夜と虎
昨日見た夢が面白かったので。
わたしがこの路地の角に根を下ろしてから、もう何百年になるだろう。
正確なところは覚えていない。わたしが芽を出した頃にはもうこの街は寂れかけていたし、それからさらに寂れた。壁は崩れ、屋根は傾き、人は減った。それでも何軒かの家にはまだ灯りが点る。わたしの枝の届く範囲に暮らしている人間は、今はもう路地の突き当たりに住んでいる老婆と、その孫らしき少女の二人だけだ。
老婆は家の前にバケツを置いている。
古びたブリキのバケツで、中には金魚が何匹か泳いでいる。黒い出目金と赤い出目金が入り混じって、膨らんだ目をぎょろぎょろさせながら狭い水の中をぐるぐる回っている。昼間、少女がバケツの縁に顎を乗せて飽きもせず眺めている姿を、わたしは上から見下ろしている。平和な光景だ。
平和な光景なのだが——あの金魚どもは、まともな金魚ではない。
わたしは知っている。なにしろずっとここに立っているのだ。見たくなくても見える。
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さて。その夜の話をしよう。
月が路地の上に差しかかった頃、ひとりの男がやって来た。千鳥足だった。壁に手をつき、時おり立ち止まっては自分の影に何か話しかけ、またよろよろと歩き出す。着ている服は片方の裾が泥に浸かって黒く汚れていたし、額には妙なところに赤い擦り傷があった。どこかで転んだのだろう。酒の匂いが、わたしの幹のあたりまで漂ってきた。白酒だ。相当やっている。
男はわたしの根元を踏み越え、路地の奥へふらふらと進んでいった。
このまま突き当たりまで行って、老婆の家の戸を間違えて叩いて怒鳴られるか、あるいは途中でしゃがみ込んで寝てしまうか。どちらにしてもよくある夜の出来事だ。この路地は街の飲み屋から帰る者がたまに迷い込む、ただそれだけの道である。
ところが、その夜はそうはならなかった。
わたしは先に気配を感じていた。枝の先が、かすかに震えていた。空気の底を、低いものが這っていた。男は酔いが回りすぎていて気づかない。五歩、六歩と進んで、それから唐突に足を止めた。
男が顔を上げた先に、眼があった。
二対の、大きな眼だった。
路地の真ん中で、二頭の虎が向かい合っていた。
片方は薄い灰色がかった黄金の縞模様で、月明かりの下でも筋肉の隆起がわかるほどに大きかった。こいつには見覚えがある。わたしはそれ以上は言うまい。
もう片方は——異様だった。
赤と黒がまだらに入り混じった毛並みは、虎というよりも何か別のものの色だった。赤黒い縞が炎のように揺らめき、暗い路地に不似合いな極彩色を撒き散らしている。まるで——そう、まるで赤い出目金と黒い出目金をそのまま虎の体に塗りたくったような、悪趣味なほど鮮やかな色彩だった。
ただし、その赤黒い虎には妙なところがあった。動かないのだ。正確に言えば、動けない。四肢を踏ん張り、尾を叩きつけ、凄まじい唸り声を上げてはいるのだが、その体は古いバケツの前から一歩も離れない。まるで見えない鎖で繋がれているかのように。
なるほど、と、わたしは思った。やっているな、あの金魚ども。
男のほうはといえば、そんな仔細に気づく余裕はなかった。酔いが一瞬で覚めたような、しかしまだ体は酔ったままのような、ひどく間の抜けた顔をしていた。口が半開きになっていた。膝が笑っていた。
虎が二頭同時にこちらを見た——ように男には感じられたのだろう。実際にはどちらも男のことなど眼中になかったのだが、酔っ払いにそこまでの観察力を求めるのは酷というものだ。
男は音のない悲鳴を上げ、尻餅をつき、這うようにして後ずさり、わたしの幹に背中をぶつけてから弾かれたように立ち上がると、路地の入り口へ向かって全力で駆けていった。明日の朝にはこの路地で虎を見たと言いふらすのだろうが、誰にも信じてもらえまい。何しろ酔っ払いだ。
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男が消えた後、路地には虎だけが残った。
灰金の虎が、低く身を沈めた。喉の奥で唸りが絶え間なく転がっている。狙いを定めている。筋肉が波打ち、尾が左右にゆっくりと揺れた。
赤黒の虎が応えるように咆哮した。路地の壁が震え、わたしの枝から枯葉が何枚か散った。どこかの家で戸板がびりびりと鳴った。だが、やはり動けない。バケツの前で四肢を踏ん張ったまま、威嚇することしかできない。
二頭の視線が噛み合ったまま、しばらく動かなかった。唸り声だけが路地の底に溜まっていく。石畳が湿気を帯びているように見えたのは、気のせいではない。空気そのものが、二頭の間で軋んでいた。
やがて、灰金の虎が跳んだ。
