第5話 声明文――再審査条項
療養院へ戻る道のりで、透は自分の呼吸の数を数えていた。
数えると落ち着く。落ち着くと、現実が輪郭を持つ。輪郭を持つと、吐き気がする。
冷たい空気が鼻腔の奥を刺し、肺の内側がきしむ。
息を吐くたび、喉の奥がひりつく。
さっき路地で聞いた勇者の息――熱と寒さが同居した、あの荒い息が、まだ耳の裏に残っている。
「……期限」
あの一語。
透はあの場で頷いた。
期限の再審査。記録に残す。声明も出す。
口にした瞬間、自分の言葉が“約束”という形を取った。
約束は救いだ。救いは、人を黙らせるのにも使える。
療養院の白い壁が見えたとき、透は気づいた。
ここに戻るだけで、体温が落ちる。
温度が落ちると、心も落ちる。落ちると、考えが冷える。
冷えた考えは、いつも“整って”いる。
整っていることが、怖かった。
廊下に入ると、魔法灯の光は均一で、足音は吸われる。
音の少なさが逆に耳を痛くする。
回収班が担架を押していく。白い布。保護の札。
“乱暴さ”は一つもないのに、勇者の体温だけが奪われていく。
白衣が言った。
「透さん、すぐに文書室へ」
「文書室……?」
「声明文と、条項の改定です」
改定。
その言葉が、透の背骨を軽く叩いた。
現場で起きた出来事が、紙に変換される。
紙になった瞬間、それは“正しさ”になる。
文書室は苦情処理室の隣にあった。
扉を開けると、紙の匂いがする。乾いたインクの匂い。
机が並び、棚に帳票が詰まっている。
紙は、人の声より長く残る。
白衣が机の上に二つの束を置いた。
一つは、薄い束。
表紙に太字で 「対外声明(案)」。
もう一つは、厚い束。
「勇者療養措置運用要領(内部)」。
ページの端には、赤い付箋が何枚も刺さっている。
刺さっている付箋が、まるで針みたいに見えた。
「先に声明を」
白衣が言う。
透は椅子に座った。
座っただけで肩が重い。
机に掌を置くと、木が冷たい。冷たさが指先から上がってくる。
胸の奥が、それに合わせて硬くなる。
声明文の案には、すでに綺麗な言葉が並んでいた。
『当国は勇者殿を保護し、療養措置を講じております。
勇者殿は過負荷状態にあり、世界の安定のため発話の制限を一時的に実施しております。
本措置は医療的判断に基づくものであり、勇者殿の尊厳と安全を最優先にしております。』
“尊厳”。
“安全”。
“医療的判断”。
透は文字を追うだけで、舌の裏が乾いた。
医療。
医療は、信じるための言葉だ。
信じるための言葉だから、疑うのが悪に見える。
疑うのが悪に見えるから、閉じるのが容易になる。
透はペンを握った。
指に力が入って、関節が白くなる。
「……期限のことがない」
白衣が瞬きを一つした。
「期限?」
「回収の現場で、条件として――再審査を約束しました」
白衣は、ため息をつかなかった。
その代わり、丁寧に言った。
「対外声明に期限は書きません」
「なぜ」
「“期限”は期待になります。期待は揺れます。世論も揺れます」
透の胸が熱くなった。
怒りの熱だ。
でも怒りは声にしない。声にすると、ここでは負相に見える。
「勇者本人に言ったんです。期限があるって」
「言ったのは“再審査”でしょう」
白衣は淡々と返す。
「再審査と期限は違います。再審査は制度の中で行えます。期限は制度を縛ります」
透は息を吸って、止めた。
止めると心臓の音が大きくなる。
体内の音が、外よりうるさい。
「……じゃあ、再審査を明記してください。声明に」
白衣は少しだけ首を傾げた。
「声明に“審査”の文言は入れられます。だが、頻度や条件は書けません」
透は舌を噛んだ。
噛むと顎が痛い。痛いと怒りが現実になる。
「書きます」
透はペンを走らせた。
綺麗な文章の隙間に、細い針を差し込むように。
『本措置は状況に応じて定期的に見直し、適切な段階的緩和を検討いたします。』
“定期的”。
“見直し”。
“段階的緩和”。
その程度しか書けない。
書けないことが、透の胸の奥を黒く染める。
白衣が頷いた。
「それで十分です。これ以上は炎上します」
炎上。
ここでも、危機は言葉として処理される。
勇者ではなく、世論の。
透はペンを置いた。
指先が冷たい。掌が汗で湿っている。
汗は熱い怒りの証拠で、指先の冷えは諦めの証拠だった。
「次、内部条項」
白衣が厚い束を開いた。
赤い付箋が刺さっているページに、最初から線が引かれている。
「期限再審査条項(新設)」
透の心臓が一瞬だけ速くなった。
ある。作られている。
