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最後の安息

 中学三年生になったばかりの目には、桜並木の美しさよりも、自分が受験生になってしまったという現実ばかりがちらついて見えた。それが証拠に、舞い散る花びらを見ながら考えているのは、来年の今頃、どんな顔で自分がこの花を眺めているかというようなことばかりだ。

 もちろん、誰しもがそうだとは言わない。

 クラス編成に一喜一憂して隣の友達と抱き合う女子生徒や、担任の当たりはずれで気にいらない教師を口汚くののしるばかりの自称優等生、そんなものとは関係なく髪の毛を金髪に染めて始業式早々生活指導の教師に連れて行かれる不良と様々だ。むしろ、そんな陰鬱な表情をしているのは自分ひとりなんじゃないかと思うほどだ。

 そんな真弘に声をかけたのが、酒井佳苗(さかいかなえ)だった。

「どうしたの? 何か今にも自殺しそうな顔だよ」

 そう言った佳苗の顔は、この世界で一番自殺なぞとは縁遠そうな、はちきれんばかりの笑顔だった。紅潮した頬をつり上げ、目がなくなるまで細めるその笑い方は、美人の類ではなかったが、誰しもが好感を抱く可愛らしい笑顔だった。

「や、ちょっと受験のこととか考えると」

 そんな真弘のありきたりな返答も佳苗は一言で一蹴した。

「なるようになるよ、一生懸命やってればね」

 その表情は、それが真理であることを信じて疑わないといった顔だ。

「ほんとかよ?」

「ほんとだよ。だって、一生懸命やってるんだもん」

 そんな天真爛漫さに、自分がとんでもなくばかばかしいことを悩もうとしていたのではないかと気づいた時には、思わず吹き出してしまった。

 それが、真弘と佳苗との出会いだった。

 初対面の真弘に声をかけるのにためらいがなかったのを見ても想像ができる通り、佳苗は率先してクラス行事などの仕事をこなす、いわゆる委員長タイプだった。新学期の初日にしてすでにクラス委員の推薦に挙げられているほどで、それを断る佳苗でもなかった。

 厄介事が自分に回ってこないようにうまく利用してはいるが、どこかで頼りにはしている。それが、クラスのほとんどの人間が思う、佳苗像だった。

「謹厳実直。絵にかいた委員長だな、酒井」

「そんなこと言って、帝塚山君もしっかり手伝ってくれてるじゃん」

 佳苗とそんな会話をしたのは、五月の終わり。少し早い体育祭の打ち合わせのために残った放課後、廊下を歩きながらそんな軽口をたたき合う。

「俺の場合は他に誰もいなくて、いやいや仕方なしにハズレくじだよ」

「またまたー、私と仕事したかったんでしょ?」

「んばっ! ばかか、んなわけねぇだろ」

「へっへ~、照れなくてもいいんだよー。っていうか、帝塚山君はもっと素直になるべきだよ。そんな真っキンキンの頭でもせっかく真面目で正義感強いんだから。私のこと、放っておけなくて仕事手伝ってくれてるもんね」

「あほ、黙って歩け。あと、まっキンキンゆーな。俺は悪くない」

 声に出して屈託なく笑う。たったそれだけのことなのに、花が咲いたように周囲が明るくなる。そんな魅力を、佳苗持っていた。すくなくとも真弘はそう思っていた。

 とんだ阿呆だった。今の真弘は、そのときの自分を責める。

 好きだったのかと言われれば、今はもうわからない。そうだったのかもしれない。ただ、一緒にいる心地よさや、周囲を明るくする独特の雰囲気を求めて、できるだけ近くにいようと思ったのは、嘘いつわりのない本心だ。

 ずっと、こんな時間が続けばいいと、続くと、思っていた。

 阿呆だった。

 変化が顕著に現れたのは、夏休みも明け、クラスの中に受験に向かうピリピリした空気と、中学生活最後の行事である文化祭に向かう高揚した空気とがごちゃまぜになって充満し始めた、九月のことだ。

「ほっといて」

 その日は文化祭でのクラス発表を話し合う日だったのだが、佳苗は無断欠席をした。それまで欠席することはあっても、きちんと学校に連絡を入れていた佳苗の突然の無断欠席だったため、慌てた教師が真弘に事情を尋ねてきた。

