにこの光景はその映画のクライマックスに相応しいだろう。そんなことを考えながら、真弘は正門をくぐる。
「もう、滅茶苦茶だな」
特に何をするでもなく立ちつくす全身タイツを尻目に、メイド服の言う通りにグラウンドの中央を目指した。どうやらそこが、全てが収束する、終幕の舞台らしい。
辛うじて活動できている数名の全身タイツのおかげで、トラックの炎上はほぼ収まり、屋上の輝きも先ほどの光の奔流を最後に現れてはいない。
ただ、町全体を包み込む夕暮れのような光は、依然として消える気配はない。
保健室のある本館の横を通り過ぎ、テニスコートを横目に中庭を抜けると、藤棚の向こうに校庭が現れる。鮮やかな薄紫に色付いた藤の花が、夕焼け色の夜空に映えて妙に幻想的な光景を作り出していた。
ただし、足元を見なければという条件付きで。
「うわ……こっちもこっちで地獄だな」
真弘が目を細めながら思い出したのは、数日前の放課後。屋上での地獄絵図だ。
そこにいる誰もがピクリとも動かず、あるものは倒れ伏し、あるものは藤棚に引っ掛かり、あるものはサッカーゴールやバスケのゴールに引っ掛かってぶら下がっている。
人間がぼろ布のように見える光景はデジャヴのようだ。
「デジャヴだったらどんだけよかったか、って話だよな」
それが証拠に、今回の地獄は規模がケタ違いだった。
屋上のときの被害者が十名程度だったのに比べ、今回はグラウンドの半分以上が全身タイツの黒で染まってしまうほどだ。人数にして、百や二百ではない。
「よく来たね、真弘」
そんな地獄の中心から、声がする。
聞き覚えのある、年の割には幼い外見によく似合う、少し高めの声。
「よく来たね、じゃねぇよ。何やってんだお前は」
できるだけ倒れているタイツを踏まないように気をつけながら、グラウンドに降り立った真弘は、探すまでもないこの地獄絵図の制作者に悪態をつく。
「あずきー、あほなことやってないで」
「言ったはずだよ、僕は正義ではなく、悪の道を歩む、って」
「あほぬかせ、お前が正義の味方やめられるわけねぇだろ」
返事のないグラウンドをじっと見つめる。
死屍累々と言うにふさわしいグラウンドの真ん中に、ぽつんと立ちつくすシルエット。小豆だというのは、遠目にもすぐにわかる。ツインテールに戻した髪が、まだ冷たい夜の風に揺れる。
「…………」
「え? なにー?」
何かを言ったのはわかったが、何と言ったのかまでは聞き取れない。そんな距離を、真弘はゆっくりと歩く。もうこの辺りまで来ると、倒れている人を踏まずに歩くのは不可能なので、足でどかしながら進まざるを得ない。
えらく手間のかかる作業だが、さすがに踏んでいくのは忍びない。
「ばか、って言ったんだよ」
ようやく表情の動きが見えるような距離にまで近づいたところで、小豆のそんな一言が聞こえる。ふてくされた、いつもの小豆らしからぬ声に、真弘も思わず声を荒らげる。
「はぁ? ばかって、そりゃこっちのセリフだろ。いきなり飛び出してったと思ったら、こんな大暴れして。子供じゃねぇんだから」
「もういい!」
「もういいって、よかねぇだろ。お前が正義の味方やんなきゃ誰が」
「僕は、真弘に正義の味方をやってもらいたかったんだ!」
そう言って、小豆はそっぽを向いてしまう。
「小豆、お前」
「もういいんだ! 真弘が僕を正義の味方にしようっていうなら、僕は悪の組織として真弘をやっつける」
「待て待て待て! 理屈がぶっ飛び過ぎててわからん」
思わず駆け寄ろうとして、足元に倒れている全身タイツをふんづけてしまう。「ぐぇ」という呻き声ともつかない音が漏れて、思わず足をあげる。一応、罪悪感はある。
「もう決めたんだ! 僕はこいつらの計画を成功させる。正義なんか要らないんだ!」
頑として言い張ったその言葉に、真弘の胸が苦しくなる。
「あほなこと言ってないで……」
さっさとこっちに来い。その言葉が、どうしても続けられなかった。
