第4話 回収班
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初代在来勇者の奉声
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白い石の座は、冷たかった。
触れた瞬間、冷たいと理解する前に、
腰と腿の奥がひきつる。
初代在来勇者は、座らされていた。
自分から座った。そういう体裁だった。
だが、立ち上がろうとすれば、
足が先に震えるのが分かっていた。
――動くな。
誰もそう言っていない。
それでも、空気がそう命じている。
背筋を伸ばすと、
胸の奥で息が引っかかった。
吸える。
だが、深く吸うと、
喉の奥がひりつく。
乾いている。
唾を飲み込もうとして、
音が出るのを恐れて、途中で止める。
喉が鳴りかけて、鳴らない。
その感覚が、
**この場では「正しい」**と、
身体が理解してしまう。
石の座の前に、白い布が垂れている。
布の向こうに、誰かがいる。
見えない。
だが、見られている感覚だけは、確かにある。
息が合わされる。
一つ。
また一つ。
初代は、自分の呼吸が、
この場の呼吸に同期させられていることに気づいた。
速すぎてもいけない。
遅すぎてもいけない。
“ちょうどいい”呼吸。
そのちょうどよさが、
一番、身体を縛る。
首に、何かが触れた。
冷たい。
石より冷たい。
皮膚の上をなぞるだけなのに、
喉が勝手にきゅっと縮む。
声が、
喉の奥へ押し戻される。
恐怖でそうなるのではない。
条件反射だ。
ここで声を出すと、
何かが壊れる。
それを、説明される前に、
身体が知ってしまっている。
問いが、布の向こうから投げられる。
意味のある言葉だ。
だが、初代の耳には、
意味より先に圧として届く。
答えは、許されている。
拒否も、許されている。
――形式として。
初代は、息を吸った。
深く吸おうとして、
途中でやめた。
深く吸うと、
声が漏れる気がしたからだ。
唇が、わずかに震える。
歯を噛みしめる。
顎が痛む。
それでも、
声を出そうとする筋肉だけが、
勝手に動く。
出たい。
叫びたい。
それは意思じゃない。
生理だ。
生きている身体が、
声を欲しがる。
「――」
音になる前に、
喉が閉じた。
閉じた、というより、
閉じさせられた。
誰かが触れたわけじゃない。
だが、確かに“力”があった。
初代は、理解した。
ここで差し出すのは、
命じゃない。
声だ。
声を差し出せば、
この圧は、消える。
息が楽になる。
喉が、解放される。
その未来が、
餌みたいに提示されている。
初代は、唾を飲んだ。
今度は、音が出た。
小さな音だった。
それだけで、空気がぴんと張る。
肩が、反射的にすくむ。
怖い。
だが、同時に――
これでいい、という感覚が、
胸の底に沈んでくる。
声を失えば、
責められない。
声を失えば、
壊さずに済む。
それは、
逃げでもあり、
救いでもあった。
初代は、
声を出さなかった。
代わりに、
声を出すことを、やめた。
その瞬間、
喉の奥が、熱を失う。
じん、とした痛み。
痛みなのに、安堵が混じる。
呼吸が、楽になる。
世界が、静かになる。
布の向こうで、
誰かが息を吐く気配がした。
成功だ。
その言葉を、
誰も口にしない。
だが、初代の身体は分かっていた。
――これで、終わりだ。
終わったのは、
儀式ではない。
声だ。
そして、その沈黙は、
祠の奥に残された。
同じ沈黙が、
何百年後、
別の名前で呼ばれることになる。
――――――
警報の鈴は、音としては小さかった。
それなのに、透の体内のどこかが先に反応した。
胃がきゅっと縮む。背中の皮膚が熱いような寒いような感覚でざわつく。
喉が乾く。さっきまで言葉を整理していた口の中が、急に“砂”になる。
白衣が短く言った。
「逃亡です。勇者が一人、抜けた」
逃亡――。
その単語の硬さが、透の胸骨の内側を叩いた。
理解と現実は違う。現実は、息を奪う速度で来る。
個室の勇者は、もう声を預けさせられている。
目だけが開いていて、その目が透の顔を見ていた。
