『グエー死んだンゴ』
ネットニュースで知ったが、ガンで亡くなった人が、予約投稿で死後に「グエー死んだンゴ」と呟いたらしい。ちなみに「グエー死んだンゴ」というのはネットの掲示板発のネタ的な言葉だ。
X上の時系列としては以下の通り。
「多分そろそろ死ぬ(本人のツイート)」→本人が亡くなり、友人が代理で訃報をツイート
→「グエー死んだンゴ(予約投稿)」
私は経験的に、ネットでバズったニュースというのに嫌悪感を感じてしまうのだが、今回の件については(なかなか面白い)というか(粋な事をする人がいるんだな)という印象を持った。
調べてみると、亡くなったのは闘病中だった「なかやま」という男性で22才だったらしい。
私自身は自分もそう遠くないうちに死ぬと思っているので、最近は、死んだ人への同情というのは薄くなっている。
ただ今回の件では、22才は、あまりにも若いな、という印象を持った。ただこの人がどういう人かはわからない。
最近、私は日本のメディアを信用していない。殺人事件が起きると、日本のメディアはすぐに「加害者=悪人」「被害者=善人」という前提でインタビューなどを組むので、それこそこうした偏向報道は全く参考にならないので、今回の「グエー死んだンゴ」と呟いた人もどういう人かはわからない、と考えている(ネットではおそらく美化して語られているだろう)。
ただ私がこのニュースを見て感じたのは(なかなか、今の若者にしては粋な事をするなあ)という事だった。
ニュースを見て私が思い出したのは立川談志だった。談志も、この青年と似ていて、自分が死んだら『談志が死んだ』と書け、と各新聞社に言っていた。実際、談志が死んだ時にはそういう報道が出た。これはもちろん「だんし」と「しんだ」を掛けた洒落である。
こうした事は、深読みすれば一種の人生観とか、死生観とかいった話になるが、今回のエッセイではそこまで深掘りはしない。
ただ、この「なかやま」という青年が22才という若さで、ガンで亡くなり、世に恨みつらみを述べて死ぬのではなく、自分の死という、本人にとって一番重大な事実で一ボケかまして世を去る、というのは、なかなかできる事ではないというか、現代にしては珍しく「粋」じゃないかと思った。
ちなみに現代では「粋」という言葉自体がもう死にかかっている。
例えば、私はひろゆきやホリエモンを見ていると「野暮」という印象を持つ。正論で相手を木っ端微塵に叩く、というのは粋ではない。どっちかというと「野暮」だろう。
何故正論で相手を叩きのめすのが野暮なのか。それは人生というのは正論だけでは渡りきれない、解釈しきれないものだからではないか。
今の世の中は、正論という正義の刀で相手をズタズタに切り裂くのを見て喜んでいる「子供」が多数いる、という状態だ。子供が天下を取ったので大人の論理は排除されたと言ってもいい。
そういう中で、死んだ後に予約投稿して「グエー死んだンゴ」と一ボケかます、というのは粋というか、若くしてなかなかできるものではないなと感じた。
おそらく、私が22才で死ぬ羽目になったら、自分だけがどうしてこんな理不尽な目に合わなければならないのかについて呪いの言葉を吐いて死ぬだろう。そう考えると「なかやま」という青年はなかなか達観しているとも考えられる。
しかし、せっかく死者が自分の死でもって一ボケかましてくれたのだから、それに対して真正面から笑ってあげるのも、礼にかなった事ではないかという気もする。
沈鬱な表情で同情心を持って死者の周りを囲んでいる人たちもどうせいつかは死ぬのだ。どうせいつかはみんな死ぬのだったら、この死を笑いに転換して世を去るのもなかなか爽やかな事には違いない。
私としては今度のネットニュースは、久しぶりに現代の傾向とは違う、「粋」な行為を見せられた気がした。