 もちろん知るはずもない。それどころか誰よりも驚いたのは真弘自身だ。

 さすがに放っておくこともできずに、学校が終わってから見舞がてら尋ねた真弘に浴びせられたのは、冷ややかなその一言だった。

 放っておけるはずがない。目の周りには、普通に生活しているだけではつくはずのない青いあざ。よく見れば目の周りだけではない。頬にも、腕にも、目立たないようになってはいるが痕が残っている。

「大丈夫なはず、ないだろ」

「関係ないから! ほうっておいて!」

 突き放すようなその言葉に、刃物で胸を貫かれたような衝撃を覚えたのを今でもはっきりと覚えている。

 それ以来、佳苗はあまり学校に来なくなった。

 来ても、以前の佳苗が嘘だったようにじっと黙って席に座り、何をするでもなく一日を過ごして幽霊のように教室を後にする。一言も話さずに帰ることも珍しくなかった。

 そんな佳苗を遠巻きに眺める視線が冷ややかで、拒絶の色を帯びているのは、受験を控えたこの時期ならやむなしかもしれない。敢えて面倒事に首を突っ込むもの好きもいない。

 クラスメイトが佳苗から距離を置くようになるのに時間はかからなかった。まるで目に見えない壁を描いたように、佳苗は誰とも接することはなくなったし、クラスメイトも敢えてその距離を縮めようとはしなかった。

 そんなある日、

「あいつの親父、捕まったってな」

 その日も佳苗は休みで、一人で文化祭の仕事しなきゃいけないな、なんて思いながら主のいない席を眺めていた真弘は、その言葉に視線を向けた。

「まじかよ? なになに、何やったの?」

「職員室行ったときにちらっと聞いたんだけどよ、あいつ親父に殺されかけたらしいぞ」

「まじ?」

「まじまじ。職員室大騒ぎ。ほら、最近青たん作ったりしてただろ? あいつのお袋が夏休みに死んだらしくってよ、それで父親も荒れたんじゃねぇかって」

「で、殺人未遂? マジでそんな話あんだな」

「てことは、もしかしてあいつ、親父にやましいこと」

 気がつけば、殴っていた。

 鼻っ面に拳を叩きつけ、崩れ落ちた顔面に上履きの底を叩きつける。力任せに、何の容赦もなく、何度も、何度も、何度も、何度も。

 周囲では静止する声が怒号のように響き、羽交締めにしようと腕が肩に回され、女子の悲鳴と先生を呼びに行ったやつの悲壮な叫びがごちゃまぜになって、阿鼻叫喚の地獄絵図の様相だったが、真弘は落ち着いたものだった。

 ただ淡々と、目の前で鼻血まみれになって泣きじゃくっている男の顔に、靴の裏を叩きつけ続けた。怒りと狂気で形作られた、鬼のような形相で。

 駆け付けた体育教師が殴りつけるようにして真弘を引きはがした時には、既に男子生徒に意識はなく、鼻血と口内からの出血で血みどろだったが、真弘はそれをただ静かに見下ろしているだけだった。

 連行された職員室で言い放った「ごみを掃除をしただけ」の一言は、あまりにも常軌を逸していると判断されたのだろう。

 一週間の停学処分が下された。

 課題として課された、嘘にまみれた反省分とともに学校に復帰した真弘を取り巻くのは、どこかいびつながら以前と変わらないクラスの雰囲気だった。さすがにあの時の発言を知る者は、一方的に真弘を悪者に仕立てることはできないらしい。

 少々腫れ物に触るような距離感こそ感じるものの、おおむね以前どおりに思えた。

 ただ、それは真弘に関してだけで、佳苗に関してはそうはいかないようだ。

 異物を見るような目が向けられ、不自然なほどに会話を避け、いつの間にか文化祭の委員もほかの女子生徒が担っていた。

 佳苗の居場所は、無くなっていた。

 それでも真弘は佳苗に話しかけ、何とか佳苗の居場所を作ろうとあがいてはみたが、一人で動いたところでできることなんてたかだか知れている。

 そうして、真弘と佳苗を取り残したままクラスの時間が流れていた、九月の後半。

 佳苗は、自殺した。

 結果としては未遂に終わったが、佳苗の意識は二度と戻ることはないらしい。

 風呂場で手首を切った佳苗が発見されたのは、いつもの時間に佳苗が登校しないことを心配した隣のおばあさんだったのだが、発見が遅すぎた。長時間脳に酸素の行き渡らない状態が続いたせいで、肉体が回復したあとも脳の回復は絶望的との診断が下された。