自分にその一言が言えるのか、言う資格があるのか。何もできず、ただ現実から逃げだして都合の悪いことに目を瞑っていただけの自分。この世界に正義なんてものはないと、自分の無力さに言い訳をした自分。そんな自分が、今の小豆に何が言えるのか。
「問答無用。まかり通るよ、真弘」
「え?」
一瞬の油断だった。
握り締められた拳に「あ、ちょっとやばいかも」と思った時には、小豆の体は真弘の視界から消え、数メートルの距離を一足飛びに縮めた。
鼻の頭がくっつきそうな距離に、見慣れた黒目がちな瞳があった。
瞬間、真弘は宙を舞った。
体はくの字に折れ、内臓が全部口からゲロになって溢れそうな苦痛が、背中まで突き抜けた。シャレにならないレベルの衝撃に意識は見事に分断され、墜落してしたたかに後頭部を打ちつけてようやく自分がブッ飛ばされたことに気がつく。
「ぶほぁっ。お、お、俺、今、死にかけ」
「言ったはずだよ、まかり通るって」
靴の底がとんでもない速度で顔面に迫ったのは間一髪でかわせたが、直後に耳元で響いたえげつない音に、心の底から恐怖した。
グラウンドがクレーター状に抉れる蹴りなんて、聞いたことがない。
「まて! 待ってくれ! 話そう、な? 話を」
「真弘と話すことなんてない。真弘はただ、正義の味方として僕を止めればいいだけだ」
「だから何でそこまでして」
『そこまでなのです!』
転げるようにして逃げる真弘に向かって小豆が飛び蹴りを放つ。完璧に直撃コースだったのが、唐突に響いた声に一時停止をかけられる。もちろん魔法少女でもロボットでもない小豆は空中で止まることなどできるはずもないので、真弘は飛び蹴りを食らったわけだが。
『アホ丸出しの争いをやめてこっちを見ろです』
拡声器越しの声は夜のグラウンドによく響いたが、それだけではない。よく通る声だ。
思わず耳を傾けさせられる声、とでも言うのだろうか。小豆の声が持つ問答無用の迫力とはまた違う種類の、求心力のようなものを感じる声だ。
『お前たちが何をどうあがこうと、この魔法陣は発動したのです』
ただし、その求心力がすぐに霧散したのは、悲しい事実だ。
拡声器を持ったイカ。うねうねと動く触手に、何故かライトアップされた三角形のシルエットが、せっかく作りだした緊張感を帳消しにする。背後からスポットライトを浴びせているのは、比較的軽症の全身タイツだが、それでもボロボロなのは一目瞭然だ。
「イカ、だな」
「イカ、だね」
飛び蹴りでボッキリ折れた腕の回復を待ちながら、真弘は小豆と顔を見合わせる。
そこには全く同じ種類の感情を湛えた瞳が二組、きょとんと向き合っている。
『ふんっ、恐怖におそれおののいたですね。この私、パラ・ダイス首領のシルエットに』
「残念ながらそれはないわ」
まだ曲がってはいけない方向に曲がっている腕をかばいながら、首を振って答える。
『まぁそうやって強がっていられるのも今のうちです』
「や、別に強がってるわけじゃ」
「ちゃーんす! これで僕が」
力強く、小豆が地面を蹴る。先ほどの数メートルの跳躍などとは比べ物にならない、フルパワーのダッシュだ。小豆の体はほとんど水平に滑空し、数十メートルはあろうかという距離をあっという間に埋めてしまう。
『へ、あ……え?』
地声が届く程度に近づいたというのに、あまりの出来事に思考がついて行かないイカは、目の前の小豆に向かって拡声器越しの声を投げかける。
『一体何を言って』
「このイカを倒せば、僕がこの組織のトップだよ!」
『な、ちょっ』
「というわけで、いくよ!」
『ま、待つです、待つですよ』
「観念してもらうよ。これで僕は名実ともに悪の」
『た、助けるですよ! 華! 誰でもいいですから』
イカの触手に小豆の手がかかり、口元が笑みとは言えない程度にわずかに歪む。