わたしは一瞬、赤黒い虎に飛びかかったのだと思った。だが違った。あの虎は——こう見えて妙にこざかしいのだ。
前脚が振られたのは、虎の体ではなかった。
バケツだ。
しかし、それは一閃というには——あまりにも貧相だった。虎の前脚がブリキのバケツの縁を引っかけた。それだけだった。がしゃん、という安っぽい音とともにバケツが傾いて、水がばしゃりと石畳に溢れた。その拍子に何匹かの出目金が水と一緒に外へ飛び出した。たったそれだけのことだ。
そして——
ぴちゃん。
それだけだった。
轟くはずの咆哮も、引き裂かれるはずの大気もなかった。ただ、ぴちゃん、という、拍子抜けするほど小さな水音がひとつ。巨大な赤黒の虎の姿が、蜃気楼が晴れるようにあっさりと掻き消えた。
後に残ったのは、濡れた石畳と、水の減ったバケツと、それからこぼれ落ちた何匹かの出目金だった。
赤いのと黒いのが入り混じって、月明かりの下でぴちぴちと跳ねている。膨らんだ目が、濡れた石の上で恨めしそうにぎょろぎょろと動いている。さっきまでの赤黒い虎の威厳は影も形もない。
灰金の虎が、ふん、と鼻を鳴らした——ように見えた。
わたしの枝が風で揺れた。月が雲に隠れかけた。
そのとき、路地の突き当たりの戸が、蹴破るような勢いで開いた。
「臭死猫!給我滚!(このクソ猫! とっとと失せな!)」
老婆だった。寝巻き姿のまま、片手に竹箒を握って仁王立ちしていた。白い髪が振り乱されて、箒を振り上げたその姿は、正直に言って虎よりもよほど迫力があった。
灰金の虎が、たじろいだ。
「我数三下你还不走、明天把你炖了!(三つ数えるうちに消えないと、明日シチューにしてやるよ!)」
老婆が一歩踏み出した。箒の先が石畳を叩いた。乾いた音が路地に響いた。
虎の輪郭が、ぐにゃりと崩れた。
巨大な体が飴のように溶け、縮み、色が褪せていく。金色の縞が消え、筋肉の隆起が萎み、凶暴な牙が小さな歯に戻る。数秒とかからなかった。さっきまで路地を支配していた虎は、もう痩せた灰色の野良猫でしかなかった。背中の毛だけが名残のように逆立っていた。
猫は老婆の剣幕に、ぴゃっ、と情けない声を上げて身を翻した。石畳を蹴り、わたしの幹を駆け上がりかけて——やめて——路地の入り口へ向かって走っていった。
「奶奶、金鱼(おばあちゃん、金魚)」
少女が家の中から出てきた。裸足のまま、眠そうな目をこすりながら。老婆の隣をすり抜けて、濡れた石畳の前にしゃがみ込んだ。
「哎呀 (ああもう)」
老婆がバケツを覗き込み、舌打ちして家の中から水を汲んできた。
少女は跳ねる出目金を一匹ずつ、小さな手のひらですくい上げてはバケツに戻していった。黒いの。赤いの。また黒いの。金魚たちは少女の手の中ではおとなしいもので、さっきまで虎だったとはとても思えなかった。膨らんだ目が、ぎょろりと少女を見上げている。
「好了好了(はいはい、よしよし)」
少女がバケツの中を覗き込んで、指先で水面をつついた。金魚がつつかれた指の周りをぐるぐる回った。少女が小さく笑った。
老婆が少女の肩を叩き、家の中へ促した。戸が閉まった。路地に灯りが戻り、すぐにまた消えた。
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静かになった。
月がまた顔を出して、路地を白く照らしている。バケツの水面が微かに揺れて、光の粒が躍っている。中で出目金どもが何食わぬ顔で泳いでいるのだろう。図太いやつらだ。
わたしは溜息をつくように、枝を揺らした。
その根元に、気配があった。
さっきの猫だ。いつの間に戻ってきたのか、わたしの根の窪みに丸くなって収まっていた。灰色の体を小さく丸めて、尾を鼻先に巻きつけている。箒で追い払われた先がわたしの根元とは、いい度胸をしている。
わたしはしばらく黙って猫を見下ろしていた。猫はわたしを見上げもしなかった。丸まったまま、目を閉じていた。
「……まったく」
わたしは言った。枝を鳴らして。風を使って。人間には聞こえない声で。
「この辺りには昔からろくなものがいない。化ける猫に、化ける金魚。騒がしいことだ。何百年経っても変わらん。変なものの怪ばかりだ」
猫が片目を開けた。金色の目がわたしの幹を見上げた。
「——おまえも大概だろう」
猫はそれだけ言うと、また目を閉じた。尾の先がぱたん、と一度だけ地面を叩いた。
わたしは何も返さなかった。反論の余地がなかったからだ。
路地の上を風が抜けていった。わたしの枝が鳴った。バケツの水面が揺れた。猫の耳がぴくりと動いて、また静かになった。
古い街の夜が、何事もなかったように続いていく。わたしの根元で猫が眠り、路地の突き当たりで金魚が泳ぎ、家の中で老婆と少女が夢を見ている。
明日もきっと、こんな夜が来る。




