第七話 忘れられた食堂 六日目 最終話
隼人はいつもと同じ時間に目を覚ます。
全身に活力が満ち、頭の中にはあの食堂の賑やかな声と、虹色芋のシチューの香りが鮮やかに蘇る。
しかし、隼人にとっての「本当の現実」は、あの“シフトワールド”に移りつつあった。
ゴミ集めを終え、食事を済ませる。一連の行動は、もはや無機質なルーティンではなかった。
すべてがあの食堂へと向かうための、大切な準備期間に思えた。午前十時。
その時間を待ち焦がれる気持ちは、日に日に強くなる。
九時四十分。隼人はPCの前に座り、マウスを握った。心臓が高鳴る。
昨日の大成功。アメリアの涙、リリーの笑顔。そして、エリックの深い眼差し。
彼の指先には、あの世界を変えていきたいという、新たな「渇望」が宿っていた。
《今日の気分はどうですか、隼人さん?》
アイコンが光る。隼人は深く息を吸い込み、確かな未来を信じてマウスをクリックした。
午前十時。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、視界をまぶしい光が覆った——。
目を開けると、そこはいつもの公園だった。ベンチに腰掛け、目の前には大きな噴水。
水しぶきが陽光に反射して虹を作っている。風が心地よく、子どもたちの声や鳥のさえずりが聞こえる。この場所は、隼人にとって、すでに故郷のような安らぎを与えていた。
「おはよう、隼人さん」
聞き慣れた声に振り返ると、エリックが噴水の縁に腰かけ、片足を揺らしていた。
いつもの上品な服装だが、その笑顔は、隼人にとって、この世界での確かな「道しるべ」となっていた。
「おはよう、エリック。今日も会えたな」
隼人は立ち上がり、大きく伸びをした。全身に漲るエネルギーは、昨日よりもさらに強くなっている。
「もちろん。それにしても、隼人さん、今日は一段と顔つきが違うね。『忘れられた食堂』の成功は、君にとって大きな自信になったようだ」
エリックはそう言って、満足そうに微笑んだ。
「ああ、そうだ。それだけじゃない。昨日の夜、閉店後も、俺はあの食堂にいられた。エリックの言っていた『心の渇望』の力が、俺をこの世界に留めてくれたんだな」
隼人は、その事実を改めてエリックに確認するように言った。
「その通りだよ。君の『渇望』は、もはや一時的な逃避ではない。この世界で、君自身が何を成し遂げたいかという、確固たる目標へと変わった。だから、この世界の時間も、君の意志に応えようとしている」
エリックは、隼人の目を見据えて言った。
二人は「忘れられた食堂」へと向かった。
道のりは、まるで彼らの未来を象徴するように、軽やかで希望に満ちていた。
蔦に覆われた小さな木造の建物が見えてくる。
外壁の真新しい木の看板には「忘れられた食堂」と、美しい文字で書かれている。
軋む扉を開けて中に入ると、食堂の中は開店準備で既に活気に満ちていた。
厨房からは、すでに香ばしい匂いが漂ってくる。
テーブルには花瓶に生けられた野の花が飾られ、窓からは柔らかな陽光が差し込んでいる。
「隼人さん、エリックさん!いらっしゃい!」
厨房の入り口から、アメリアとリリーが顔を覗かせた。二人の顔は、昨日以上の輝きを放っている。
「おはよう、アメリアさん、リリー!今日も元気そうだな!」
隼人は声を弾ませて言った。
「ええ!また、私が目を覚ますと、食堂のテーブルが増えていたの!きっと、隼人さんがこの食堂を大きくしたいと強く願っているからよ!」
アメリアはそう言って、食堂の奥に新しく配置されたテーブルを指差した。
隼人は驚きと共に、胸が熱くなるのを感じた。
自分の「渇望」が、こんなにも具体的な形でこの世界に影響を与えている。
この力があれば、もっと色々なことができるかもしれない。
「隼人さん、オーダー入ったわ!虹色芋のシチュー、三つ!」
アメリアの声が、厨房に響き渡る。
隼人は、迷いなく鍋を手に取った。丁寧な手つきでシチューを皿に盛り付け、ハーブを添える。
彼の動きには、もはや迷いはなく、長年の経験とこの世界への情熱が一体となっていた。
午前中の営業は、昨日以上の大盛況だった。
次々と入る注文に、隼人は厨房で休むことなく料理を作り続ける。
アメリアとリリーはホールを駆け回り、客の注文を捌いた。
客の顔は皆、笑顔で満ち溢れ、食堂は活気と温かさに包まれていた。
