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勇者枠、満席。――クレーム係は異世界に誤配属された  作者: ちわいぬ
第一章

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第4話 回収班

――――――――――

初代在来勇者の奉声

――――――――――


白い石の座は、冷たかった。


触れた瞬間、冷たいと理解する前に、

腰と腿の奥がひきつる。


初代在来勇者は、座らされていた。

自分から座った。そういう体裁だった。


だが、立ち上がろうとすれば、

足が先に震えるのが分かっていた。


――動くな。


誰もそう言っていない。

それでも、空気がそう命じている。


背筋を伸ばすと、

胸の奥で息が引っかかった。


吸える。

だが、深く吸うと、

喉の奥がひりつく。


乾いている。


唾を飲み込もうとして、

音が出るのを恐れて、途中で止める。


喉が鳴りかけて、鳴らない。


その感覚が、

**この場では「正しい」**と、

身体が理解してしまう。


石の座の前に、白い布が垂れている。

布の向こうに、誰かがいる。


見えない。

だが、見られている感覚だけは、確かにある。


息が合わされる。


一つ。

また一つ。


初代は、自分の呼吸が、

この場の呼吸に同期させられていることに気づいた。


速すぎてもいけない。

遅すぎてもいけない。


“ちょうどいい”呼吸。


そのちょうどよさが、

一番、身体を縛る。


首に、何かが触れた。


冷たい。

石より冷たい。


皮膚の上をなぞるだけなのに、

喉が勝手にきゅっと縮む。


声が、

喉の奥へ押し戻される。


恐怖でそうなるのではない。

条件反射だ。


ここで声を出すと、

何かが壊れる。


それを、説明される前に、

身体が知ってしまっている。


問いが、布の向こうから投げられる。


意味のある言葉だ。

だが、初代の耳には、

意味より先に圧として届く。


答えは、許されている。


拒否も、許されている。


――形式として。


初代は、息を吸った。


深く吸おうとして、

途中でやめた。


深く吸うと、

声が漏れる気がしたからだ。


唇が、わずかに震える。


歯を噛みしめる。

顎が痛む。


それでも、

声を出そうとする筋肉だけが、

勝手に動く。


出たい。

叫びたい。


それは意思じゃない。

生理だ。


生きている身体が、

声を欲しがる。


「――」


音になる前に、

喉が閉じた。


閉じた、というより、

閉じさせられた。


誰かが触れたわけじゃない。

だが、確かに“力”があった。


初代は、理解した。


ここで差し出すのは、

命じゃない。


声だ。


声を差し出せば、

この圧は、消える。


息が楽になる。

喉が、解放される。


その未来が、

餌みたいに提示されている。


初代は、唾を飲んだ。


今度は、音が出た。


小さな音だった。

それだけで、空気がぴんと張る。


肩が、反射的にすくむ。


怖い。


だが、同時に――

これでいい、という感覚が、

胸の底に沈んでくる。


声を失えば、

責められない。


声を失えば、

壊さずに済む。


それは、

逃げでもあり、

救いでもあった。


初代は、

声を出さなかった。


代わりに、

声を出すことを、やめた。


その瞬間、

喉の奥が、熱を失う。


じん、とした痛み。

痛みなのに、安堵が混じる。


呼吸が、楽になる。


世界が、静かになる。


布の向こうで、

誰かが息を吐く気配がした。


成功だ。


その言葉を、

誰も口にしない。


だが、初代の身体は分かっていた。


――これで、終わりだ。


終わったのは、

儀式ではない。


声だ。


そして、その沈黙は、

祠の奥に残された。


同じ沈黙が、

何百年後、

別の名前で呼ばれることになる。



――――――




警報の鈴は、音としては小さかった。

それなのに、透の体内のどこかが先に反応した。


胃がきゅっと縮む。背中の皮膚が熱いような寒いような感覚でざわつく。

喉が乾く。さっきまで言葉を整理していた口の中が、急に“砂”になる。


白衣が短く言った。


「逃亡です。勇者が一人、抜けた」


逃亡――。

その単語の硬さが、透の胸骨の内側を叩いた。

