第10話 〈存在しない数〉/〈数に入る人〉
〈存在しない数〉
――――――
集計室は、窓がなかった。
正確には、あったが――
結界膜の内側にあり、外の光は通らない。
魔法灯は一定の明るさを保ち、影を作らない。
影ができない部屋では、
人間は数字に近づく。
透は、机の前に立っていた。
椅子はない。
長居させる場所ではないという意思表示だ。
石板が一枚、机の中央に浮かんでいる。
半透明の表面に、行と列が整然と並ぶ。
月次安定化報告(暫定)
揺れ指数:低
治癒通過率:回復
発話制限措置件数:
A層:2
B層:7
C層:19
解除完了率:98.4%
透は、眉を寄せた。
「……C層、十九?」
数字が少ない。
少なすぎる。
ここ数日で、
彼が“見た”C層は、その倍以上いた。
夜間のみ。
解除通知あり。
解除通知なし。
声を失い、
だが処理の痕跡を残さない人間。
「解除完了率、高いですね」
白衣が、隣で言った。
声は平坦。
誇らしさすらない。
「完了、って……」
透は言いかけて、止めた。
喉の奥が、微かに乾く。
「解除通知が出た件数に対して、です」
白衣が補足する。
補足というより、定義の提示だ。
「通知が出ていないものは?」
透は、慎重に言葉を選んだ。
白衣は、一瞬だけ瞬きをした。
瞬きは、思考の切り替えだ。
「統計には入りません」
透の指先が、石板の縁に触れた。
冷たい。
現実の感触だ。
「……声が出ていない人間が、いる」
白衣は否定しなかった。
否定しないのは、事実だからだ。
「ですが、制限措置として記録されていない以上、
それは“発話制限”ではありません」
「じゃあ、何なんです」
透は、低く尋ねた。
白衣は、ほんの少しだけ首を傾けた。
「個人差です」
その言葉が、
透の胸骨の内側を、軽く叩いた。
個人差。
医療で最も強い言葉。
「異常ではない」
「制度の責任ではない」
「集計する必要がない」
すべてを一語で終わらせる。
透は、石板を見つめた。
十九。
その数字の中に、
あの女はいない。
通知を待っていた、母親はいない。
朝になっても声が戻らなかった、
あの人間たちは、いない。
「……存在しない、ってことですか」
言ってから、
自分の声が少しだけ震えたのを、透は自覚した。
白衣は、淡々と答えた。
「存在はしています。生活もしています。
ただ――」
一拍。
「制度上は、存在しません」
その言い方は、
すでに何度も使われてきた言葉だった。
透は思い出す。
解除通知が来る男。
通知が来ない女。
どちらも、街を揺らしてはいない。
揺らしていない以上、
制度にとっては“成功例”だ。
「成功しているから、数えない」
透は、無意識に言っていた。
白衣が、初めて透を見る。
「正確には、
数える必要がない、です」
必要がない。
透の中で、
何かが、すとんと落ちた。
――なるほど。
声を切るかどうかではない。
解除するかどうかでもない。
“数えるかどうか”
それが、この世界の境界線だ。
数えられないものは、
問題にならない。
問題にならないものは、
存在しない。
透は、気づいてしまった。
この制度は、
人を黙らせているのではない。
人を、数字から落としている。
だから抗議できない。
だから統計に現れない。
だから、誰も救われない。
石板の数字は、整っている。
揺れ指数は低い。
治癒は通っている。
世界は、安定している。
その安定の下で、
声を失った人間が、
“いなかったこと”になっている。
透は、深く息を吸った。
吸うと、胸が少しだけ痛い。
吐くと、その痛みが薄れる。
――薄れるのが、怖い。
「この分類……」
透は、静かに言った。
「“未通知・未制限”の人間を、
C層の中に、別枠で――」
白衣が、即座に首を振った。
「分類を作ると、管理対象になります」
管理対象になると、
責任が発生する。
責任が発生すると、
揺れる。
透は、口を閉じた。
分かっている。
もう分かってしまった。
だから、
分類を作らないことが、
一番効率的で、
一番残酷なのだ。
集計室を出るとき、
透は、自分の影が床に落ちていることに気づいた。
結界膜の外だ。
光が違う。
影がある。
――まだ、数えられている。
その事実に、
安堵と、嫌悪が、同時に湧いた。
透は歩きながら、思った。
この世界で、
一番安全なのは――
数に入らないこと。
そして、
一番危険なのは――
数に入れる仕事を、
自分がしていること。
〈数に入る人〉
――――――
彼女は、声が戻らないまま三日が過ぎた。
通知は来なかった。
解除も、制限も、最初から何も。
だが今回は違った。
四日目の朝、
医療院から人が来た。
白と灰の制服。
胸元の札に「記録管理」。
回収班ではない。
だが、保護でもない。
――数える人間だ。
「お話を伺います」
そう言われて、
彼女は反射的に頷いた。
声が出ないことを、
ようやく“誰かに見つけてもらえた”気がして。
