第3話 同意――言葉を抜かれる
白い。
色があるはずなのに、削ぎ落とされている。
机も、布も、壁も、同じ白だ。
透は、椅子の前に立ったまま動けずにいた。
吐いた息の震えが、まだ胸の奥に残っている。
机の上には、すでに紙と器具が揃っている。
ペン先が二本、同じ角度で並べられていた。
その向こうで、担架が静かに止まった。
担架の勇者は、起きていた。
眠っているふりをしているだけにも見えた。
白衣の手は慣れすぎていて、儀式みたいに静かだった。
透はそれを見ただけで喉が乾いた。
――ここは医療の顔をした手続きの部屋だ。
白衣たちは慣れた手つきで、勇者を個室に運び込む。
個室といっても、ホテルの個室じゃない。白い壁、白い布、白い光。
“守られている”色だけが揃っている。
透は入口で足が止まった。
踏み込むと、自分がこの制度の一部になる。
もうなっているのに、最後の線を越えたくない。
白衣が言う。
「立ち会ってください。あなたの役割は“同意の前段”です」
「同意の前段?」
「本人に説明し、納得させ、署名に至るまでの過程。
それが苦情処理室の仕事です」
透は勇者を見た。
勇者は布越しに喉元へ視線を落とし、また透を見た。
喉元には細いルーンの輪がある。
まだ完全な刻印じゃない。仮の拘束。
“逃げられるはず”の余地が残っている。
透は息を整え、近づいた。
「……聞こえますか」
勇者は、微かに頷いた。
「あなたの名前は?」
返事はない。
言葉が出ないのか、出さないのか。
透は白衣に視線を投げる。
「まだ喋れます。ただし制限しています」
白衣が言う。
「波形が乱れている。今は“短文のみ”許可」
短文だけ。
それだけで世界が揺れる可能性がある。
透は椅子を引き、勇者の視線の高さに座った。
立ったままだと、説得になる。対話にならない。
「まず状況を整理します」
透は自分の職業の言葉を使った。
それがここでは武器になる。
「あなたは勇者波形Aです。
いま、逆相が漏れている可能性がある。
その結果、結界が薄くなり、治癒が不安定になり、魔物が活性化する」
勇者の瞳が、ほんの少しだけ動いた。
理解はしている。だが納得しているかは別だ。
透は続けた。
「だから国は、あなたの声を一時的に預かりたい。
“預かる”という言葉が嫌なら、発話制限と言ってもいい。
あなたが壊れないために、という建前です」
勇者の喉が動く。
短文が許されるなら、言葉は出る。
勇者は、掠れた声で言った。
「……建前」
一言。
その一言が、部屋の空気を変えた。
照明が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
医療器具の金属が、ちり、と鳴った。
水差しの表面が波打つ。
透は背筋が冷える。
これが“揺れ”の入口だ。
白衣が即座に指を鳴らした。
壁のルーンが淡く点灯し、音が吸われるように薄くなる。沈黙結界。
勇者の声が、世界に届かないようにする仕組み。
回収の手順が、ここにはもうある。
透はそれでも、勇者の目から逃げなかった。
「あなたは分かってるんですね。
声が逆相になると、世界が揺れること」
勇者は小さく笑った。笑う力が残っているのが、逆に怖い。
「……分かってる」
「だから逃げない?」
勇者の瞳が揺れた。
その揺れが、怒りなのか、諦めなのか、透にはまだ切り分けられない。
勇者は短文で言った。
「逃げたら……殺すだろ」
透は答えなかった。
答えなくても、答えは白衣が持っている。
白衣が横から淡々と言う。
「殺しません。叫ばせないだけです。
封声符と鎮静で保護搬送します」
勇者は目を閉じた。
その閉じ方が、まるで敗北の承認だった。
透は、同意書の束を机に置いた。
紙の重みが異様に現実的だった。
「説明します」
透は一枚目を開く。
発話制限への同意
声預かり(波形遮断処置)への同意
緊急沈黙条項
回収・再加工に関する同意
権利放棄(一定期間)
「……緊急沈黙条項は?」
透が思わず問うと、白衣は迷いなく答えた。
「揺れが一定値を超えた場合、本人の意思と無関係に発話を遮断します。
“医療措置”として」
“医療措置”。
その言葉が、ここでは鍵になる。
救う言葉の形で、閉じるための条項。
透はゆっくり息を吐いた。
勇者の目が、透ではなく紙の束を見ている。
――理解している。理解してしまう。
最後の行で、透の指が止まった。