 遺書として残されていた手紙には、父親が暴力をふるうのを止められなかったことを苦悩し、周囲に迷惑をかけたことに良心を痛めていたこと。学校での居場所を失ったつらさ、そのことでクラスメイトに迷惑をかけたことに対する罪悪感などが綴られていた。そして最後にただ一言、真弘に対する、謝罪。

『ごめんね』

 自分の無能と、世界の理不尽さを呪った真弘はその夜、泣いた。

 声に出さずに、嗚咽を噛み殺して、涙だけを流して泣いた。

 一生懸命にやればなるようになる。初めて会った時のその言葉が、佳苗自身にも向けられていたのかもしれないと思うと余計に悔しかった。どこかで気づいていれば、自分にもっと力があれば。

 神なんていない、正義なんてない。一生懸命に、まっすぐに、明るく生きた佳苗が救われない世界が正しいはずがない。そう思って、全てを呪って

 真弘は、そこから逃げ出した。


「俺は、何にもできなかったんだ。いや、違う。あいつはずっと何とかしようとして、何とかなるって信じてたのに、なのに……何が正義だ、報われるだ。あほらしい」

 吐き捨てるように言葉を投げだす。

「そうやって自分を守るのも一つの方法だ。しかし、今の君には力がある」

「知ったことか。俺には関係ない」

「そんな体質になっても、まだそういうのかね? 困った女子を放っておけない症状なんて、生半な正義感ではできないよ」

「知るか。好きでやってるわけじゃねぇ。むしろ迷惑だし、俺はとっとと消したいんだよ、こんなトラウマ」

 真弘は決めたのだ。あの日、佳苗を失った世界に意味もなければ意義もない。正義だの努力だのというくだらない幻想にとらわれたところで、そんなものに意味はない。なら、報われることのない世界で飄々と生きていこうと。誰かと深くかかわることもなく。そうすれば傷つけることも傷つくこともない。そう決めたのだ。

 なのに、体はそれを拒むようにトラブルに飛び込んでゆく。

 絵にかいたような二律背反。多重人格か何かではないかと自身を疑ったことも少なくはない。

「いつか会長君も言っていたが、力を持ちながら」

 美緒の声が、唐突に凛と響く。

「その力を行使しないのは、悪だよ。そのベクトルはさておき、己の中の正義に反する行為だ。私もそう思うよ」

 毅然として言い放つ姿は、ある種のカリスマ性を感じずにはいられない。

「だからなんだ? 俺には関係ないんだよ。正義はあれの仕事。世界が悪の秘密結社に染まろうが正義が勝とうが、知ったこっちゃない」

 その場を立ち去るべく再び振り返る。体が束縛されることもなく、ノブに手をかける。

「世界を認識するのは君だが」

 唐突な物言いに、一瞬手が止まる。

「世界は君を認識しはしない」

「誰の格言だよ?」

 皮肉交じりに言ってやるが、美緒からの返事はなく、この場はこれで終了だと言わんばかりに真弘は階段室に踏み込む。

 ちらりと目の端っこだけで振り返った美緒のシルエットは、金色の月明りに映えて芸術的だったが、今の真弘は何を思うこともなかった。

 重苦しい音を立てて扉が閉まったのを確認し、その場を後にする。

「君がどう認識しようと、世界にはあるのだよ」

 美緒はぽつりとそれだけを呟いて、フェンスにもたれかかる。

「正義が、ね」

 乾いた音が、春の夜空にかすかに響いた。


 ゴールデンウィークを間近に控えた教室は、休み時間ごとに休日の予定を話し合う声でふわふわと浮き足立っていた。部活で毎日学校に来るもの、親と旅行に出かけるもの、ひたすらゲームに打ち込むもの。傍で聞いているだけで楽しくなる予定ばかりだ。

 唯一つを除いて。

「連休は昼は学校、夜は街のパトロールだ。目標はもちろん、連続自販機盗難事件の解決だよ」

 広辞苑のようなでかい弁当箱をあっという間に空にしたかと思うと、いきなりそんなことを言った。こいつの胃袋はどうなっているのだろうかと、真弘はまじまじと小豆のコンパクトな体を眺める。

