表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちのレール ― 冬灯の坂 ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/9

第九章 冬の坂の先

 冬の坂を見たあとでは、春口の景色は少しだけ重力を持って見える。


 駅の赤い屋根も、港の防波堤も、宿の玄関も、以前と同じ場所にある。

 だがそのあいだには、もうただの道ではなく、上り下りする身体の時間がはっきり存在している。

 橋の巻を経てから、湊は人が時間を“渡る”ところを見た。

 第九作の坂では、その渡った時間を人がどうやって身体で運び続けるのかを見た。

 足取り。

 息。

 止まり場。

 灯りまでの遠さ。

 そのすべてが、父や澄江をまた一段、抽象的な過去から生活の中へ戻していた。

 大きな出来事の人ではなく、冬の坂を日々上り下りした人たちとして。

 その見え方の変化が、この巻のいちばん深いところにあるのだろうと、湊は思っていた。


 帰る日の朝、春口はきれいに晴れていた。


 冷え込みはあるが、空は高い。

 港の上の光は白く、石垣の影は細く締まっている。

 冬の朝は、夜の名残を引きずりながらも、天気がよいと輪郭だけは驚くほど明瞭になる。

 その明瞭さが、かえって人の身体の重さを際立たせるのかもしれない。

 坂は今日も同じ角度でそこにある。

 自分が軽いか重いかで、長さだけが変わる。

 春口の冬とは、そういう町の読み方を人に覚えさせる季節なのだろう。


 朝食のあと、湊は一人で宿から港へ下りた。

 最後にもう一度、坂の長さを身体で確かめたかった。

 下りは、やはり足が先に行く。

 しかも冬の朝は空気が乾いているぶん、身体が軽く錯覚しやすい。

 だが港へ近づくころには、その“先に着いてしまう感じ”が戻ってくる。

 気持ちより先に身体が着く。

 父もきっと、何度もそうだったのだろう。

 港へ下りてから、自分の気持ちがまだ坂の上のどこかに残っているのに気づく。

 それでも人は、灯りを見、便を待ち、また上る。

 その往復の中に、春口の人の一日があるのだ。


 港は冬の朝らしく、低い音で始まっていた。

 大声は少ない。

 ロープの擦れる音、箱を置く音、船底の鈍い響き。

 それらが海の上の白い光に吸われていく。

 湊は防波堤の手前で立ち止まり、しばらく海を見た。

 夜航の灯りを知った海。

 その見えない位置を、今は朝の明るさの中でも思い出せる。

 そして、その海から宿の灯りまでには上り坂がある。

 見えない海の記憶を持ったまま、人はその坂を上って戻る。

 第七作と第九作は、そこできれいにつながっていた。


 帰りに坂を上り始めると、冬の光はさっきより少し高くなっていた。

 それでも勾配の長さは消えない。

 途中の止まり場で、湊は自然に足をゆるめた。

 何か特別に重いわけではない。

 ただ、この町ではそういう場所で一度だけ息を整えることが、もう身体に入ってしまった気がした。

 春口へ何度も戻るということは、こうして町の勾配を少しずつ自分の身体にも持つことなのかもしれなかった。


 坂の途中の家の窓が、今日は明るかった。

 藤堂が座っている姿がうっすら見える。

 外までは出てこない。

 ただそこにいて、道を見ている。

 その気配だけで、坂の途中という場所が急に町の内側になる。

 誰かが見ている。

 止まりそうな足も、戻りきれない息も、宿へ向かう背中も。

 春口のやさしさは、やはりそこでできているのだろうと思った。


 宿へ戻ると、汐里が玄関の掃き掃除をしていた。

 箒を止め、顔を上げる。

 その仕草にも、以前より迷いが少ない。

 宿の外と内のあいだに立つことに、身体が慣れてきた人の動きだった。


「港へ行ってきたんですね」

「ええ」

 湊が答える。

「最後にもう一度」

「坂、どうでしたか」

「やっぱり同じでした」

「同じ?」

「下りは身体が先に行くし、上りは灯りまでが少し遠い」

「……」

「でも、その“同じ”が大事なんだと思いました」

「どうして」

「父も澄江さんも」

「ええ」

「特別な日だけじゃなくて、何でもない冬の日に何度もこの同じ坂を歩いたんでしょう」

「そうですね」

「その反復の中で、生きていた」

「はい」

 汐里は箒を持ったまま、静かに頷いた。


 その一言で、第九作が到達した場所がはっきりした気がした。

 霧のホームも、夜航の灯りも、夕凪の岬も、たしかに決定的な場所だった。

 だが人は、決定的な場所だけで生きているのではない。

 何でもない冬の日に、同じ坂を何度も上り下りする。

 その反復の中で、過去を抱えたまま、それでも生活へ戻り続ける。

 父も澄江も、そういう人だったのだろう。