理解と現実は違う。現実は、息を奪う速度で来る。


個室の勇者は、もう声を預けさせられている。

目だけが開いていて、その目が透の顔を見ていた。


責めているように見えたのは、たぶん透が自分を責める準備をしていたからだ。

罪悪感は、呼吸より先に立ち上がる。

――俺が説明した。俺がペンを置いた。俺が“構造”だと言った。


白衣が透の肘を軽く引いた。

その指の温度が、思いのほか冷たい。


「透さん。同行します」


「……僕が?」


自分の声が耳に返ってきて、透はぞわりとした。

声を出すこと自体が、この世界では危険の予感を連れてくる。

自分はEで刺さらないはずなのに、恐怖が“刺さる感覚”を作る。


「あなたは“処理室”です。回収現場の一次対話が必要になります」


一次対話。

現実の職場みたいな言い方が、また胃を締め付けた。

命の話を、手順の言葉で包む。

包めてしまうことが、この制度の強さだ。


透は息を吸って、吐いた。

吸うとき、肺が冷える。吐くとき、喉が痛い。

身体が現実に追いつこうとしている。


廊下に出ると、回収班はもう揃っていた。


甲冑ではない。白と灰の制服。動きやすい布地。

胸元に薄い金属札――保護搬送。

医療チームのように見える。見えてしまう。

だから信じかける。信じかけて、裏切られる準備が整う。


革袋の口から、黒い札が覗く。封声符。

沈黙杭。鎮静針。

救う道具ではない。壊さずに閉じる道具。


隊長格が短く指示を出す。


「沈黙結界、準備。封声符、二枚。鎮静は最終。まず“保護”だ」


“まず保護”。

透はその言葉に、別の意味を嗅いだ。

保護――正しい言葉。正しい言葉は、反論しにくい。

反論しにくいから、隠せる。


白衣が透にだけ小さく言う。


「逃亡者はAの可能性が高い」


A。勇者波形。世界に刺さる声。

透の掌が汗ばむ。指先が冷える。

汗と冷えが同時に来るのが、恐怖だ。


外へ出ると、療養院の白い清潔さが剥がれ落ちた。

空気が荒い。冬の冷気が頬を叩く。

鼻の奥がつんとする。遠くの街が、音になりきらないざわめきを抱えている。


魔法灯が、ぱち、と瞬きをする。

一瞬、光が薄くなる。

水盤が波打つ。

透は足裏に、微かな振動を感じた。地面ではない。空気だ。

空気の密度が変わる、みたいな――息が重くなる感覚。


街角で口論が起きた。


「だから違うって言ってるだろ!」

「黙れよ、黙れ!」


短い。尖っている。

怒りの発火点が低い。

透は背中が冷たくなる。揺れの余波だ。

結界の乱れが、人の心の摩擦を増やしている。


隊長が手を上げた。

全員が止まる。

止まった瞬間、透の心臓が一拍遅れて跳ねる。止まると怖い。動いている方がまだマシだ。




勇者波形は“声”になる前の呼気や喉の震えだけでも空気に滲む。

結界が張られていない路地でそれが漏れると、滲みは数拍遅れで街へ届き、口論の火種に酸素を流し込む。

一度火がつけば、治癒が通らない夜になる――だから杭は、打つのが一瞬でも遅れられない。




隊長が地面に、小さな杭を打った。沈黙杭。

打ち込む音は小さいのに、空気が変わった。

耳の奥に膜が張る。街の音が一枚、遠くなる。


その膜の向こうで、聞こえないはずの“声”があった。

声になりかけた波。喉の奥で擦れる、荒い呼吸。

透は背筋でそれを感じた。


「この先」


隊長が、指を二本立てる。

回収班が左右に割れた。

透も割れた。白衣に押されるように、路地の入口に立たされる。


路地は狭い。壁は湿っている。

かすかに尿の匂い。腐った果物の匂い。

現実の匂いだ。

療養院の匂いより、ずっと生きている。


奥に、人影があった。


肩で息をしている。

身体が熱を持っているのが、距離でも分かる。

吐く息が白いのに、肌は汗で濡れている。

寒さと熱が同居している。


勇者だ。


目がぎらついている。

声を出そうとして、出すのを止めている。

喉元を押さえている。

押さえても、波形は漏れる。漏れているから、揺れが出る。


勇者が透を見た。

一瞬、目が揺れる。

怯え。怒り。屈辱。

その全部が混ざって、同じ目でこちらを射抜く。


透は唇を開きかけて、閉じた。

外で話すと、刺さる。

だから回収班が沈黙杭を打った。

この膜の中なら、声は世界に届きにくい。


白衣が透にだけ囁く。


「短文で。刺激しない」


刺激しない。

でも刺激しない言葉は、相手を見ていないことにもなる。

透は喉が痛いのをこらえ、声を出した。