片や着ぐるみの中では、真っ青になった唇をわななかせ、奥歯をがちがちと鳴らす紅葉。小豆とは対照的な表情だが、表にそれが漏れることはない。イカの無表情な黒い目玉が、じっと小豆の一挙手一投足を眺めている。リアルに艶やかな瞳が哀愁漂って見えたのは、あくまでも真弘の主観だ。
「どっせぇぇぇぇい!」
『いぎゃぁぁぁぁぁぁぁ』
腕力にものを言わせて全力で引っ張り、ぶん回す。両足を軸に、力の限り、ハンマー投げの要領でイカを振りまわしていると、あまりの勢いに砂ぼこりが舞い上がるほどだ。ブンブンという風を切る音が重い。
「ばっか! そんな力で投げたら中のやつが」
「くらえー!」
『みぎゃぁぁぁぁぁ』
真弘の叫びも虚しく、最後のスイングとばかりに腰だめに体をひねった小豆は、夜空に向かってイカを放り投げる。
イカ本体と手にしていた拡声器が、別々に宙を舞う。というか、とんでもない速度で射出されたイカは、大気圏を脱出しそうな勢いでほぼ真上に吹っ飛んでゆく。すでに大きさは小指の先ほどになっているので、一瞬で百メートル近い距離を飛んだようだ。
間違っても、人間を投げて飛ぶ距離ではない。
「ばか! お前、あれで中のやつが死んだら」
「大丈夫、ここには真弘がいる。そんなことはさせないだろ?」
「また他人事みたいに、って、ダメだ落ちてくる」
上昇が緩やかになったのもほんの一瞬で、星空に浮かぶイカが徐々に大きくなり始めている。もしかして、あのままキラリと光って星になったりするのだろうかと思ってもみたが、当然そんなことにはならない。
「やはり星にはならないな」
「なるか、あほ! くっそぉ、しゃぁねぇな待ってろよ、絶対余計なことすんなよ! 言いたいことはあれ助けてからだちくしょぉぉぉぉ!」
完璧に真上ではないせいで、イカは角度の急な放物線を描きながら、グラウンドの反対側めがけて落っこちている。夜空を飛ぶイカ、という現実味が微塵もない光景に、何故だかわからないが真弘は泣きそうになった。
「わけわかんねぇし!」
思い切り腕を振って走ると、右腕はまだ折れているせいでひじから下がブラブラとあっちこっちに揺れて、そのたびに激痛が襲ってくる。当然、患部を傷めつけ続けているので治癒が追いつかない。
その間にもイカは徐々に加速し、くるくると回って自分の触手に絡まっている。中身の人間に意識がないのは明白で、手も足も、ピクリとも動いてはいない。
ある意味幸運なのかもしれないが、中の人のトラウマにならないことを祈るばかりだ。
「んがぁぁぁぁぁ、間に合えまにあえまにあえぇぇぇぇぇぇ!」
このまま走っていては間に合わないのが明らかになるや、腕がもげるほど力強く振り抜き、思いっきり地面を蹴りつけて、跳んだ。いつぞやの手術室や保健室でそうだったように、景色が超高速で後ろに吹っ飛び、血液が体の後ろ側に偏るほどの大加速。
受け止めるには腕が足りない。だったら。
血液が背中側に偏ったせいでブラックアウトしかけた視界を、気力だけで維持する。視線の高さまで落ちてきたイカの下に体を滑り込ませ、生きている左腕でイカの胴体部分を抱える。
まさにギリギリ、紙一重の大博打だ。
「うごふっ」
タイミング悪く三角形のひれの部分が腕をすり抜け、鳩尾を直撃し、背中が地面にたたきつけられる。おかげで息がつまった真弘は、高速で地面をスライディングしながら激痛と酸欠に苦しむという、二重の地獄を味わう羽目となった。
十メートルほどグラウンドを削った壮絶なスライディングがようやく制止した時には、息も絶え絶え酸欠の金魚のようになっていた。ただ、
『ぬ……う』
触手でがんじがらめになったイカの中から、微かに呻き声が聞こえる。
殺人現場に居合わせずに済んだ。そして何より、小豆を殺人犯にせずに済んだ。顔が苦悶に歪んでいるのでわかりにくいが、これでも真弘はほっとしているのだ。
「ほら助けた。僕の言ったとおりだ。さあ、これからも」
「えーかげんにせい!」