責めているように見えたのは、たぶん透が自分を責める準備をしていたからだ。
罪悪感は、呼吸より先に立ち上がる。
――俺が説明した。俺がペンを置いた。俺が“構造”だと言った。
白衣が透の肘を軽く引いた。
その指の温度が、思いのほか冷たい。
「透さん。同行します」
「……僕が?」
自分の声が耳に返ってきて、透はぞわりとした。
声を出すこと自体が、この世界では危険の予感を連れてくる。
自分はEで刺さらないはずなのに、恐怖が“刺さる感覚”を作る。
「あなたは“処理室”です。回収現場の一次対話が必要になります」
一次対話。
現実の職場みたいな言い方が、また胃を締め付けた。
命の話を、手順の言葉で包む。
包めてしまうことが、この制度の強さだ。
透は息を吸って、吐いた。
吸うとき、肺が冷える。吐くとき、喉が痛い。
身体が現実に追いつこうとしている。
廊下に出ると、回収班はもう揃っていた。
甲冑ではない。白と灰の制服。動きやすい布地。
胸元に薄い金属札――保護搬送。
医療チームのように見える。見えてしまう。
だから信じかける。信じかけて、裏切られる準備が整う。
革袋の口から、黒い札が覗く。封声符。
沈黙杭。鎮静針。
救う道具ではない。壊さずに閉じる道具。
隊長格が短く指示を出す。
「沈黙結界、準備。封声符、二枚。鎮静は最終。まず“保護”だ」
“まず保護”。
透はその言葉に、別の意味を嗅いだ。
保護――正しい言葉。正しい言葉は、反論しにくい。
反論しにくいから、隠せる。
白衣が透にだけ小さく言う。
「逃亡者はAの可能性が高い」
A。勇者波形。世界に刺さる声。
透の掌が汗ばむ。指先が冷える。
汗と冷えが同時に来るのが、恐怖だ。
外へ出ると、療養院の白い清潔さが剥がれ落ちた。
空気が荒い。冬の冷気が頬を叩く。
鼻の奥がつんとする。遠くの街が、音になりきらないざわめきを抱えている。
魔法灯が、ぱち、と瞬きをする。
一瞬、光が薄くなる。
水盤が波打つ。
透は足裏に、微かな振動を感じた。地面ではない。空気だ。
空気の密度が変わる、みたいな――息が重くなる感覚。
街角で口論が起きた。
「だから違うって言ってるだろ!」
「黙れよ、黙れ!」
短い。尖っている。
怒りの発火点が低い。
透は背中が冷たくなる。揺れの余波だ。
結界の乱れが、人の心の摩擦を増やしている。
隊長が手を上げた。
全員が止まる。
止まった瞬間、透の心臓が一拍遅れて跳ねる。止まると怖い。動いている方がまだマシだ。
勇者波形は“声”になる前の呼気や喉の震えだけでも空気に滲む。
結界が張られていない路地でそれが漏れると、滲みは数拍遅れで街へ届き、口論の火種に酸素を流し込む。
一度火がつけば、治癒が通らない夜になる――だから杭は、打つのが一瞬でも遅れられない。
隊長が地面に、小さな杭を打った。沈黙杭。
打ち込む音は小さいのに、空気が変わった。
耳の奥に膜が張る。街の音が一枚、遠くなる。
その膜の向こうで、聞こえないはずの“声”があった。
声になりかけた波。喉の奥で擦れる、荒い呼吸。
透は背筋でそれを感じた。
「この先」
隊長が、指を二本立てる。
回収班が左右に割れた。
透も割れた。白衣に押されるように、路地の入口に立たされる。
路地は狭い。壁は湿っている。
かすかに尿の匂い。腐った果物の匂い。
現実の匂いだ。
療養院の匂いより、ずっと生きている。
奥に、人影があった。
肩で息をしている。
身体が熱を持っているのが、距離でも分かる。
吐く息が白いのに、肌は汗で濡れている。
寒さと熱が同居している。
勇者だ。
目がぎらついている。
声を出そうとして、出すのを止めている。
喉元を押さえている。
押さえても、波形は漏れる。漏れているから、揺れが出る。
勇者が透を見た。
一瞬、目が揺れる。
怯え。怒り。屈辱。
その全部が混ざって、同じ目でこちらを射抜く。
透は唇を開きかけて、閉じた。
外で話すと、刺さる。
だから回収班が沈黙杭を打った。
この膜の中なら、声は世界に届きにくい。
白衣が透にだけ囁く。
「短文で。刺激しない」
刺激しない。
でも刺激しない言葉は、相手を見ていないことにもなる。
透は喉が痛いのをこらえ、声を出した。
「――ここは安全です」