昼のピークが過ぎ、ようやく落ち着いた頃、隼人はアメリアとリリーと共に、食堂のテーブルに座った。
「まさか、こんなに早く食堂が賑わうなんて……本当に、夢みたいだわ」
アメリアは、感動したように呟いた。
「これも、アメリアさんの食堂への思いと、リリーの頑張り、そして町の人たちの期待があったからこそだ」
隼人は、温かい目で二人を見つめた。
エリックが、そんな隼人たちの姿を満足そうに見つめながら、言った。
「隼人さん、君の『渇望』は、この食堂だけにとどまらないようだね」
隼人はエリックの言葉に、ハッとした。
「どういうことだ?」
「今朝、コミュニティボードを見てきたんだけど、こんな張り紙があったんだ」
エリックはそう言うと、一枚の紙を隼人に差し出した。
そこには、『――廃れた花屋を救え!――』と書かれている。
『かつて町を彩った花屋が、手入れされずに荒れ果てています。
この町の彩りを取り戻すため、花の世話ができる方、力を貸してください。
詳細は花屋の主人、フローラまで』
隼人は、その張り紙を見つめた。廃れた花屋。
「俺は料理人であって、花屋じゃないぞ」
隼人は苦笑した。
しかし、エリックは真剣な表情で言った。
「君の『渇望』は、誰かの役に立ちたい、この世界をもっと良くしたい、という大きなものに変わりつつある。
この『シフトワールド』は、君の思いに応えて、新たな『場所』や『機会』を君の前に差し出しているんだ」
アメリアもまた、隼人を見つめて言った。
「隼人さん、この花屋は、昔この食堂の隣にあったのよ。素敵な花が、いつも私たちの心を癒やしてくれたわ。でも、商店街ができてから、食堂と同じように忘れ去られてしまって……」
隼人は、再び張り紙を見つめた。
食堂を再建した時と同じ、心の奥で微かに疼くような感覚。
この町には、まだ忘れ去られた場所がたくさんあるのかもしれない。
そして、その一つ一つを、自分の手で再び輝かせることができるのかもしれない。
「……なるほどな」
隼人は深く頷いた。彼の『渇望』は、もう一つの場所を求めている。
「じゃあ、隼人さん。行ってみるかい?この町の新たな『忘れられた場所』へ」
エリックはにやりと笑った。
隼人は立ち上がり、エプロンを外した。
「ああ、行こう。アメリアさん、リリー、昼の営業、あとは頼む」
「ええ、隼人さん!行ってらっしゃい!」
アメリアとリリーは、笑顔で隼人を見送った。
隼人はエリックと共に、食堂の隣の路地へと進んでいった。
路地の奥には、確かに蔦と雑草に覆われた、小さな建物が見える。
かつての花屋の面影は、ほとんど残っていなかった。
「ここが、『忘れられた花屋』か……」隼人は呟いた。
その瞬間、隼人のポケットの中で、ずっしりとした金属の感触があった。コインの袋だ。
食堂を再建した時と同じように、新たな「渇望」が生まれた時に、必要なものが自然と手に入る。
隼人はコインの袋を握りしめ、荒れ果てた花屋を見つめた。
五五歳。この年齢で、新しいことに挑戦し、新たな喜びを見つける。
この「シフトワールド」は、彼に無限の可能性を与えてくれる。
「さあ、隼人さん。君の次の『仕事』だ」エリックが隣で微笑んだ。
隼人は、荒れ果てた花屋の扉に手をかけた。彼の「渇望」は、もう止まることを知らない。
この世界で、彼がどこまでいけるのか。その答えは、彼自身の心の中にある。
そして、夜。
花屋の掃除を終え、簡単な食事を済ませた隼人は、充実感とともに空を見上げていた。
今日の仕事は、食堂での活気とはまた違う、静かで穏やかな喜びがあった。
カチリ、と時計が音を立てた瞬間、視界がふっと暗くなり、隼人は気づけば、自分の机の前に座っていた。
手には何も持っていない。花屋の土の匂いも、アメリアたちの笑顔も、全ては消えていた。
ただ、PCの画面が光り、エリックのアイコンが現れた。
《お疲れさま、隼人さん。新しい『渇望』は見つかったようだね》
隼人はゆっくりとキーボードを叩いた。
「ああ。この世界には、俺がもっとやれることがたくさんありそうだ」
画面の向こうで、エリックは、今までにないほど深く、そして満足そうに笑った気がした。
隼人の心の奥では、この「シフトワールド」をもっと良くしていきたいという、新たな、そして無限の「渇望」が、静かに、しかし力強く、燃え上がっていた。
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