医療院の小部屋は、
清潔で、静かで、逃げ場がなかった。
石板が机に置かれる。
「症状の発生時刻」
彼女は、紙に書いた。
「通知の有無」
――なし。
「発声不能の継続時間」
三日。
記録官は、淡々と書き留める。
「C層接続者として、
正式に記録に残します」
その言葉を聞いた瞬間、
彼女の胸が、わずかに軽くなった。
――これで、気のせいじゃなくなる。
――これで、存在できる。
だが、次の言葉が続いた。
「分類上、
これは“発話制限措置”ではありません」
彼女は顔を上げた。
「結界循環への影響が、
微弱ながら検出されました」
だから――
“自然発生的沈黙”
そう名付けられる。
「自然?」
声は出ない。
だが、問いは口にできない。
記録官は、続ける。
「制度上、
これは管理対象です」
管理。
救済ではない。
解除でもない。
ただ、
管理。
「今後、定期観測を行います」
「発声の再発が確認された場合、
緊急沈黙条項が適用されます」
――再発。
声が戻ることが、
“再発”として扱われる。
彼女は、その言葉の意味を
すぐに理解してしまった。
声が戻れば、
危険になる。
危険になれば、
切られる。
切られれば、
「正しい」。
記録官は、
最後に一枚の紙を差し出した。
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観測同意書"
"本人の安全と世界の安定のため、
観測および必要な措置を行います。"
彼女は、ペンを持った。
手が震える。
だが、書くしかない。
書かなければ、
「非協力的」になる。
非協力的になると、
別の分類に移される。
分類は、
いつも悪化しかしない。
署名が終わる。
ペンを置いた瞬間、
石板の表示が切り替わった。
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C層接続者:観測対象 登録完了
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登録。
その一行で、
彼女は“数”になった。
数になった途端、
周囲の扱いが変わる。
近所の治癒院は、
彼女を診なくなった。
「管理対象の方は、
医療院を通してください」
仕事先でも、
配置が変わる。
「発声不要の業務へ」
配慮、という名目。
家族にも説明が行く。
「お母さんは、
いま少し安静が必要なの」
子どもは頷く。
“世界のため”
そう言われると、
子どもは黙る。
夜、
彼女は喉に手を当てた。
声を出そうとして、
やめる。
戻るかもしれない声は、
戻ってはいけない声になった。
戻った瞬間、
彼女は“問題”になる。
彼女は、
声を失ったまま、
公式に存在する。
存在するが、
自由ではない。
存在するが、
元には戻れない。
数に入ったからだ。
数に入った人間は、
もう“気のせい”では逃げられない。
彼女は、
初めてはっきりと思った。
――数に入らないほうが、
生きやすかった。
だが、その考えを
口にする声は、
もうどこにもなかった。
――――――
文書室は、いつもと同じ温度だった。
寒くもなく、暑くもない。
考えを冷やすには、ちょうどいい。
透の前に、二つの帳票が置かれている。
一枚は、薄い。
【C層接続者・音声遮断措置】
経過報告
該当者:なし
それだけが書いてある。
該当者なし。
誰もいなかった、ということになる。
夜だけ声を切られて、
朝になっても戻らなかった男の名前は、そこにはない。
通知が出なかったのだから、
記録されなかったのだから、
最初から“いなかった”。
透はその紙を、指で押さえた。
紙は軽い。
軽すぎて、体重が乗らない。
もう一枚は、厚い。
【発話制限解除・完了通知】
対象者:C層接続者
状態:安定
措置:終了
“終了”。
声が戻らなくても、
終了は終了だ。
透は、二枚の紙を並べた。
同じ日付。
同じ部署名。
同じ印鑑。
ここで、透は理解してしまった。
数に入らなかった人間は、
存在しなかったことにされる。
数に入った人間は、
存在したまま、固定される。
どちらも、制度通りだ。
どちらも、想定内だ。
透の喉が、ゆっくりと渇いていく。
だが、息は乱れない。
これは事故じゃない。
失敗でもない。
世界を揺らさないために、
人を“扱える形”に分けているだけだ。
透は、自分がいま何を考えたかに気づいて、
ほんの少しだけ、背中が冷えた。
——ああ。
この制度は、
人を救う必要がないんだ。
救われたように見えれば、それでいい。
その瞬間、
透はもう一つのことにも気づいてしまう。
自分は、
この二種類の“数”を
どちらも、正しく説明できてしまう側にいる。
説明できるということは、
使えるということだ。
透は、二枚の紙を重ねた。
重ねると、
どちらが軽かったのか、分からなくなる。