「いや、俺の予定は聞かないのかよ?」

「何かあるのか? ないだろう? だったら問題はない」

「まだ何も言ってないだろ」

「真弘は連休を全部デートに費やすさね。うらやましいさねぇ」

「ぶっ飛ばすぞ、てめぇ」

 コロッケパンをかじる宗司の手には、いつかと同じビニール袋がぶら下がっている。

「あーっと、勘違いしないでほしいさ。今日はちゃんと朝買ってきたさ。ほらほら、レシートにちゃんと時間が出てるさ」

 必死になって言い訳をする姿に涙を禁じえないが、今問題はそこではない。宗司には悪いと思いながら、真弘は話を元に戻す。

「で、なんでパトロールに俺も含まれてんだ?」

「当然だろう、真弘は生徒会副会長だ。正義の味方に休日はない」

「当然とは思えないんだが、どうせ拒否権はないんだろうな」

「よくわかっているじゃないか。よかった、もし断られたら力ずくになるところだった」

「そこに正義はあるのかよ?」

 弁当箱を片付ける小豆は安堵のため息を漏らし、心なしかちょっと嬉しそうに微笑んでいる。その笑顔の意味を図りかねていると、

「ときに真弘。住吉の容態はどうなんだろうな?」

「ん? ああ、昨日の今日だからなぁ。いくらなんでももうしばらくかかるんじゃねぇのか? あの博士、やたらやる気だったしな」

 朝から空席になっている席をみながらぼんやりと夢想したのは、呵呵大笑しながらさまざまな工具を振るうマッドサイエンティストの姿だ。

「昼になっても空席なのに欠席だと言い切れなくなってる自分にびっくりだ」

「ま、それが満貫寺クオリティってやつさ」

 遅刻王の名は伊達ではないと言うわけだ。

「自分がどんだけ毒されてるのかよくわかった」

「いいことだにゃ。郷に入っては郷に従え。これで帝塚山君も立派な満貫寺マンだにゃ」

「なんだよそのだっさいネーミングは?」

 ひょっこり現れて宗司の背中に体重を預けた瞳は、まんまとビニール袋からデザートだけを引っ張り出して奪い取る。

「あ、ひどいさ。それは俺の食後の楽しみ」

「プッチンプリンが瞳さんに食べてほしそうに~」

「してないさ。むしろそれは俺に食べられるために生まれた存在さ」

「あ~、この独特の食感がにゃんとも」

「すでに食ってるさ! 泥棒さ、悪がここにいるさ!」

「痴話喧嘩は正義の介入対象外だ。存分にやってくれ」

「この世に正義なんてあったもんじゃないさー」

 プリンを食べながら追いすがる宗司をかわすという器用な技を披露し、瞳は教室から出て行ってしまう。それを追って宗司も出て行ったのだが、その背中は少しだけすすけて見えた。諦めの色というのはこういう色なのかと、真弘は苦笑する。

「あいつら、さっさと付き合っちまえば良いのにな」

「な、何をいきなり! そんな、副会長ともあろうものが、ふ、不謹慎だぞ!」

 何気なくそんなことを言ってみると、思いのほか大きな反応が返ってきた。

「え? でも別に普通だろ、あんだけ仲良かったら付き合うぐらい」

「真弘は……」

 弁当箱を鞄にしまいながらの、俯き加減での声はちょっとだけ聞き取りにくい。

 もちろん、角度だけの問題ではなく小豆らしからぬ声音だったからというのもあるのだが、そこまで勘のいい男ではない。

「ん?」

「ま、まひろは、仲が良かったら、その……つ、付き合ったり、するの、か?」

 表情こそわからないが、なんとなく怒っているように見えた、というのは少々うがったものの見方といわざるを得ない。ここに美緒でもいれば苦笑交じりのニヤニヤとともに助言の一つももらえたかもしれないが、残念なことに魔女は自室で研究中だ。

