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潮待ちのレール ― 冬灯の坂 ―  作者: たむ


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第七章 冬灯

 冬の灯りは、夏や秋の灯りより低く見える。


 実際に位置が低いわけではない。

 宿の帳場の灯りも、家々の窓の灯りも、港の照明も、あるべきところにある。

 けれど冬になると、空が早く暗くなり、人の目線が自然と少し下がるせいか、その灯りがどれも地面や坂の勾配に近づいて見えるのだ。

 春口のような高低差のある町では、その見え方の差がことさら大きい。

 坂の上から見れば、灯りは下へ沈むように点り、坂の下から見上げれば、灯りはようやく帰る先を教えるものになる。

 第七作で夜航の灯りを見たとき、湊は見えない海に浮く光の位置を知った。

 第九作の今は、その光が勾配の上でどう人を引き寄せ、あるいは遠く感じさせるかを見ようとしている。

 冬灯の坂とは、まさにその感覚のことなのだろうと、夕暮れの窓を見ながら湊は思っていた。


 その日の午後は、曇りがちだった。

 日があるうちは空全体が白く明るいのに、傾き始めると急に色が痩せる。

 冬の春口は、夕方が始まるというより、昼が静かに後ろへ退いていく感じに近い。

 港の上の空から先に冷えて、家々の影が少しずつ長くなる。

 台所ではもう夕食の支度が始まっていたが、窓の外の光は、その音より先に夜のほうへ行こうとしていた。


「今日は」

 汐里が小鉢を並べながら言った。

「ええ」

「坂の灯りを見たほうがいい日かもしれません」

「曇ってるからですか」

「はい。空の明るさが急に消えるので」

「灯りの位置がはっきりする」

「そう思います」


 その言葉通り、夕方が深まるにつれて、町の光点が一つずつ勾配の上に現れ始めた。

 港の低い照明。

 家の窓。

 商店の奥の電球。

 宿の帳場の灯り。

 駅へ上がる坂の途中の街灯。

 橋のたもとにある細い明かり。

 春口では、それらが平面に並ばない。

 上り、下り、少し曲がり、また上る。

 だから冬の灯りは、町の形そのものを現しているように見える。

 光がどこにあるかを追っていくと、そのまま勾配が見えるのだ。


 夕食前の短い時間を使って、湊と汐里は宿から港へ向かう坂を途中まで下り、そのあとまた上ることにした。

 篠原も「今日は景色のほうが語るでしょう」と言って、途中で合流することになっていた。

 宿の戸を閉めると、外気は思った以上に冷たい。

 吐く息がまだ白くなるほどではないが、声を出す前に胸の奥が少し縮む。

 そういう冷え方の中で見る灯りは、ただ明るいというより、身体の行き先を先に決めてしまう力を持つのかもしれない。


 坂を少し下るだけで、宿の灯りがもう上のほうに見えた。

 まだ完全に暗くはない。

 それでも、明るさが低くなったぶん、あの灯りが“戻る場所”であることが昼よりずっとはっきり分かる。

 第七作で知った、人のための上の灯。

 それが今は、冬の勾配の上に置かれている。


「相沢さん」

 汐里が振り返る。

「はい」

「冬の宿の灯りって、少し遠く見えますね」

「ええ」

「でも」

「でも?」

「遠いからこそ、戻る場所として分かりやすい」

「……」

「母が書いた“冬は、灯りまでの坂が少し遠い”って」

「はい」

「つらさだけじゃなくて、灯りの意味が濃くなることでもあるのかもしれません」

 その言葉に、湊は深く頷いた。

 遠い。

 だから重い。

 だが遠いからこそ、そこへ向かう意味がはっきりする。

 春口ではいつも、負担と意味が同じ場所にあるのだろう。


 港の近くまで下りると、今度は逆に坂の上の灯りが一段ずつ並んで見えた。

 宿の灯り。

 途中の家の窓。

 さらに上の坂の街灯。

 その少し向こうに駅の気配。

 夜航の岸壁で見た海の灯りとは違う。

 こちらは町の中の灯りだ。

 だが第七作を通ってきた目には、それらもまた“帰る灯り”“まだ途中の灯り”“生活の灯り”として、自然に種類を持って見え始めていた。


 篠原は港の手前で合流した。

 濃い色のコートの襟を少し立てている。

 冬の夕方の光の中では、その姿もどこか坂の町の人らしく見えた。


「間に合いましたね」

 汐里が言う。

「ええ」

 篠原は坂の上を見ながら答える。

「今日は、かなりきれいに出ています」

「灯りが」

「はい。冬の坂の地図が」


 冬の坂の地図。

 その言い方に、湊は思わず小さく息をついた。

 まさにそうだった。

 昼には見えにくい春口の勾配が、夕方から夜へ入るこの時間だけは、灯りの位置で逆にはっきりする。