 そこまで見えてきたことが、第九作のもっとも静かな達成なのかもしれなかった。


 昼前、湊は荷物をまとめる前に、もう一度だけ帳場の前に立った。

 冬の光が木の表面をなでるように照らしている。

 夜の灯りの帳場とは違う。

 だがその昼の明るさの中にも、澄江が外で見たものを整えて戻った気配や、汐里がいま自分の身体でその続きを始めている気配が静かに残っている。

 宿は、ただ人を泊める場所ではない。

 町の勾配をいったん受け取り、少しずつ人を次の時間へ返していく場所なのだろう。

 橋の巻と坂の巻を経て、その意味がいっそう具体になっていた。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「第九作で、何がいちばん変わったと思いますか」

 湊はすぐには答えなかった。

 父の見え方も変わった。

 澄江の静けさもまた深くなった。

 汐里自身も、橋を渡る娘から坂を上る宿の人へ一歩進んだ。

 けれど、その全部をまとめるなら、やはりこれなのだろうと思った。


「過去の重さが」

 ゆっくり言う。

「ええ」

「出来事の重さだけじゃなくて、身体の重さとして見えるようになったことです」

「……」

「父の遅れも、澄江さんの静けさも、坂を上る息や包みを持ち替える手で見える」

「そうですね」

「そうなると」

「どうなりますか」

「前よりずっと、人として近い」

「はい」

 汐里は静かに答えた。

「私もそう思います」


 その会話のあと、二人で駅へ向かった。

 冬の坂を上る。

 荷物を持った湊の足は、夏より少しだけ重い。

 だがその重さを、今は前より嫌ではなかった。

 春口を知るとは、たぶんこういう重さを少しずつ自分の身体でも知ることなのだろう。

 港から宿へ。

 宿から駅へ。

 橋を渡り、坂を上り、また別の町へ戻る。

 その一連の勾配を、もう少しだけ自分の生活の中へ持ち帰れる気がしていた。


 駅へ上がる途中、例の止まり場で二人は自然に少しだけ歩をゆるめた。

 言葉はない。

 だが、その“少しだけ”が、もはや偶然ではなくなっている。

 この町の勾配が、二人の身体にも少し入った証のように思えた。


「橋の次に坂だったのって」

 汐里が言う。

「ええ」

「やっぱり自然でしたね」

「そうですね」

「橋で渡って」

「はい」

「坂で、その渡った時間を身体に引き受ける」

「……」

「母も父も、そうやって生きてたんでしょうね」

「そう思います」

「私も、少しだけそれに近づけた気がします」

「かなり」

 湊ははっきり言った。

「近づいていますよ」

 汐里はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜いたように笑った。


 春口駅のホームへ上がると、冬の日差しが白線を低く照らしていた。

 霧のホームの巻からここまで来て、この白線はまた違って見える。

 ここへ至るまでに坂がある。

 下には港があり、上には列車があり、そのあいだを人は毎日上り下りする。

 決断の場所は、いつも平面の一点にだけあるわけではない。

 坂の途中からすでに始まり、坂の途中でなお揺れ続ける。

 そのことを知ったあとで見るホームは、以前よりずっと人間の場所に思えた。


 列車が入ってくる。

 いつものように乗り込み、窓際に座る。

 ホームには汐里が立っている。

 宿の人として。

 橋を渡る人として。

 そして冬の坂を上り下りする人として。

 その立ち姿を見ると、第九作は父や澄江の巻であるだけでなく、汐里が本当に“春口の勾配を生きる人”になる巻でもあったのだと改めて思った。


 発車の合図。

 列車が動き始める。

 ホームが後ろへ流れ、駅の屋根が遠ざかる。

 港はまだ見えない。

 だが、そのあいだにある坂の長さと息の白さを、もう自分は知っている。

 それだけで、春口という町の地図はまた一段深くなった気がした。


 湊はノートを開き、第九作の最後の頁に書いた。


 ――橋を渡ったあと、人はなお日々の坂を上り下りしなければならない。

 ――冬の坂では、その人の昨日が足に出て、少し前に見たものが息に出る。

 ――父も澄江も、そうした勾配の中で何でもない冬の日を生きていたのだろう。

 ――汐里もまた、その坂を自分の身体で引き受け始めた。

 ――春口とは、人の重さを事件としてではなく、日々の勾配として受け止める町なのだ。


 書き終えたとき、車窓の向こうに冬の海がひらけた。

 光は白く、島影はくっきりしている。

 だがその景色の中にも、坂の長さや灯りまでの遠さがもう含まれて見える。

 第九作は、そういう見え方を手に入れた巻だったのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