「――ここは安全です」


自分で言いながら、嘘みたいだと思った。

安全は、相手が決める言葉だ。


勇者が、掠れた声で笑った。

笑いというより、息が漏れた。


「……安全?」


その一言に、路地の空気が震えた。

沈黙杭が効いているはずなのに、それでも空気が重くなる。

壁の水滴が、細かく震える。

透の鼓動が一段速くなる。

胸が熱い。指先が冷たい。


隊長が、封声符を二枚、指に挟む。

紙が、紙じゃないみたいに硬い。薄い刃物みたいだ。


透は言葉を切り分ける。

“安全?”は挑発ではない。確認だ。

「ここは安全です」と言われた側が感じるのは――裏切りへの恐怖。


透は一歩だけ前に出た。

息が路地の冷気に触れて痛い。


「あなたが怖いのは、閉じられることだ。

声を奪われることだ。期限が無いことだ」


勇者の目が動いた。

当たった。

当たった瞬間、透の背中に汗が流れた。

怖い。正解を言うのも怖い。正解は相手を追い詰める。


勇者が言った。


「……お前らは……俺を……」


言葉が続かない。

続けたら逆相が漏れる。

本人がそれを分かっていて、言葉を飲み込む。

それがいちばん苦しそうだった。


透は、その苦しさを“要求”に変える。


「あなたは、言わせろって言ってる」


勇者の喉が震えた。

声が出ない代わりに、息が荒くなる。

息だけで揺れが出るのが、透には恐ろしい。


透は続けた。


「今ここで叫んだら、結界が薄くなる。治癒が揺れる。

街の人間が先に壊れる。あなたのせいじゃない。構造だ」


言ってしまった。

またその言葉。構造。

透は自分の口の冷たさに、遅れて気づいた。

冷たい言葉が、熱い恐怖の上に乗る。


勇者の目が、ほんの少しだけ潤んだ。

泣く余裕が残っているのが、残酷だと思った。


隊長が封声符を構える。

透はそれを見て、胃が反射的にひきつる。

“保護”は、紙一枚で喉を閉じることなのか。


透は急いで言った。


「交渉ができます。条件を言ってください。短文で。今なら――」


勇者が息を吸った。

吸った瞬間、空気が重くなる。

透は本能で分かった。これから“刺さる”。


勇者は、短く吐いた。


「……期限」


それだけだった。

その一語で、透は胸が痛くなった。

欲しいのはそれだ。期限。未来の形。

声を奪われても、終わりの見込みがあれば耐えられる。


透は頷いた。


「期限の再審査。記録に残す。声明も出す。

あなたが“弱いから”じゃない。“過負荷だから”だと」


勇者の呼吸が、ほんの少しだけ落ちた。

落ちた瞬間、路地の空気も軽くなる。

世界が、少しだけ戻る。


隊長が封声符を下ろした。

しかし下ろしただけだ。しまってはいない。


白衣が透の耳元で言う。


「今のを文書化できますか」


透の胸が沈む。

言葉が文書になるとき、それは救いにも牢にもなる。


透は頷いた。

頷けてしまうことが、怖い。

自分が“使える人間”になっていく。


回収班が近づく。

鎮静針はまだ出ない。封声符も使われない。

代わりに、白い布が肩に掛けられる。

保護の演出。医療の演出。


透は、その布が勇者の体温を奪うのを見た。

勇者の肩の熱が、布に吸われていく。

熱が奪われると、人は大人しくなる。

それを“優しさ”に見せるのが、この制度の上手さだ。


勇者は最後に、透へ短く言った。


「……お前……」


言葉が続かない。

続けたら揺れる。

勇者は唇を噛み、息だけを吐いた。

その息が白くほどけて、沈黙結界の膜にぶつかって消えた。


透は、返事ができなかった。

返事の言葉が、どれも嘘に聞こえる。


担架が来る。

勇者が運ばれる。

保護搬送。そう呼ばれる回収。


透は、自分の掌を見た。

汗で濡れている。冷たい。

自分の体温すら、信用できない。


白衣が言う。


「戻ります。療養院へ」


透は歩き出した。

足が重い。

でも止まれない。止まったら、自分が何を見たのか分からなくなる。


揺れは、まだ終わっていない。

揺れはたぶん、勇者が叫んだときだけじゃない。

“保護”の名の下で人が閉じられるたびに、別の形で積み上がっていく。


透は、その積み上がりを、言葉で処理する仕事を任された。


そして気づく。

自分の中にも、静かな揺れが始まっている。


罪悪感と混乱と絶望の混ざった揺れ。

――腹の底に沈む、黒い納得。

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