こたつ上のモールス
樺太に誇りを埋め、奇跡を生き抜いた通信兵の記録
昭和の終わりから平成にかけての、秋田の夏。
うだるような暑さの中、居間のテレビからは大相撲中継の歓声が響いていた。巨体を揺らして土俵に上がるのは、ハワイ出身の外国籍力士である。
「……トーー・ト・トーー・ト・トーー・トーー・ト・ト」
こたつの角に置かれた、祖父の節くれ立った右手の指先が、突如として激しく、正確なリズムで木肌を叩き始めた。パチパチ、トントン。それと同時に、口元からは聞き慣れない異国の言葉が漏れる。
「ドゥラーク(馬鹿め)……スボーロチ(ろくでなし)……」
隣で祖母が「また始まった」と呆れた顔で台所へ立つと、祖父は悪戯が成功した子供のような顔で、小学生の私に軽く目で合図をしてみせた。
「じいちゃん、今の何?」
「婆さんさぁ言うなよ。モールス信号で『バーカ』って打ったんだ。あのハワイのデカいのは、俺にはどうしても米兵に見えでなぁ。指が勝手に動くんだ。」
私達兄弟が「インテリクソじじい」と愛を込めて呼んでいた祖父は、普段はとてもチャーミングな人だった。けれど、毎年夏休みになり、終戦記念日や原爆のニュースがテレビに流れると、お酒を少し含んだ目で、決まってあの「映画のような話」を兄の私に語り始めるのだった。
それは、大正10年生まれの若者が、知性と執念だけで死線を潜り抜けた、本物の記憶だった。
大正10年(1921年)、秋田の雪深い町に生まれた祖父は、若い頃から飛び抜けて数学が出来た。数字の並びから法則を見つけ出し、複雑な計算を暗算で解く。その明晰な頭脳は、昭和16年、20歳で徴兵適齢を迎えたときに、軍によって特別な場所へと導かれた。
「お前は歩兵じゃない。通信へ行け」
配属されたのは、陸軍の通信隊。当時は誰もが就けるわけではない、選ばれたエリートの兵科だった。
課された任務は、前線での無線電信、自由自在なモールス信号の送受信、そして暗号の作成と解読である。文字を数字に置き換え、複雑な数理アルゴリズムで暗号化する作業には、祖父の数学の才能が遺憾なく発揮された。さらに、敵国であるソ連の電波を傍受するため、耳にタコができるほどロシア語の軍事用語を叩き込まれた。
耳を澄まし、指先で世界と繋がる。それが祖父の戦争だった。やがて部隊は、北の最前線、南樺太の豊原へと派遣される。
昭和20年8月。日本が終戦を迎えたその時、南樺太は地獄と化していた。日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍の猛撃により、中心都市の豊原駅周辺は、避難民と撤退する軍人で大混乱に陥っていた。
「全員、武装解除だ。武器をソ連軍に引き渡せ」
伝令が走る。武装解除――それは軍人にとって、降伏を意味する最も屈辱的な瞬間だった。特に祖父の腰にある軍刀は、己の命であり、日本軍人としての誇りそのものだった。
「これだけは、ロシア兵の手さ渡さね。俺の魂まで奪われてたまるか」
祖父は激しい爆音と砂塵が舞う豊原駅のすぐ近く、監視の目を盗んで地面を深く掘り進めた。自由を奪われる寸前、布に包んだ軍刀を、サハリンの冷たい土の中へと静かに埋めた。
「いつか必ず、掘り起こしに来る」
それは、生き延びてやるという、若き通信兵の意地だった。
終戦を迎えても、秋田への道は閉ざされていた。祖父はソ連軍の捕虜となり、過酷な強制労働が待つ収容所へと連行された。
季節が巡り、夏が来る。サハリンの川は、産卵のために遡上するカラフトマスで水面が真っ赤に染まっていた。
「食いてぇなぁ。あれ食えれば、飢えがしのげるのに」
連日、配られるのは家畜用のような傷んだジャガイモと、薄いスープだけ。目の前には数え切れないほどのごちそうが泳いでいる。しかし、銃を持ったロシア兵の監視は執拗だった。川へ一歩でも近づけば、サボタージュか脱走とみなされ、その場で射殺される。飢えと、銃口。不条理な日々に、祖父の心の中で「脱走」の二文字が巨大化していった。
祖父は、高い知性と冷静な観察眼を研ぎ澄まし、収容所の医療部屋から1本の「メス」を盗み出し、懐に忍ばせた。武器にもなり、生存の道具にもなる。そのメスこそが、自由への切符だった。
当初、最も発覚リスクの低い「単独での逃亡」を計画していた。しかし、その計画を察知した横浜出身の兵士、伊藤為三という男が、祖父に泣きついてきた。
「頼む、俺も連れていってくれ。ここにいたら死んじまう」
「ダメだ。2人だと足がつく。失敗する可能性が跳ね上がる」
祖父は何度も突き放したが、伊藤さんの必死の眼差しに、最後は折れた。「分かった。ただし、俺の言うことさ絶対に従え」。