でも“作られている”だけだ。中身が問題だ。
白衣が示す。
「あなたが現場で提示した条件を、制度に組み込みます」
透はその言い方に、薄い希望を感じそうになって――すぐに打ち消した。
希望は揺れる。ここでは希望も危険だ。
条項案にはこうあった。
『勇者本人または担当医の申請により、発話制限の緩和に関する再審査を実施する。
再審査の可否および時期は、安定指数・揺れ指数・結界負荷を総合的に勘案し、委員会が決定する。
なお、緊急沈黙条項は優先される。』
透は目を細めた。
「……“時期は委員会が決定”」
「当然です」
「“本人または担当医の申請”」
「担当医が代理できます」
「それって、本人が求めても、担当医が止めたら終わりです」
白衣は否定しなかった。
「医療措置ですから」
その瞬間、透の中で何かが折れた。
医療。
医療だから、医療が言えば正しい。
医療だから、医療が止めれば止まる。
医療だから、誰も“暴力”と言わない。
透は怒りで視界が少しだけ狭くなるのを感じた。
頬が熱い。耳の奥が熱い。
それでも声は出さない。声を出したら負けだ。
負けると“治療対象”にされる。
透は、冷たい声で言った。
「再審査って言いながら、無限に先延ばしできる」
白衣が淡々と返す。
「先延ばしではありません。安定化のためです」
安定化。
便利な言葉だ。
何でも飲み込める。期限も、怒りも、救いも。
透は机の端を指でなぞった。
いつもの癖。現実の輪郭を確かめる。
木目がざらついている。ささくれが指に引っかかる。
痛みが小さく、妙に心地いい。
「……僕は、約束した」
透は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
声は小さい。誰に刺さるでもない。
それでも、自分の胸には刺さる。
白衣が言う。
「約束を“文書”にしてください。文書は守れます」
透は笑いそうになった。
文書は守る。
守るのは誰だ?
守られるのは誰だ?
透はペンを握り直した。
そして、条項の文面に、ほんの一行を足した。
『再審査は原則として三十日ごとに実施する。』
“原則として”。
逃げ道のある言葉。
でも、ゼロよりはマシだ。
白衣がその一行を見て、眉を動かした。
「三十日は短い」
「短い方がいい。勇者が壊れない」
「壊れないのは、声を預かっているからです」
透は顔を上げた。
白衣の目は揺れていない。
揺れていない人間がいちばん怖い。揺れていない人間は、制度そのものだからだ。
「声を預かってるから壊れてないんじゃない。壊れてるのを見えなくしてるだけだ」
透は言ってしまった。
言ってしまってから、喉がひりついた。
声に熱が混ざったのが分かる。
負相になりそうな熱だ。
白衣は静かに言う。
「透さん。落ち着いて。あなたはEです。刺さりません」
刺さらない。
その言葉が、透を少しだけ安堵させて――同時に、ぞっとさせた。
刺さらないなら、何を言ってもいいのか。
刺さらないなら、何を作ってもいいのか。
刺さらない人間が、刺さる人間の檻を作る。
それがこの世界の最適解になる。
透は、自分の手のひらを見た。
指先にインクがついている。
黒い点が、皮膚の線に入り込んでいる。
黒い。
消えない。
白衣が文面を取り上げ、赤ペンで一行を修正した。
**『三十日ごと』が、『適宜』**に変わる。
“適宜”。
何でもできる言葉だ。何も守らない言葉だ。
透の胸が沈んだ。沈んで、底に触れた。
底に触れると、人は別の方向へ進める。
上に戻るのが苦しいからだ。
透は、息を吐いた。
吐いた息が、机の上で冷える。
冷えた息が、怒りを冷やし、怒りは別の形に変わっていく。
“諦め”ではない。
“理解”でもない。
――“使い方”だ。
医療の言葉は盾になる。
盾になるなら、盾として使われる。
使われるなら、こちらも使うしかない。
透は自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「じゃあ、勇者本人に渡す文書を別に作ります」
白衣が目を細めた。
「別紙?」
「条件書。本人に説明するための“やさしい文書”です」
白衣は一拍だけ迷った。
迷ったのは、善悪の迷いじゃない。
運用上の迷いだ。
「……許可します。ただし、内部文書と齟齬は作らないでください」
齟齬。
齟齬を作ると問題になる。
問題になるのは、誰のためだ。勇者のためではない。
透は紙を引き寄せた。
インクの匂いが濃い。
ペン先が紙に触れると、さらり、と音がする。
