【本編】Ep.4 名前を呼ぶ音
見えないはずのものが、少しだけ“そこにいる”ように感じられた朝。
なぎと座敷童子、人形の距離が、静かに動き始めます。
1. 朝の違和感
朝。いつもと同じように、トースターの音が部屋に響く。
トースターの音は、いつも通りだった。
朝の空気はまだ冷たく、窓の隙間から入り込む風が床を薄く撫でていた。
カチリ。じわ、と熱が広がる気配。
窓の外はまだ薄い灰色で、街路樹の影が床に細く伸びている。
なぎはキッチンに立ちながら、ふと足を止めた。
手のひらに残る水滴が、朝の光に小さくきらめく。
なぎ:
「……あれ?」
理由ははっきりしない。
ただ、視線が合う場所が一つ増えたような感覚。
空気がいつもより少しだけ重く、コーヒーの香りがいつもより濃く感じられる。
テーブルの端。
いつの間にか家にあった人形が、昨日と同じ位置に座っている。
だが、光の当たり方が違う。
布の繊維が朝の光を受けて細かく浮かび上がり、影が人形の輪郭を薄く引き締めている。
なぎは、無意識にその人形を「物」として見ていなかった。
なぎ:
「……なんか、今日は……」
言葉にならず、首を傾げる。
背後の壁にかかる時計の秒針が、いつもよりゆっくり進んでいるように感じられる。
座敷童子は少し離れたところで息をひそめる。
人形の隣に、ちょこんと座っている。
白い袖の端が、微かな風に揺れる。
座敷童子:
「……きょう、ちょっとだけ……」
呪いの人形は、じっとなぎを見つめていた。
目は相変わらず曇っているのに、その奥で、何かが“待っている”。
部屋の空気がその期待でほんのり震える。
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2. 見えない会話
なぎはマグカップを二つ……ではなく、一つだけ出して、ふっと笑った。
湯気がゆっくりと立ち上り、光の帯を描く。
なぎ:
「……変だな。
誰か、もう一人いる気がするのに」
座敷童子がびくっとする。
小さな音が、テーブルの上の紙片を震わせる。
座敷童子:
「……っ」
呪いの人形:
「……きづかれてる……?」
声は空気に溶けるように弱く、だが確かにそこにある。
音の輪郭はぼやけていて、なぎの耳には届かないかもしれない。
だが、部屋の温度が一度だけ下がったように感じられた。
座敷童子は小さく首を振る。
座敷童子:
「だいじょうぶ。
この人、こわがらないから」
なぎは独り言のように続ける。
手の動きはゆっくりで、泡立つコーヒーの表面に小さな波紋が広がる。
なぎ:
「まぁ、いっか。
増えても、減っても……ここは、ここだし」
トースターが跳ねる。
パンの香りが広がる。
窓の外で自転車のベルが一度鳴り、遠くの犬の声がかすかに混ざる。
そうした生活音が、部屋を「快適」に保っている。
その瞬間、人形の肩が、ほんのわずかに下りた。
布の繊維が擦れる音が、耳に届かないほど小さく響く。
呪いの人形:
「……ここ、いていいの……?」
声は、空気に溶けるだけ。
でも、その問いは確かに生まれていた。
なぎの胸に、見えない何かが触れるような感覚が走る。
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3. 触れる気配
なぎがテーブルを拭こうとして、布巾を滑らせる。
木の板に触れる布の擦れる音が、部屋の静けさを満たす。
そのとき。指先に、一瞬だけ、布の感触。
なぎ:
「……っ」
反射的に手を引く。
心臓が一拍、早く打つ。
光が一瞬だけ揺れ、窓の向こうの雲が流れるのが見えた。
なぎ:
「今……」
視線の先には、人形。
何も動いていない。
けれど、さっきまでと違う。
「そこに、いる」
そう感じてしまった。
座敷童子は息を止めている。
人形も動かない。
数秒の沈黙の中で、部屋の音が細部まで聞こえてくる。
冷蔵庫の低い唸り、遠くの車のタイヤ音、スマホの通知ランプの微かな点滅。
なぎは、ゆっくり息を吐いた。