ツインテールの分け目めがけて、ぽかりとチョップを叩き込む。もちろん、本気でやった場合、反撃でミンチにされるのは目に見えているので、あくまでも軽く。
「あのなあ、お前はもうちょっと加減ってもんを覚えろよな。俺が間に合わなかったらこのイカ、死んでたぞ」
「そう、か……うーん、でもこいつを倒さないと僕は悪のボスになれないし」
「それは誤解も甚だしゅうございますね」
「うぉ! どっから湧いた!」
何の前触れもなく二人の間に現れたメイド服が、つかつかと倒れているイカに歩み寄り、絡まった触手を一つずつ丁寧にほどき始める。
「まったく、ほんとうにあなた方はどこまでも阿呆極まりない馬鹿どもでございますね」
「なんだと?」
真弘の反論などお構いなしに、華はさらに続ける。
「しかし、そのおかげでよい時間稼ぎにもなりましたし、これで我が組織の目的は達成でございます。」
(あの女の手のひらの上だったような気がするのは癪に障りますが)という呟きは、胸の中だけにとどめたが、明らかに仮面の下の口元が不機嫌そうだ。
「ちなみに、この魔法陣が発動するとどうなるんだ?」
「てめぇ、それも知らずに暴走してやがったのか!」
真弘の非難を完璧にスルーした小豆は、ぐるりと周囲を見渡す。学校の敷地の向こうに広がる夜空は夕焼けのようにオレンジ色に染まっている。地上から放たれた光が、夜空を照らしている。
「言う必要もございませんし、すぐに効果は現れるのでございます」
仮面の奥の目が、妙になまめかしく真弘を眺める。艶っぽさや色っぽさに縁のない真弘だったが、思わず胸がドキドキする妖艶さだ。
「真弘、あとで死刑だ」
「な、なんでだ! ってか、そんなことよりこの魔法陣を止めないと大変なことに」
光を放つ町のシルエットを指差しながら周囲をぐるりと見渡して、それに気がついた。
「どうした、真弘?」
「なんか、息苦しくないか」
空気の密度が、増している。
実際に気圧がどうこうというよりも、町全体を覆う雰囲気のようなものが、重苦しくのしかかっているようだ。事実、この前後数時間だけで一色市の救急コールはいつもの十倍以上の件数に膨れ上がっていたほどだ。そのほとんどが、原因不明の不整脈や動悸、過呼吸や呼吸困難といったものだ。
「そういわれれば……多少は、そうかな」
(魔法陣が発動しかかってるからか? だとしたら、本格的に発動するともっとやばいことになるんじゃ……ん?)
夜空の不自然な明るさにの星が姿を消し、月の輪郭をぼやけさせていた。そんな中で真弘が見つけたのは、どういうわけかひと際眩しく輝く、一つの星。
「いや、あれってなんか、ちょっとずつでかくなってる、よう、な」
指差したのは、月の隣でちかちかと瞬く光の点。
星と言われれば星にも見えるし、飛行機の翼端灯と言われればそう見えなくもない。星の出ている夜空なら気づきもしなかっただろう輝きだ。
「そんなことより、さあ、帝塚山真弘様。約束の時でございます」
「は? 何でいきなり俺なんだよ?」
華が実に恭しく頭を垂れ、一分の隙もないお辞儀を披露する。それの意味するところに全く思い当たる節のない真弘は、口を半開きにしたアホ面で答える。対照的な二人の仕草。
「申し上げたはずでございます。あなた様を、私どもの、いえ、我が主の物とする、と」
顔をあげ、仮面を直しながら口元に笑みを浮かべる。真意の見えない笑みほど怖いものはない。
「この魔法陣の発動する今が、まさにその時で」
「ってか、あれ落っこちてくるぞ!」
「へ?」
完璧にキメたはずの華の仕草だったのに、真弘は見ていなかった。いや、見ていなかったわけではないのだが、残念なことに興味の優先順は随分と下だったらしい。悲しいかな、行き場を失ったドヤ顔は、ひっこめるタイミングが難しい。
ただ、華のそんな杞憂をよそに真弘が指差したのは、先ほどよりもずっと大きくなった光の点。先ほどまで点だったものが、今は月とそう変わらない大きさだ。