その音が、妙に気持ちよかった。
透は“やさしい文書”を書き始める。
やさしい言葉で、牢を作る。
『条件書(説明用)
・発話制限は永続ではありません。状況に応じて見直します。
・本人の希望は記録し、再審査の対象とします。
・緊急時は医療的判断により一時的に沈黙処置を行います。』
“永続ではありません”。
嘘ではない。
無期限でも、永続ではない。
永続の定義は曖昧だから、嘘にならない。
透は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
軽くなるのが恐ろしい。
言葉で罪悪感が薄まる。
罪悪感が薄まると、次はもっと上手くできる。
透は気づいた。
自分はこの仕事に向いている。
向いていることが、いちばん絶望的だ。
白衣が言った。
「声明文は今夜中に出します。回収の件も“保護搬送”として公表します」
透は頷いた。
頷きながら、腹の底に黒いものが沈んでいくのが分かった。
保護搬送。
医療措置。
尊厳。
安全。
正しい言葉が、すべてを覆う。
覆われたものは見えなくなる。
見えなくなれば、揺れは減る。
揺れが減れば、税が安定する。市場が戻る。結界が張れる。治癒が戻る。
――世界は救われる。
透は、ペンを握ったまま、手の甲の血管が浮くのを見た。
握る力が強い。
強いのに、震えはない。
震えない自分が怖い。
「透さん」
白衣が穏やかに言った。
「あなたはよくやっています。勇者も落ち着きました」
その言葉に、透は怒りが湧く。
落ち着いたのは、言葉を抜かれたからだ。
落ち着いたのは、白い布で体温を奪われたからだ。
落ち着いたのは、叫べないからだ。
それを“良いこと”と言う。
医療は、こういうとき最強の正義になる。
透は口を開きかけて、閉じた。
言えば刺さらない。刺さらないから言っていい。
――その発想がもう、闇だ。
透は代わりに、紙に書いた。
声ではなく、文書で。
文書なら刺さる。
刺さる先を選べる。
選べるなら、世界を動かせる。
透は、誰にも聞こえない呼吸で笑った。
笑いは出ない。息だけが漏れる。
そして思った。
この世界は、声で揺れる。
なら、声を管理する者が世界を管理する。
勇者ではなく。
剣でもなく。
魔法でもなく。
言葉の檻を作る者が。
透はその檻の鍵束を、もう手放せない。
―――――――――――
円卓の部屋は、静かだった。
静かすぎて、
誰かが椅子に体重を預けるたび、
木がきしむ音がはっきり聞こえる。
透は壁際に立たされていた。
背中に、じっとりと汗が滲む。
暖房は効いていない。
それでも暑い。
人の体温が、
逃げ場を失って溜まっている。
「回収は完了したか」
王の声は低い。
だが、最後の音がわずかに擦れる。
喉が、乾いている。
「はい」
祠守が答える。
答えながら、
無意識に親指で指輪を回す。
きゅ、きゅ、と
小さな摩擦音。
「負傷は」
「軽微です」
祠守は即答した。
即答の直後、
一度だけ瞬きをする。
早すぎる瞬き。
緊張が抜けていない。
「揺れは」
王が続ける。
質問は短い。
だが、唾を飲み込む音が先にした。
「沈静化に向かっています」
祠守の声は滑らかだ。
だが、息を吐くのが、
言葉の後になっている。
「では、現行のままで」
王が言った。
言い終わる前に、
太腿に置いた手の指が、
ぎゅっと揃う。
爪が、布に食い込む。
誰も反論しない。
反論する必要が、
そもそも想定されていない。
「声明は」
「“過負荷による保護措置”で出します」
祠守が言う。
“弱いから”ではない。
その言い換えが、
ここでは配慮になる。
王が、短く頷く。
頷きの角度が、
ほんの少しだけ浅い。
迷いではない。
確認の終了だ。
会話は、それで終わった。
誰も立ち上がれと命じない。
だが、全員が同時に立つ。
椅子が引かれる音が、
重なって、
一つの音になる。
透は、その音を聞きながら思った。
ここでは、
誰も「決めて」いない。
だが、
誰も「止めて」いない。
回収班が勇者を閉じ、
街が静まり、
治癒が通る。
その流れが、
呼吸みたいに繰り返されている。
これは独裁じゃない。
合議ですらない。
慣性だ。
止めるには、
誰かが息を乱さなければならない。
透は、
自分の呼吸が
さっきから少し早いことに気づいた。
それを、
ここで乱すべきなのか。
それとも――
この部屋の呼吸に、
合わせてしまうのか。
円卓の部屋を出るとき、
背中の汗が、
一気に冷えた。