ある夜、彼らは動いた。見張りのロシア兵の死角を突き、駆け出す。背後で怒号が響いた。迫る追っ手。祖父は、近くにあった太い棍棒を掴むと、容赦なくロシア兵の頭へと振り下ろした。鈍い音が暗闇に響く。「行くど!」。
それから先は、地獄のような逃避行だった。追跡をかわすため道なき道を走り、飢えに苦しめば、野生の馬の肉を漁り、野ネズミを捕らえて生肉をかじりながら、2人はサハリンの広大な原野をひたすら南へと逃げ続けた。
しかし、限界は突然訪れた。
南部のとある集落にたどり着いたとき、背後に2人のロシア兵の追っ手の影が見えた。祖父たちの身体はもうボロボロで、走る気力は残されていない。見つかればその場で射殺か、再びあのラーゲリへ逆戻りだ。咄嗟に目の前にあった民家の戸を叩き、中に転がり込んだ。
「隠してください! 追っ手が来ています!」
そこには、まだ日本への引き揚げを待つ、日本人の民間人女性が暮らしていた。女性は一瞬目を見開いたが、すぐに奥の部屋のベッドを指差した。祖父は泥まみれの体でベッドに滑り込み、布団を頭から被った。伊藤さんも別の影に身を潜める。
ドンドンドン! と激しくドアが叩かれ、すぐにロシア兵2人が家の中に踏み込んできた。
祖父はベッドの中で息を殺した。ロシア語が理解できる祖父の耳に、ロシア兵が女性の家人に冷酷に問いかける声がダイレクトに飛び込んでくる。
「おい、奥の部屋のベッドで寝ているのは誰だ」
祖父は布団の中で、震えが止まらなくなった。「終わった。国には帰られない。ここで俺の命は尽きるんだ」。あまりの恐怖に、全身から汗が噴き出す。
すると、その日本人の女性が、怯むことなくこう答えた。
「うちの主人です」
ロシア兵は納得せず、さらに「顔をさらさせろ、布団を剥げ」と命令した。その緊迫した空気の中、女性は咄嗟にこう言い放った。
「結核で寝込んでおります。今、顔を近づければ伝染るかもしれません。」
結核。当時、特効薬がなく、世界中で最も恐れられていた不治の伝染病。集団感染を何よりも恐れるソ連軍にとって、その言葉は銃弾以上の威力を持っていた。ロシア兵たちは一瞬で顔色を変え、布団に触れることすら恐れるように、すぐさま回れ右をして家を飛び出していった。
遠ざかるロシア兵の足音を聞きながら、祖父はベッドの中で、涙とも汗ともつかぬもので顔を濡らしていた。人間の知恵と、見ず知らずの同胞の命がけの嘘が、理不尽な死の恐怖に打ち勝った瞬間だった。
その女性の名前は、禮子さんといった。そして彼女の側には、まだ幼い、忍という名の息子が震えながら立っていた。
祖父は戦後も、この時のことを思い出すたびに、私にこう語りかけてくれた。
「あの時の禮子さんには、いつか会って感謝を伝えたいって、いつも思ってたんだ。いつか、な……」
昭和24年(1949年)、祖父は28歳になっていた。サハリンの港から引き揚げ船に乗り、北海道を経由して、ついに故郷・秋田の土を踏んだ。終戦から4年。数学の天才と言われた青年は、心と体に無数の傷を負いながらも、奇跡的に生きて帰ってきたのだ。
戦後、祖父は祖母と結婚し、やがて子供が生まれた。
祖父は、あのサハリンの夜の恩を決して忘れなかった。自分が生きているのは、あの親子のおかげだ。この感謝を、我が家の血の記憶として永遠に残さなければならない。
そうして授かった長女に、祖父は「禮子」と名付けた。
続いて生まれた長男には、「忍」と名付けた。
その「忍」が、私の父親である。
私が思春期になる頃、祖父の戦争話の「生々しさ」の裏にある本当の重みを理解し始めたとき、私はあえて、それ以上詳しく話を聞くのを止めた。棍棒で頭を割ったその先にある現実、死の恐怖、祖父が背負ってきたものの大きさに、畏れを抱いたからだ。祖父がお酒を飲むたびにポツリと漏らす言葉の重みを、年相応に受け止められるようになったからだった。
祖父が亡くなって、随分と年月が流れた。
ユジノサハリンスク駅の駅前はすっかり近代化され、祖父が埋めたという軍刀は、きっと土の中で跡形もなく朽ち果ててしまっているだろう。
けれど、祖父が命がけで守り抜いた「日本人としての誇り」と、命を救ってくれた人への「生涯の感謝」は、形を変えて今も生きている。叔母の「禮子」という名に、父の「忍」という名に。そして、祖父の話を特等席で聞き続け、こたつの上のモールス信号の音を今でも鮮明に覚えている、私という孫の記憶の中に。
テレビの中で力士が躍動するたびに、私は今でも、こたつの角をパチパチと叩いていた祖父の、誇らしげで、どこか悪戯っぽい笑顔を思い出す。
「婆さんさぁ言うなよ」
あの懐かしい秋田弁の響きと一緒に、祖父が命がけで残してくれた誇りは、今も私たちの胸の中で、決して色褪せることなく生き続けている。