「くる! メイド、お前はそのイカ拾え。俺は」
正面でとらえていた真弘と違って、背後を振り返ってようやくそのことに気がついた小豆は反応が遅れてしまう。時間にしてほんの数瞬だが、それが致命的だった。
光っているのは、それ自体が炎を纏っているからだと気がついた頃には、どうやらそいつは隕石で、グラウンド直撃の軌道をとっていることもわかった。
遅すぎた。
「ま、まひ」
「んがぁぁぁぁぁぁぁ」
避けるにしても間に合わないし、受け止めるにしても小豆が邪魔になる。
となれば選択肢はほとんど残されていない。そして、そんな選択になった時に、自分が得をするような選択ができないのが、真弘だった。
「こんなんばっかだよちくしょぉ! また痛い目は俺かよ!」
驚きのあまり固まっている小豆を突き飛ばす。
あわよくばこの直後に自分も脱出、なんてことも一瞬は考えたがどうやら現実と言うのは非情にできているらしい。
口を開け、珍しく表情で驚きを表現している小豆の指先が視界を横切ると同時に、入れ替わりで真っ赤に輝く「それ」が飛び込んで来る。コマ落としのように展開される事態の中で真弘が見たのは、
(ポット?)
直撃する、電気ポット。
コマ落としに見えたのは真弘の主観がそう感じさせただけで、隕石のスピードが遅かろうはずもない。現実には秒速数キロという常軌を逸した速度だ。
当然、その直撃を受けた真弘は、
「―――――――っ!」
声をあげる間もなく吹っ飛ばされる。
大型のダンプを正面衝突させたようなとんでもない音と衝撃がその場に爆発し、殺しきれないエネルギーは真弘ごと地表に炸裂する。大量に巻き上げられた土砂もさることながら、数十メートルにわたって抉られた地面が、その衝撃の凄まじさを物語っている。
先ほど、真弘がイカを救うために付けたグラウンドの傷など、あとかたもなくけし飛ぶレベルだ。
もうもうと立ち上る砂ぼこりに、衝撃の余波が肌をびりびりと振るわせる。
『んむ……いったい、なんだというです?』
「お嬢様、お気づきになられましたか」
イカの着ぐるみを軽々と小脇に抱えて、華が尋ねる。華にとっては、目の前の超展開よりも紅葉の安否が優先する。というかそれが常に最優先だ。これに関してはまさにメイドの鏡というほかない。
優先っぷりが少々危ないというのは、もはや暗黙だ。
『ああ、なんか世界がぐるぐる回って宇宙を旅行した気分です』
「あながち間違ってもおりませんが、今は宇宙からの使者が敵でございます」
そう言って華が促した先には、ほぼグラウンドの端まで伸びた巨大な溝。
『何です、それ?』
「まぁ、軽い冗談でございます」
『この期に及んでまず冗談が口をついて出るお前は、ある意味尊敬にあたいするです』
「恐縮でございます」
『あほです』
「恐縮でございます。アホの親分様」
そんないつも通りのやり取りに、口にも顔にも出さずに安堵した華が、次に起こす行動はもちろん、
「では、これより魔法陣効果について確認に参りましょう。あの女の計算ではちょうどこの瞬間をもって発動しているはずでございます」
そう言って見せたのは、レトロなデザインの懐中時計。裏側に、紅葉と二人で採ったプリ蔵が張られているのは、華のトップシークレットだ。
『それはいいですが、何故わざわざ胸の谷間に時計をしまうです? あてこすりです?』
「他意はございません。さあ、お胸のささやかなお嬢様。ご自身の目でご確認ください」
『ガンジーでも助走つけて殴るレベルというのを、今理解したですよ』
ふくれっ面を作って口をとがらせているが、その裏にあるドキドキを隠しきれないという様子で、イカがてこてこと走り出す。もちろん、着ぐるみの中の表情変化など外から見えるはずもないのに、それがくみ取れるほどわかりやすく、足取りは軽い。
「ま、生きていれば、でございますがね」
そんな主の背中を三歩下がって見つめながら、華がぽつりとつぶやく。
他意は、ない。