なぎ:
「……気のせい、か。
でも――」
人形の前に、布巾をそっと置く。
布の端が人形の膝に触れ、そこだけ影が濃くなる。
なぎ:
「落ちそうだったよ」
それだけ言って、優しく置き直してから背中を向けた。
背中越しに、なぎの肩のラインが夕光に溶ける。
その背中を見つめながら、呪いの人形の胸の奥で、何かがほどけた。
呪いの人形:
「……やさしい……」
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4. 動かない、という選択
夜。なぎの寝息が安定して、部屋の音が完全に落ち着いたころ。
窓の外の街灯が薄く差し込み、埃の粒が光の帯を描く。
人形は、音を立てない歩き方で、そっと床に降りた。
足音はない。
だが、床板に残る微かな振動が、確かに一歩ずつ進んでいることを告げる。
座敷童子:
「……やっぱり、動けるんだね」
呪いの人形:
「……うん。
でも、あの人の前では……だめ」
「……動くとね、
“物じゃなくなる”でしょ」
座敷童子:
「……うん」
呪いの人形:
「“物じゃない”って、
捨てられること、あるから」
一瞬、夜の空気が冷える。
窓の外を通る風が、木の葉をさらりと揺らす。
座敷童子は、人形の袖をぎゅっと掴んだ。
白い布が小さくしわになる。
座敷童子:
「……ここでは、だいじょうぶ」
人形は、静かに頷く。
人形は慣れているように、小さい手でペンを持つ。
テーブルの上に置かれたメモ帳に、ペン先が触れる音がほんのわずかにする。
インクの匂いが、紙の繊維にしみ込む。
呪いの人形はペンを取り、ゆっくりと文字を書く。
——
「此処に在りと雖も、可なりや」
——
座敷童子は、その文字をじっと見る。
オレンジ色のグローランプの光がインクの黒を際立たせる。
座敷童子:
「……何て書いたの?」
呪いの人形:
「……ここにいても、いいですかって」
座敷童子:
「もちろん、いいに決まってるよ。
だって、もう“いる”もん」
人形は、少しだけ笑った気がした。
布の口元が、ほんのわずかに緩む。
ペンを置き、元の場所に戻り、完璧な静止に戻る。
その直後、なぎが寝返りを打つ。
布団の擦れる音が、部屋の静けさを破る。
なぎ:
「……ん……」
人形は、もう一切動かない。
呼吸すら、しない。
けれど、その“動かない選択”の裏側には、確かな意思があった。
窓の外の街灯が、二つの影を長く伸ばす。
古いスマホからは静かな曲が流れている。
静かなピアノの音が部屋の床を微かに震わせる。
座敷童子は人形の隣に座っている。
二人の影が重なり、ゆっくりと揺れた。
座敷童子:
「ねぇ……なまえ、ある?」
呪いの人形は、少し考える。
部屋の空気が、名前を探すように静まる。
呪いの人形:
「……あったけど……
呼ばれなくなって……
わからなくなった。」
座敷童子は、少しだけ胸が痛む。
座敷童子:
「じゃあ……いまは、ここにいる人形、でいいよ」
呪いの人形:
「……うん」
その会話を、なぎは知らない。
けれど――なぎは布団をかけ直しながら、ぽつりと呟いた。
なぎ:
「……おやすみ。
みんな」
その言葉は、誰かに向けたものではないはずなのに、
確かに、二つ分の返事があった。
座敷童子の小さな吐息と、人形の布の擦れる音が、同時に部屋を満たす。
灯りが消える。
闇の中で、座敷童子の輪郭がほんの少しはっきりする。
呪いの人形の影も、昨日より、わずかに濃い。
二人は並んで、なぎの眠る方を見る。
座敷童子:
「……ここ、いいでしょ」
呪いの人形:
「……うん。
あったかい」
なぎの寝息が、静かに続く。
見えないけれど、確かに同じ空間にいる。
三つの気配が、同じ夜を、同じ家で過ごしていた。
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次話:【本編】Ep.5 灯りの外から来たもの
2026/3/13 20:00に更新します




