第1話 勇者枠、満席
透は、怒鳴られていた。
受話器の向こうで男の声が割れている。
通信障害、料金、担当者の態度、説明不足。
「お前が悪い」と結論を先に置き、そのための根拠を後から積み上げる話し方。
透は声の温度を下げ、要素を分解した。
原因、被害、要求。
怒りは乱暴でも、構造はいつも同じだ。
左手が無意識に机の角をなぞっている。
触れていないと、現実の輪郭が曖昧になる。
声に飲まれないための癖だった。
「申し訳ありません。状況を整理します」
言いながら、メモ帳にペンが走った。
書くつもりのない文字が、一行だけ残る。
――勇者枠、満席。
透はペン先を止めた。
意味が分からない。分からないのに、書いた。
疲労のせいだと片づけようとして、眉間を指で押した瞬間――
モニターが一度だけ暗転した。
通信画面の中央に、見慣れない表示が浮かぶ。
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「……は?」
声が漏れたのと同時に、耳の奥がぐらりと傾いた。
胃がわずかに浮く。
椅子の肘掛けを掴もうとして、手が空を切った。
世界が“引っ張られる”。
受話器が指先から滑り落ちたはずなのに、床に当たる音が遠い。
視界が白く滲み、喉の奥に鉄の味が立った。
落下ではない。
選別――そんな単語が頭をよぎる。
誰に、何を、どう選別されるのかも分からないまま。
次の瞬間、足が硬い石に触れた。
膝が沈みそうになり、透は反射的に片手を床についた。
冷たい。ざらつく。掌に石の粉がつく。
その“質感”が、かえって現実味を増やした。
吸い込んだ空気が違う。
蝋燭の煤、鉄、古い布、湿った石。
肺の奥まで、知らない匂いが入ってくる。
透は、まず周囲を見た。
状況把握が先だ。恐怖は後から来る。
巨大な広間。
高い天井。左右に松明。
赤い絨毯が玉座へ一直線に伸び、その両脇に甲冑の兵士が整列している。
――中世だ。
透は反射的にそう判断して、次に自分の判断力がまだ残っていることに少し安堵した。
玉座には、王冠を戴いた男が座っていた。
五十前後。顔には疲れが刻まれているのに、眼だけが鋭い。
「召喚は成功したか」
低い声が石に跳ね返り、広間に響く。
透は言葉を飲み込んだ。言葉が通じることが背中を冷やした。
夢なら通じないはずなのに。
「召喚、成功――!」
誰かが叫んだ。声が石壁に跳ね返り、空気が震える。
透は喉が乾いているのを感じた。口を開けば、とりあえず状況を聞ける。聞くべきだ。
「ここは――」
そこまでしか言えなかった。
足元に打ち込まれた小さな杭が、乾いた音を立てた途端、空気が一枚、厚くなる。
耳の奥に膜が張る。自分の声が自分に届かない。
言葉が外へ出ない。喉で擦れて、息に戻る。
透は反射で喉を押さえた。心臓が跳ねる。
兵たちの目が一斉に透へ集まり、槍の角度がわずかに変わる。
敵意じゃない。警戒だ。危険物を見る目。
玉座の横に立つ老人――宮廷魔術師らしき者が、透を見て眉を寄せる。
手元の水晶板を撫で、焦ったように首を振った。
「……違う。勇者の波形ではない」
老人の声に、奇妙な確信が混ざる。
「発話魔力波形がA帯域に乗っておらん。座標が……ずれている」
王が眉を動かす。
「ずれた?」
老人は紙束を繰り、喉を鳴らした。
「勇者枠が……満席です」
文官は、台帳を閉じた。
音がしない。
紙の束を閉じたはずなのに、空気が吸い込まれたような感触だけが残る。
「現時点で、勇者枠は全て使用中です」
使用中。
その言い方が、透の耳に引っかかった。
「空きは?」
王が尋ねる。
人名は出ない。
「ありません。A受信は満了、B補充も滞留しています」
文官は淡々と続ける。
「追加召喚は制度上、問題ありませんが、
配属処理が追いついておりません」
処理。
滞留。
満了。
どれも、透が現代で聞き慣れた言葉だった。
クレーム対応室で、
案件を「人」ではなく「件数」で数えていた時と同じだ。
「……彼は?」
透を指す言葉も、
名前ではなかった。
「フォールバックです。
本来はB層補充予定でしたが、
現状では接続は不可能です」
老人は水晶板を見つめ、唸る。
「E帯域……異常波形。勇者ではない。だが――声の適性がある」
文官が続けて紙を掲げた。
魔法で刻まれたように整った文字。
―――――
召喚役職:苦情処理補助(クレーム係)
配属先:勇者療養院(安定化部門)
―――――