自分で言いながら、嘘みたいだと思った。
安全は、相手が決める言葉だ。
勇者が、掠れた声で笑った。
笑いというより、息が漏れた。
「……安全?」
その一言に、路地の空気が震えた。
沈黙杭が効いているはずなのに、それでも空気が重くなる。
壁の水滴が、細かく震える。
透の鼓動が一段速くなる。
胸が熱い。指先が冷たい。
隊長が、封声符を二枚、指に挟む。
紙が、紙じゃないみたいに硬い。薄い刃物みたいだ。
透は言葉を切り分ける。
“安全?”は挑発ではない。確認だ。
「ここは安全です」と言われた側が感じるのは――裏切りへの恐怖。
透は一歩だけ前に出た。
息が路地の冷気に触れて痛い。
「あなたが怖いのは、閉じられることだ。
声を奪われることだ。期限が無いことだ」
勇者の目が動いた。
当たった。
当たった瞬間、透の背中に汗が流れた。
怖い。正解を言うのも怖い。正解は相手を追い詰める。
勇者が言った。
「……お前らは……俺を……」
言葉が続かない。
続けたら逆相が漏れる。
本人がそれを分かっていて、言葉を飲み込む。
それがいちばん苦しそうだった。
透は、その苦しさを“要求”に変える。
「あなたは、言わせろって言ってる」
勇者の喉が震えた。
声が出ない代わりに、息が荒くなる。
息だけで揺れが出るのが、透には恐ろしい。
透は続けた。
「今ここで叫んだら、結界が薄くなる。治癒が揺れる。
街の人間が先に壊れる。あなたのせいじゃない。構造だ」
言ってしまった。
またその言葉。構造。
透は自分の口の冷たさに、遅れて気づいた。
冷たい言葉が、熱い恐怖の上に乗る。
勇者の目が、ほんの少しだけ潤んだ。
泣く余裕が残っているのが、残酷だと思った。
隊長が封声符を構える。
透はそれを見て、胃が反射的にひきつる。
“保護”は、紙一枚で喉を閉じることなのか。
透は急いで言った。
「交渉ができます。条件を言ってください。短文で。今なら――」
勇者が息を吸った。
吸った瞬間、空気が重くなる。
透は本能で分かった。これから“刺さる”。
勇者は、短く吐いた。
「……期限」
それだけだった。
その一語で、透は胸が痛くなった。
欲しいのはそれだ。期限。未来の形。
声を奪われても、終わりの見込みがあれば耐えられる。
透は頷いた。
「期限の再審査。記録に残す。声明も出す。
あなたが“弱いから”じゃない。“過負荷だから”だと」
勇者の呼吸が、ほんの少しだけ落ちた。
落ちた瞬間、路地の空気も軽くなる。
世界が、少しだけ戻る。
隊長が封声符を下ろした。
しかし下ろしただけだ。しまってはいない。
白衣が透の耳元で言う。
「今のを文書化できますか」
透の胸が沈む。
言葉が文書になるとき、それは救いにも牢にもなる。
透は頷いた。
頷けてしまうことが、怖い。
自分が“使える人間”になっていく。
回収班が近づく。
鎮静針はまだ出ない。封声符も使われない。
代わりに、白い布が肩に掛けられる。
保護の演出。医療の演出。
透は、その布が勇者の体温を奪うのを見た。
勇者の肩の熱が、布に吸われていく。
熱が奪われると、人は大人しくなる。
それを“優しさ”に見せるのが、この制度の上手さだ。
勇者は最後に、透へ短く言った。
「……お前……」
言葉が続かない。
続けたら揺れる。
勇者は唇を噛み、息だけを吐いた。
その息が白くほどけて、沈黙結界の膜にぶつかって消えた。
透は、返事ができなかった。
返事の言葉が、どれも嘘に聞こえる。
担架が来る。
勇者が運ばれる。
保護搬送。そう呼ばれる回収。
透は、自分の掌を見た。
汗で濡れている。冷たい。
自分の体温すら、信用できない。
白衣が言う。
「戻ります。療養院へ」
透は歩き出した。
足が重い。
でも止まれない。止まったら、自分が何を見たのか分からなくなる。
揺れは、まだ終わっていない。
揺れはたぶん、勇者が叫んだときだけじゃない。
“保護”の名の下で人が閉じられるたびに、別の形で積み上がっていく。
透は、その積み上がりを、言葉で処理する仕事を任された。
そして気づく。
自分の中にも、静かな揺れが始まっている。
罪悪感と混乱と絶望の混ざった揺れ。
――腹の底に沈む、黒い納得。