「そうだな。俺はモテたいと思うし、付き合えるような相手がいるんならそれに越したことはないし、やっぱり高校生ともなれば彼女の一人や二人は……って何言わせんだ」

「そうか。そうだよな、やっぱり高校生ともなれば」

「どっかにいねぇかな、清楚で可憐で笑顔の可愛いお嬢様。アップにした髪からちら見えするうなじが可愛ければなおすばらしい」

「そうか、アップか」

「んでスタイルが良かったりすると男冥利に尽きるって言うか」

「すた、いる?」

「そう。グラビアアイドルみたいなプロポーションで、あ、でもそうなったら隣を歩くのも気が引けるとかあるのかね?」

 ばきゅっ

 穏やかではない音に視線を吸い寄せられると、食後にと買ってあったコーヒーの缶が握りつぶされていた。スチール缶である。未開封である。

 ぼたぼたとこぼれる茶色い液体が、どうしても血液に見えてしまうのもうがった見方ではあるが、これに関しては仕方がない。本能が正常に機能している証拠だ。

「ふ、ふぅん。真弘はそんな不健全でふしだらな思考をしているんだ。これは組織を束ねる会長としては見過ごせない問題だね」

「おい! 何だよこの誘導尋問みたいな罠? おい、ちょ」

「大丈夫。僕に任せてくれればちゃんと真人間に修正してあげるから」

「その前に人間じゃなくなっちまう! した、死体になっちまうだろ!」

「大丈夫。真弘の体は壊れてもすぐ直るから、僕も存分に全力を振るえるよ」

「まて! おかしい、おかし、やめてくれぇぇぇぇぇ」

 目を覆うような惨状だった、としかたとえようがない。それが証拠に、そのとき教室にいた人間の半数はその光景に耐え切れずに退出し、残り半分は目を閉じて耳を塞ぎ、じっと席に座って耐えていた。

 最終的に、とどめの一撃をボディにもらった真弘はくの字に折れ、崩れ落ちるように自分の席に腰をおろしたのだが、この時点で背骨が粉砕骨折してたことを知るものはいない。わからないのではなく、知らないほうが幸せなこともあると熟知しているからだ。

「お前、な……俺じゃなかった、ら、死んで」

「真弘だからだよ。そうじゃなきゃここまでやらない。でなきゃ僕は殺人犯になっちゃうからね」

「なお、たちが、悪い」

 みしみしと音を立てて回復するという奇妙な体験をしながら、真弘はゆっくりと呼吸を整える。

「しかし、我ながら恐ろしい回復速度だな」

「しかも以前より回復速度が上がっている気もするしね。こうなればますます、悪の秘密結社が作った不死身の怪人だな」

「それ、笑えないから。体育ん時とか手加減すんの大変なんだぞ。バスケだって、下手すりゃダンクどころかゴール飛び越えちまう」

 実際、一度は白熱しすぎてNBA選手もびっくりのハイジャンプダンクシュートを決めてしまい、誤魔化すのにえらく苦心したことがある。ちなみにそのときは、一瞬だけとんでもない追い風が吹いたことにしておいたが、それを信じるやつも信じるやつだ。

「何で気兼ねするんだい? 僕のように全力でやれば」

「一緒にすんな。俺は一般人でいたいんだ」

「正義の味方とも思えない言動だねぇ」

「正義の味方なんかじゃねぇからな。お、そうだ、一個言い忘れてた。あいつらの目的がわかったぞ」

「あいつら?」

 コーヒーで汚れた手と机をハンカチで拭いていた小豆の動きが止まる。

「ああ。全身タイツの……パラダイス、だっけか。なんか、魔方陣? を学校に作ってそれを発動させるのが目的らしいぞ。ってか、魔法なんか発動させてどうすんだろな?」

「真弘?」

「ちゃんと伝えたからな。って何だよ? いででででで!」

 手首が引き絞られるように痛む。見ると、コーヒーでまだちょっとべとつく小豆の手が思いっきり手首を握っていた。みしみしと不吉な音がして今にも圧壊しそうだ。

「どうしてそんなことを知って? いや、それはいいや。それよりどうして今まで黙っていたんだ? 忘れてた、って」

「あ、いや、そのなんだ……」

「聞けば、まだ正義の味方としての自覚が足りないようだったし、まだお仕置きが必要みたいだね」

「あの、あの、だな。夜、夜遅かったから、連絡しても悪いかなと、んで今日になってなかなか言うタイミングが見つからなくて」

「へぇぇ、連絡するのが憚られるような時間に天王寺に会っていたわけだ」

「や、ちが、そうじゃなくてそれは、あっちから呼び出されて」

「そうか。やっぱり天王寺か。そうだね、あいつなら頭の中身に目を瞑れば顔もスタイルも申し分なしだね、そういうことか」

 語るに落ちるとはまさにこのことで、真弘は自分が地獄への一本道を絶賛爆走中であることを思い知る。死のジェットコースター。止める術はない。

「な、小豆さん、今大事なのは悪の組織の悪の陰謀を止めることで」

「その前に、身近な悪の芽を摘む必要があるようだ。さあ、覚悟は良いね」

 この日、真弘は二度目の地獄を見た。

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