透は文字を追い、最後の行で視線が止まった。
仕事の言葉だ。職場の言葉だ。
その現実味が、この広間を本物にする。
王が顎で示した。
「連れていけ。勇者を壊す前に、使えるなら使え」
兵士が左右を固める。甲冑の冷たさが腕に触れ、透は反射的に肩を引いた。
逃げたいのに、逃げ道を探す前に“従う動き”をしてしまう。
その自分の反応が、少し遅れて怖くなる。
――違う。従うのは納得じゃない。
生き延びるための一時停止だ。情報を引き出すための順番だ。
透は、わざと呼吸を浅くした。心臓の音を落とす。頭の中で箇条書きにする。
(王権。軍。魔術。言語は通じる。
拘束は最小限、圧は最大。
逃走経路未確保。武装差あり)
観察は現実逃避じゃない。生存の手順だ。
広間を抜け、石造りの城内を進む。鎧の擦れる音、遠くの鐘、湿った冷気。
やがて城の外れ、白い扉の前で止められた。
扉には控えめな文字が刻まれている。
透は文字を追い、最後の行で視線が止まった。
仕事の言葉だ。職場の言葉だ。
その現実味が、この広間を本物にする。
白衣の人間が、円の内側に入ってきた。
この場にそぐわない白い服。医療の匂い。清潔さの偽装。
それが余計に怖かった。
白衣は淡々と言った。
「話さないでください。いま“理解”を与えると、あなたが揺れます」
「揺れれば、街が揺れる。――質問は後です」
ふざけるな、と言いたかった。
でも、口を開けば何かが起きる――さっきの膜がそれを教えている。
透は奥歯を噛んだ。
いま反抗しても、答えは出ない。
情報を引き出すなら、まず相手の手順に乗るしかない。
“従う”のは納得じゃない。生存のための一時停止だ。
透は両手を、ゆっくりと見える位置に上げた。
兵の肩が少しだけ落ちた。
白衣が頷く。まるで患者を扱うみたいに。
王が顎で示した。
「連れていけ。勇者を壊す前に、使えるなら使え」
「保護搬送します」
保護。
その言葉が胸に刺さる。善意の顔をした拘束だ。
透の肩に白い布が掛けられた。清潔で、やけに重い。
体温が布に吸われていく。熱が奪われると、反抗心まで薄くなる。
透はその仕組みに気づいて、ぞっとした。
これは安心じゃない。“大人しくさせる”ための温度だ。
ホールを出ると、外は夜だった。
星が見える。空気が澄んでいる。城壁の上に松明が並び、遠くに街の灯りが点々と広がっている。
中世の街だ。現実みたいに見えるのが、悪夢より怖い。
馬車ではない。奇妙に滑らかな箱型の車両が待っていた。
魔導具。車輪の音がしない。
透が乗せられると、扉が閉まり、外の音がふっと遠くなる。
走り出す。
窓の外に、石畳と木造の家々が流れる。
人影がある。こちらを見る者もいる。
しかし誰も近づかない。近づけないように、道の端に杭が一定間隔で打たれている。
沈黙杭――さっき見たものと同じだ。
街が、沈黙で区切られている。
「……何なんだよ、これ」
透が小さく呟くと、白衣は視線を動かさずに言った。
「説明は後です」
同じ言葉。繰り返されるほど、こちらの心が削れる。
車両はやがて、城壁の外れにある巨大な建物へ入った。
白い石。窓は少ない。扉は重く、兵ではなく白衣が出入りしている。
病院に似ている。だが病院がこんなに要塞みたいな形をしているはずがない。
透は廊下を歩かされる。
床が磨かれすぎていて、足音がやけに反響する。
“清潔”が怖い。清潔は何かを隠す。
受付の部屋に通された。机。水晶板。紙束。
事務官が透の顔を見ずに、指先で水晶板を弾く。文字が光って走る。
白衣の指が止まる。
「……形式が違う」
隣の事務官が覗き込み、声を落とす。
「名簿の欄が埋まらない。枠も……合わない」
透の胸が嫌な跳ね方をした。
合わない? 枠? こいつらは俺を、何かの“枠”に入れようとしている。
白衣は透を見ずに言った。
「今日は“受け入れ”で回します。分類は後」
その言い方が、透を人じゃなく荷物みたいに扱った。
「待て。俺は何なんだ。ここはどこだ」
透は耐えきれず言った。
言葉は出た。沈黙杭の膜の外ではないからか。
それでも白衣の眉がわずかに動き、すぐに平らに戻る。
「あなたは……勇者枠ではありません。少なくとも、こちらの台帳上は」
「勇者?」
「その単語は公報でしか使いません」白衣は淡々と続けた。「ここでは、“枠”と言います」
透の喉がまた乾いた。
質問のたびに、相手の言葉が減っていく。
説明しないのではなく、説明できないのではなく――説明する気がない。
