第8話 運用
療養院の廊下は、昼間でも体温を奪う。
壁に触れなくても、冷気が皮膚の内側に染みてくる。
透は歩きながら、自分の足音の間隔を意識していた。
一定だ。乱れていない。
それが、少しだけ不気味だった。
落ち着いている。
あの路地の夜より、ずっと。
――落ち着いてしまった。
白衣が立ち止まった。
足裏が床に吸いつくように止まり、透も半拍遅れて止まる。
「この件です」
差し出された石板は薄く、軽い。
だが、触れた瞬間、指先がじわりと汗ばむ。
冷たい石のはずなのに、なぜか熱を持っているように感じた。
【対象:C層接続者】
【症状:不眠・独語・発声衝動】
【現時点で揺れ未確認】
未確認。
その文字を二度読み、三度目で、透の喉が無意識に締まった。
――まだ、だ。
白衣の背後、廊下の奥から、低い声が聞こえた。
怒鳴り声ではない。
言い争いでもない。
押し殺した声が、擦れるように漏れる。
直後、魔法灯が一度だけ、ぱち、と瞬いた。
「……揺れは?」
透の声は自分でも驚くほど平坦だった。
平坦だからこそ、内側の違和感がはっきりする。
白衣は即答した。
「数値上は問題ありません」
数値上。
その言葉が、路地で見た勇者の姿と重なった。
喉を押さえ、声を飲み込み、呼吸だけで世界を揺らしかけた、あの姿。
透は、自分でも気づかないまま、喉元を撫でていた。
「勇者ではありません」
白衣が補足する。
「一般の接続者です。C層です」
勇者ではない。
英雄ではない。
剣も持たず、結界の中心にも立たない。
だから、多少の乱れは“事故”として処理できる存在。
透の胸の奥で、何かが静かに切り替わる音がした。
「どうします?」
白衣の声は、命令ではない。
判断を預ける声だ。
透は石板の縁を、指でなぞった。
角が立っている。
小さな痛みが、現実を引き戻す。
「……同意は」
「本人は説明を拒否しています」
拒否できている。
まだ。
透は一度だけ目を閉じた。
路地裏の勇者の荒い息が、脳裏に浮かぶ。
寒さと熱が同居した呼吸。
出したら壊れると、本人が分かっている顔。
「揺れが出てからでは遅い」
言葉にした瞬間、自分の声の冷たさに気づく。
冷たい。
医療の声だ。
白衣が、わずかに眉を動かす。
「予防的に?」
「ええ」
透は頷いた。
頷いた瞬間、胃の奥がひくりと縮む。
だが、もう止まらない。
「短時間でいい。夜間のみ。
発話の“縁”だけ切る」
縁を切る。
切断ではない。
切除でもない。
責めないための言葉。
人間性を否定しないための言い換え。
――弱いからではない。
結界を安定させられない状態を、人格から切り離すための語彙。
白衣は一拍だけ沈黙した。
その間、透は自分の呼吸を確かめる。
乱れていない。
「制度上は、可能です」
その一言で、何かが確定した。
透は自分の掌を見る。
汗はない。
震えもない。
「……進めてください」
言い切った。
その事実が、胸の奥に小さな手応えとして残る。
守った。
守ったはずだ。
だが――選んだのは、自分だ。
その感覚が、罪悪感よりも重く沈む。
透は廊下の窓から外を見た。
街は静かだ。
静かすぎる。
声が出る前に、切られたからだ。
白衣が歩き出す。
透も続く。
歩きながら、ふと、気づく。
――今の判断。
犠牲ではない。
合理的で、配慮的で、世界の安定のため。
奉声の記録と、同じ構造だ。
その瞬間、背中に薄く汗が滲んだ。
理解ではない。
これは、操作だ。
透は、初代在来勇者の奉声を、
無意識に――使ってしまった。
そのことに気づいたのは、
もう、引き返せないところまで来てからだった。




