第9話 C層接続者・日常崩壊
朝、男は声を出そうとして、息だけを吐いた。
空気は出る。
喉も動く。
胸も膨らむ。
だが音がない。
最初は寝起きの乾きだと思った。
夜、あまり眠れなかったからだろうと、水を飲んだ。
喉を鳴らし、咳払いをし、もう一度息を整える。
――それでも、出ない。
昨夜、医療院で言われたのは「夜間のみ」だった。
発声衝動が強まる時間帯だけ。
眠っているあいだだけ。
朝になれば解除される。
そう説明された。
だから、戻らないことのほうが想定外だった。
腕輪を見る。
沈黙している。
警告も、制限通知も、点灯しない。
解除の表示もない。
ただ、何もない。
それが一番、分かりづらかった。
男は喉に触れた。
冷たい。
閉じている感触が、まだ残っている。
声を出そうとすると、
喉の奥で何かが引っかかる。
引っかかるだけで、
世界は揺れない。
――だから、問題にならない。
男はそのまま家を出た。
仕事はできた。
指示は紙で受け取れる。
同僚も、特に何も言わない。
「最近、多いからな」
誰かがそう言った。
それで終わりだった。
昼前、腕輪が微かに熱を持った。
皮膚の内側を撫でるような振動。
男は反射的に倉庫の隅へ移動する。
音を出さなくて済む場所を、
無意識に選んでいる自分に、少しだけ苛立つ。
腕輪の表面に文字が浮かぶ。
通知:発話制限措置 解除
対象者:***
区分:C層接続者
措置内容:夜間限定・発話制限
状態:安定
処理:解除完了
解除完了。
男は、その文字を見つめた。
解除された。
そう書いてある。
――なら。
男は、声を出そうとした。
出ない。
喉は動く。
息も吐ける。
だが音だけが、どこにも立たない。
もう一度、深く吸って、吐く。
「……ぁ」
掠れた空気が漏れただけだった。
男は、腕輪を叩いた。
問い合わせの操作。
返答はすぐに来た。
現在、追加措置は確認されていません
発話機能は正常です
違和感がある場合、経過観察を行ってください
正常。
その言葉を見た瞬間、
男の背中に、じっとりと汗が滲んだ。
声が出ないのに、正常。
記録上は解除されている。
問題は解決している。
問題があるのは、
自分の感覚だけだ。
男は腕輪を下ろした。
誰に言えばいいのか分からない。
何を言えばいいのかも分からない。
声が出ない、という事実は、
解除完了の文字一つで、
“個人の違和感”に押し戻される。
家に帰ると、妻が言った。
「解除されたんでしょ?」
男は頷いた。
「よかった。じゃあ、もう大丈夫ね」
大丈夫。
その言葉は、
男の胸を軽くすると同時に、
何かを切り落とした。
夕食の間、男は一度も声を出さなかった。
だが、誰も困らなかった。
頷き。
身振り。
紙に書いた短い言葉。
それで、日常は回る。
夜、布団に入ってから、
男は喉に手を当てた。
解除されている。
問題はない。
なら――
声が出ないほうが、
おかしいのは自分だ。
そう考えるほうが、楽だった。
――――――
一方で、
別の通りに住む女には、通知すら来なかった。
朝、子どもを起こそうとして、
口を開き、息だけが漏れた。
昨日まで声はあった。
医療院に行ったこともない。
制限の説明も受けていない。
腕輪は沈黙したままだ。
警告も、解除も、
最初から何も存在しないかのように。
女は医療院へ行こうとして、
入口で立ち止まった。
――何て言えばいい?
声が出ない。
通知もない。
制限された証拠がない。
“声が出ない”だけで来る人間は、
最近、少なくない。
皆、同じ顔で帰ってくる。
「経過観察です」
その一言で。
隣人に会った。
「うちは夜だけ切られたわ。通知も来た」
女は、喉を押さえて頷いた。
来ていない。
何も。
「じゃあ、気のせいじゃない?」
気のせい。
便利な言葉だ。
説明がいらない。
責任も生まれない。
夜になっても、声は戻らない。
だが、誰も困らない。
子どもは慣れ、
近所は気にせず、
街は静かだ。
揺れていない。
治癒も通っている。
世界は、安定している。
女は思った。
――通知が来ないということは、
切られていないということ。
切られていないなら、
異常は自分の側。
異常が自分なら、
我慢するしかない。
そう考えるのは、
とても自然だった。
その月の集計には、
彼らは載らなかった。
C層発話制限件数:十九。
解除完了率:98.4%。
通知が出なかった人間は、
最初から数に入らない。
解除されたが戻らなかった声も、
“正常”として処理される。
世界は静かだ。
揺れは減っている。
だから、成功している。
成功しているから、
数えない。
数えないから、
存在しない。
男も、女も、
その日も、
声を持たないまま、
生活を続けた。
声がなくても、
世界は回る。
それが証明されてしまった。