白衣が紙束の上部を指で叩いた。
「枠は満席です。なのに、来た。だから今は――保留」
満席。
保留。
透はその二語を舌の上で転がし、苦い味しかしないことに気づいた。
廊下の奥で、扉が一つ開く音がした。
金属の擦れる音。
短く、乾いた音。
誰かが呼吸する音が漏れた。荒い。だが声にならない。
白衣が透の視線に気づき、遮るように立った。
「見ないでください」
「何がいる」
透が言うと、白衣は一拍だけ沈黙した。
その沈黙が、答えの輪郭を作る。
「……あなたと同じです」
「ただ、もう“声”を出しません」
透の背中が冷えた。
声を出さない。出せない。出させない。
透は自分がここに連れて来られた理由を、まだ何も知らない。
だが一つだけ分かる。
この国は、声を恐れている。
そして恐れているからこそ、声を管理している。
満席なのに、呼ばれた。
台帳に合わないのに、受け入れられた。
保留という名の檻の中へ。
透は息を吸った。短い。吐く息が長い。
吐く息の終わりが微かに震える。
誰かの呼吸に似ていると思って、ぞっとした。
扉の向こうで、また荒い呼吸がした。
声にならない呼吸。
声にならないのに、世界を揺らす呼吸。
白衣が言った。
「あなたの担当部署は――苦情処理室です」
白衣は振り返らずに歩き出した。
透は遅れないように追う。廊下の灯りが一定間隔で並び、足音だけが規則正しく跳ね返る。
規則正しい音は、混乱を黙らせる。混乱が黙ると、代わりに恐怖が育つ。
曲がり角を二つ。
通路の先に、扉があった。
他の扉より少しだけ厚い。取っ手が新しい。
扉の上に札が掛かっている。黒い板に白い文字。
――――――
苦情処理室
――――――
ふざけているのかと思った。
それとも、ふざける余裕がこの国にはあるのか。
透の喉がひりつく。乾きが痛みに変わる。
白衣が言った。
「ここであなたは、外側の声を受けます」
「外側?」
「国民の声。現場の声。……勇者の声」
最後の一語だけ、白衣の発音が僅かに硬くなる。
透はその硬さの意味を測ろうとして、測る余裕がないことに気づく。
取っ手に白衣の手が掛かった。
金属が冷たい音を立てる。
「説明は――」
透が言いかけた瞬間、白衣は扉を押し開けた。
開いた隙間から、室内の空気が流れ出る。
紙の匂い。インクの匂い。乾いた埃。
そして、どこかで息が詰まる音。
泣き声の手前みたいな音。怒鳴り声の手前みたいな音。
“声”になる直前の音だけが、いくつも重なっている。
透は一歩、足を踏み入れた。
床が僅かに軋む。
壁際に机が並び、机の上には書類の山。
札が刺さっている。未処理、保留、差戻し。
一番端の棚に、小さな箱が積まれていた。封声符の束。沈黙杭の予備。
医療器具の棚と、事務の棚が、同じ部屋に同居している。
部屋の奥に、もう一つ扉があった。
その扉だけ、鍵が二重で、取っ手に布が巻かれている。
布が汗で湿っているように見えて、透の胃が冷えた。
白衣が、背中越しに言った。
「その奥は、まだ見なくていい」
まだ。
いつかは見る。
透はその未来を、唐突に理解してしまった。
白衣が扉を半分閉める。
廊下の光が細くなり、苦情処理室の空気だけが残る。
「あなたは今日から、ここです」
扉が閉まる。
鍵が回る音がする。
外側の音が遮断される――はずなのに、逆に“声の手前”だけが鮮明になる。
透は自分の掌を見た。汗で濡れている。冷たい。
冷たいのに、胸の奥だけが熱い。
満席。
保留。
分類は後。
そして、苦情処理室。
透は息を吸う。短い。
吐く息が長い。
吐く息の終わりが、また震えた。
机の上に、一枚だけ新しい紙が置かれている。
まだ折り目のない、まっさらな紙。
その上に、朱い印が押されていた。
――――――
404
――――――
透は目を逸らせなかった。
あの画面の表示が、ここにもある。
偶然じゃない。手違いじゃない。
少なくとも、この国にとっては――“処理すべき案件”だ。
扉の向こう、二重鍵のさらに奥で、誰かが息を吸った。
吸って、吐く。吐いて、吸う。
規則が崩れかけた呼吸。
声にならないのに、空気がわずかに震える。
透は、唇を閉じたまま小さく笑いそうになって、やめた。
笑えば声になる。声になれば、ここでは何が起きるか分からない。
代わりに、心の中でだけ言う。
――クレーム係、満席。
――俺は、誤配属。
そして、椅子に座った。
最初の一枚目を、手に取るために。