 どこが高く、どこが低く、どこで一度止まりやすいかまで、光の連なりが教えてくれる気がした。


「昔の人は」

 篠原が言う。

「灯りで道を知るだけではなく」

「ええ」

「灯りで自分の重さも知ったのかもしれません」

「どういう意味で」

 湊が訊く。

「灯りまでが近い日は、あまり抱えていない」

「……」

「灯りまでが妙に遠い日は、何かを持っている」

「それって」

 汐里が言う。

「かなり身体的ですね」

「冬は、そういう季節でしょう」

 篠原は静かに答えた。

「距離が同じでも、日によって坂の長さが違って感じる」

「はい」

「春口では、それがそのまま人の内側の測りになります」


 その説明は、第九作の題に最も近いもののように思えた。

 冬灯。

 それは単に冬の灯りではない。

 自分がどれだけ重いか、どれだけ遅れているか、灯りまでがどれだけ遠いかで知る季節のことなのだろう。


 三人はそのまま、宿へ戻る坂をゆっくり上った。

 下るときには見えていた宿の灯りが、上りでは少しずつ位置を変える。

 近づく。

 だが近づくほど、勾配もまた身体に出る。

 坂の途中の止まり場に来ると、たしかにここだけ足が少しゆるみ、灯りとの距離を測り直しているような感覚があった。

 湊は、父も澄江も、この場所で何度も同じ灯りを見上げたのだろうと思った。

 夜航の港を見たあと。

 市場から包みを持って戻る夕方。

 橋を渡った朝の帰り。

 そのたびに、灯りは同じところにある。

 だがそこまでの坂の長さは、その日の持ちものによって少しずつ変わる。


「お父さんも」

 汐里が低く言った。

「ええ」

「この灯りまでの距離を、その日ごとに違って感じたんでしょうか」

「たぶん」

 湊が答える。

「港で見たものが重い日は、遠かったかもしれない」

「母も」

「はい。市場で持ち帰ったものや、人の顔で」

「……」

「それでも上った」

「そうですね」


 その“それでも上った”という感覚が、第九作では何より大事な気がした。

 父は決して美しい決意の人ではない。

 澄江もまた、すべてを整理していたわけではない。

 それでも、冬の灯りまでの坂を日々上った。

 その反復の中に、人としての誠実さのようなものがあるのかもしれなかった。


 坂の途中の家では、藤堂の窓に灯りが入っていた。

 小さな黄色い明かりだ。

 あの窓もまた、春口の冬灯の一つなのだろう。

 人の足取りを見てきた窓。

 止まりそうで止まらない人を知っている窓。

 見られているということが、この町ではときに支えになる。

 そのことを、第九作に入ってから湊は何度も思うようになっていた。


「相沢さん」

 汐里が藤堂の窓を見ながら言う。

「はい」

「灯りって、戻る場所だけじゃないんですね」

「どういう意味で」

「見ている場所でもある」

「……」

「宿の灯りも、坂の途中の窓も、家の明かりも」

「そうですね」

「人を迎えるだけじゃなく」

「その人がちゃんと町の中を歩いていると知らせる」

「はい」

「それが春口の冬灯なのかもしれません」


 その言葉で、宿の灯り、港の灯り、藤堂の窓、橋のたもとの灯り、すべてが一つにつながる気がした。

 灯りは道を示す。

 だがそれだけではない。

 人がまだ途中にいて、まだ上りきっていなくて、まだ少し重そうに歩いていることを、町の側が見失わないためにも灯っているのだろう。

 春口の冬のやさしさは、そこにあるのかもしれなかった。


 宿へ着くころには、空はすっかり暮れていた。

 玄関の灯り、帳場の灯り、離れへ行く小さな明かり、どれも昼より小さく見えるのに、意味はずっと濃い。

 汐里が戸を開け、暖かい空気が少しだけ外へ逃げる。

 その一瞬、坂の上にある灯りへ“着いた”感覚が、身体にはっきり入った。

 ただ戻るのではない。

 上りきって、やっと灯りへ入る。

 冬灯の坂とは、その身体の完了を持つ場所でもあるのだろう。


 その夜、湊はノートにこう書いた。


 ――冬の灯りは、勾配の上で人の重さを測る。

 ――灯りまでが遠く見える日は、そのぶん何かを抱えている。

 ――宿の灯り、坂の途中の窓、橋のたもとの明かり。

 ――それらは帰る場所であると同時に、人がまだ町の途中にいることを見失わないための灯りでもある。

 ――父も澄江も、その灯りまでの坂を、重い日にも上ったのだろう。


 書き終えると、階下から汐里の歩く音が聞こえた。

 宿の夜は今日も始まっている。

 第九作も終盤へ入っている。

 次に来るのは、汐里自身がこの冬の坂をどのように上り下りし、宿の人としてさらに立ち上がるか、その時間なのだろうと湊は思った。

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