「……回収・再加工?」
白衣が何でもない顔で頷く。
「負魔素を捨てるのは非合理です。結界維持材になります」
勇者は目を開けた。
その目の奥に、ようやく“感情”が見えた。嫌悪だ。
透はその感情を掴み、言葉にする。
「あなたは、世界を守るために、声だけじゃなく“負”まで差し出せと言われている」
勇者の喉が動いた。短文の許可。
けれど勇者は言葉を選んで、飲み込んだ。
その沈黙に、透は胸が締め付けられた。
沈黙は同意じゃない。
でも制度は、沈黙を同意に変える。
透は紙を裏返し、署名欄を示した。
「あなたが署名しないと、国は別のルートを取ります」
「……脅し」
勇者が短く言った。
また照明が揺らぐ。
白衣が沈黙結界のルーンを強める。
透は、勇者の一言を切り分けた。
怒りではない。恐怖でもない。
これは――屈辱だ。
透は勇者に言った。
「脅しじゃない。構造です」
透は自分でも驚くほど冷静だった。
冷静でなければ、ここで壊れる。
「あなたが逃げたら回収される。
あなたが叫べば世界が揺れる。
あなたが黙れば、世界は安定する」
透は一息置いて、言葉を続けた。
「それでも――あなたは英雄です。
英雄であるあなたに、選んだ形にしたい」
透の声は、奇妙なところで真実だった。
選べる形にしてやりたい。
だから自分がいる。
だから“クレーム係”が必要になる。
勇者は、長い沈黙のあと、言った。
「……じゃあ……条件」
透はすぐ頷いた。
「言ってください。要求として整理します」
勇者の目が透を刺す。
「……国民に……言うな」
短文が限界のように、息が荒い。
「俺が……弱い……って」
透は理解した。
世論の話だ。英雄の名誉の話だ。
「守られてる」顔で閉じ込められる屈辱。
白衣が口を挟みかけたが、透が手で制した。
「分かりました。
“弱いから”ではなく、“過負荷だから”にする。
あなたが壊れないための療養措置、という声明にする」
勇者の目が、ほんの少しだけ緩んだ。
納得じゃない。受け入れだ。
受け入れと納得の間には、地獄がある。
透は同意書に、ペンを置いた。
「署名してください」
勇者の手が布の下から出てくる。
指先が震えている。勇者の強さが、こういうところで見えるのが、透には怖かった。
勇者は署名欄にペン先を触れさせた。
その瞬間、透は気づいた。
同意書の最下段、細い文字。
波形預かり期間:無期限(延長可)
透の喉が冷えた。
「……無期限?」
白衣が、何でもない顔で言う。
「安定化が完了するまでです」
安定化。
完了の定義は誰が決める?
勇者が決めるはずがない。
勇者のペン先が止まる。
勇者も気づいた。
透は、言葉を探した。
誤魔化しの言葉じゃない。
この場で必要なのは誤魔化しではなく、最小の真実だ。
透は勇者に言った。
「あなたが望むなら、条件として書き足せます。
“期限の再審査”を」
白衣が目を細めた。
制度の人間の目だ。
「透さん」
白衣の声は静かだった。
静かだからこそ圧がある。
透は白衣を見ずに、勇者だけを見た。
「――要求は正当です」
勇者の手が、もう一度動いた。
署名が書かれる。
署名が終わった瞬間、部屋の空気が軽くなった気がした。
それが“世界の安定”だとしたら、透は吐き気がした。
白衣が手続きを進める。
ルーンの輪が喉元に閉じていく。
“声を預ける”処置が始まる。
勇者が最後に、短文で言った。
「……お前……何者だ」
透は答えた。
「クレーム係です」
その言葉が、どこかで笑いになるはずなのに、ならない。
処置が終わりかけたそのとき、廊下の外で警報のような鈴が鳴った。
遠くで誰かが叫ぶ――叫びは沈黙結界に削られて、音になりきらない。
照明が大きく揺れた。
水差しが跳ねた。
白衣が顔色を変えた。
「逃亡です。勇者が一人、抜けた」
透の血が引いた。
逃げる勇者はゼロじゃない。
そして、その回収は“保護”の顔をして行われる。
透は、処置を終えたばかりの勇者を見た。
声を失った目が、なぜか透を責めているように見えた。
白衣が言う。
「透さん。次は回収側に同行します」
透は返事ができなかった。
観察者でいようとしても、怯えが胸の内側で暴れる。
それでも、足は動いた。
――この世界で、言葉は世界を壊す。
なら、言葉を持たない回収の現場では、いったい何が壊れるのか。
透はそれを見に行く。
見てしまう。




